正定寺由来板(PDF)
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平成23年初午会
寶林稲荷の由来 正定寺のお稲荷さんは、享保2年(1717)(300年前)に正定寺第八世住職の寛道崇廣和尚さんにより建立されました。 禅宗では寺院の鎮守さまとしてお祀りされています。 このお稲荷さまの正式なお名前を「寶林荼吉尼白晨狐王菩薩(ほうりんだきにはくしんこおうぼさつ)」と云います。 その菩薩様は、「巾着」に姿を変えてお祀りされています。 嘉永3年(1850)(167年前)の「正定寺年中行事」に『二月初午之日小豆飯添菜献膳之事』と記されています。 現在お祀りされている場所は、お稲荷様のお堂が建っていたので、今でも「堂屋敷」と云う地名です。 本年の初午は3月16日でしたが、21日のお中日に彼岸の法要と一緒に「初午法要」を致しました。 普段は稲荷堂に安置されている「寶林荼吉尼白晨狐王菩薩」は位牌堂に移動され法要を終えたあと 元の稲荷堂に安置されます。 この日は位牌堂へ安置されて法要が営まれました 正面の鏡の前に「巾着」があります。この巾着が菩薩さまです 法要後には元の稲荷堂へ安置されます


晋山式までのみちのり
晋山式までのみちのり【徒弟:とてい】 住職の大切な事柄に「弟子」を育てる仕事があります。 「雛僧教育(ひなそう)」とは小さいときから寺の仕事や専門道場(僧堂)での修行を通して 仏の弟子を自覚をさせる事です。 明治以前の禅寺は妻帯が許されていませんでした。 寺には住職と小僧さんだけで寺庭(奥さん)は明治以降に登場して今では僧侶と共に 寺院布教を担う事になりました。 現在では弟子のほとんどが「らこ(実子:羅睺羅尊者からの呼び名)」ですが、 住職との関係は「親子の関係」ではなく「師弟の関係」としての法脈を重んじます。 もちろん、専門道場や由緒寺院などでは、今でも多くの弟子が小僧として、また雲水として修行しています。 正定寺では 第20世鐵山和尚の徒弟として 「久寿米木鉄禅(四国:東禅寺)」・「羽田鉄堂(宇目:崇圓寺)」 「大島玄格(願王庵)」・「監物元茂」・「松村顕法」・「平了慰」・「鶴野大心」・「工藤友邦」・「石田顕戒」 「清見徳常」・「山地譲心」など、その後に住職した方から還俗した方まで大勢いました。 第21世千巌和尚には 「森照堂(延岡:和合寺)


毛利家第13代毛利高範
維摩居士の「一黙雷の如し」の軸ですが、昭和57年に一黙を損失してしまい、今では 「雷の如し」の部分しかありません。 この軸は、佐伯藩最後の城主である第13代毛利高範(もうり たかのり)公が明治27年(1894)(123年前) 27才の時に書したものです。※最後の藩主は第12代毛利高謙(たかあき)公です。 慶応2年(1867)12月5日生まれで昭和14年(1939年)6月12日に東京の自邸で74歳で逝去しました。 肥後宇土藩主細川行真の長男として熊本に生まれ、豊後佐伯藩主毛利高謙の養子となり、 明治10年(1877年)家督を相続、明治17年(1884年)子爵となり華族に列せられました。 明治21年(1888年)ドイツに留学、速記術を研究、帰国し宮内省式部官に任命され 佐伯に帰り日本語速記の研究を続け、大正9年(1920年)毛利式速記術として発表、 速記学校を設立して教授しました。 妻は越後与板藩第10代藩主:井伊直安公の娘であり、長女の千代子さんは近衛文麿に嫁ぎ、 後に近衛文麿公は内閣総理大臣になります。 毛利高範公