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教   え

妙心寺開山堂

正定寺は臨済宗(禅宗)妙心寺派の寺院です。(歴代の管長はこちら)

 

本山の妙心寺は建武4年(1337年)(680年前)第95代花園法皇さまの勅願によって

創建されました。

妙心寺のご開山無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。

 

インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を

宗旨・教義としています。

 

自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、

開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の

聖旨による仏法興隆を実践します。

 

生活信条

一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう

人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう

生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう

 

信心のことば

わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう

衆生は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう

社会を心の花園と念じて、和やかに生きましょう

妙心寺の歴史

花園法皇は宗峰妙超に参禅し、印可(弟子が悟りを得たことを師が認可すること)されています。

関山慧玄も宗峰妙超の法を嗣がれます。

宗峰妙超は、大燈国師で知られる紫野大徳寺の開山です。

 

建武4年(1337)、宗峰妙超は、病に伏し重態となられますが、花園法皇の求めに応じて、

宗峰妙超没後に花園法皇が師とされる禅僧に、弟子の関山慧玄を推挙され、

また、花園法皇が花園の離宮を禅寺とされるにつき、その山号寺号を正法山妙心寺と命名されます。

その年の12月22日、宗峰妙超は亡くなられました。

 

妙心寺では、この建武四年を妙心寺開創の年としています。

花園法皇は、妙心寺のそばに玉鳳院を建てられ、そこから関山慧玄に参禅されます。

暦応5年(1342)になりますと、花園法皇は仁和寺花園御所跡を関山慧玄にまかせられます。

これで妙心寺の寺基が定まるのです。

 

貞和3年(1347)7月22日、花園法皇は妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」にしたためられ、

翌貞和4年11月11日、世を去られます。五十二歳の生涯でした。

花園法皇が世を去られて三年、関山慧玄は、雲水の指導に専念されますが、

延文5年(1360)12月12日に亡くなられます。風水泉わきの老樹の下が、息をひきとられた場所です。

装いは行脚の旅姿であったと伝えられます。

遺骸が葬られた処、それが開山堂微笑庵の地です。

妙心寺 法堂天井 雲龍図

ご開山関山慧玄国師の300年忌を記念した法堂の
建造にともない、狩野探幽が55歳のとき、
8年の歳月を要して描きあげたとされる。

直径12mあり、龍の目は円相の中心に描かれるが、
立つ位置、見る角度によって、龍の表情や動きが
変化するように見え、
通称「八方にらみの龍」という。

重要文化財

やがて、妙心寺は、寺号を龍雲寺と改名されます。

妙心寺の寺名が消えるのです。妙心寺開創50年を経た頃のことで、開山没後わずか39年後の事です。

没収されて34年、その間の事は不明です。

龍雲寺と名をかえた妙心寺は、永享4年(1432)春に返されてきます。

尾張犬山の瑞泉寺から上京した日峰宗舜が、荒れた開山塔の地を整え開山堂を建てます。

ここに妙心寺の中興がなるのです。

 

戦国期の妙心寺は、発展への大きな転機を迎える時代です。

妙心寺の境内地が今日のように広くなるのは、永正6年(1509)のことです。

利貞尼という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進されたからです。

そこには、やがて七堂伽藍が建てられます。また、塔頭も創建されていきます。

とくに、塔頭では、龍泉庵、東海庵に加え、大永3年(1523)に聖澤院、大永6年(1526)には

霊雲院が創建されます。

 

これで、四派四本庵による妙心寺の運営体制が確立するのです。

四派とは、龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派をいいます。

四本庵は龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院のことです。

 

明治元年(1868)、神仏分離令が発布されます。

各地で廃仏毀釈が起こり、寺院の取り壊し、仏像、経典などが破棄されます。

妙心寺もその影響を受けますが、この明治期は、宗議会など今日に至る妙心寺の運営体制の基礎が

出来ます。

 

また妙心寺専門道場が設けられたり、今日の花園大学、花園高等学校の前身となる般若林が

開設されます。 

 

大正を経て昭和10年(1935)、妙心寺は開創六百年となります。

その後の昭和・平成期の妙心寺は、開創七百年への歴史を刻む時代です。

この期には、禅の大衆化や教化活動の促進がはかられ、各地での坐禅会開催、「生活信条」や

「信心のことば」の制定、おかげさま運動も起こされます。

また、僧風の刷新にもとりくまれます。これらは、記憶に新しい事です。

 

もう一つ、この期には、防災や諸堂の保存修理など文化保護の事業も進められます。

今日、勅使門、三門、仏殿、法堂、庫裡、開山堂、大方丈、小方丈、浴室、経蔵、塔頭天球院の

玄関・方丈、衡梅院方丈、霊雲院書院などをはじめ多くの重要文化財の指定建造物、

玉鳳院、東海庵、退蔵院、霊雲院、桂春院などの史跡・名勝指定の庭園などが

よく保存されています。

また、史跡・特別名勝の指定をうける龍安寺が、ユネスコ世界文化遺産に登録されてもいます。

 

このように、妙心寺は、関山禅の伝灯を堅持し、臨済宗最大の大本山として展開し、

且つ美しい寺観を呈している禅寺なのです。

妙心寺ご開山

関山慧玄(無相大師)

関山慧玄(1277~1360年)は信濃の人で、建治3年、信濃源氏の流れを汲む高梨家に生まれました。

高梨家は信仰心の厚い家で、とくに禅に心をよせた家柄でありました。

 

鎌倉に出て仏門に入り、徳治2(1307)年建長寺で大応国師(南浦紹明)に相見し、

慧眼という僧名を授けられました。

大応国師は翌延慶元(1308)年に示寂しましたが、その示寂後も鎌倉にとどまって修行に

専念しました。

 

嘉暦2(1327)年建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆)の50年忌法要が建長寺の西来院で営まれ、

関山も列席し、隣席の僧から「今日天下叢林中、明眼の宗師は宗峰和尚(大燈国師)である」と聞き、

そのまま鎌倉を去って、霧眠草宿、一路京都に向かい、紫野大徳寺の宗峰和尚に相見し、門弟として

入門しました。

 

大燈国師に相見し、ただちに「如何なるか、これ宗門向上のこと」と門法し、

国師が"関字"を答えましたが、

国師は関山の態度を見て「作家の禅客、天然自在」と称えたといいます。

 

作家とは禅を手に入れ、自由な創造性をもつ力量ある禅者のことであり、

それが天然にそなわっているというのです。

修行三昧であった関山はついに"関字"をさとり、その見解を国師に呈したところ、

国師はおおいに悦び、"関字"を透過したことを証明し、「関山」の号を授け、また諱の慧眼を

慧玄と改めました。

 

「関山号」は国宝として、妙心寺に所蔵されています。

関山の示寂は延文5(1360)年12月12日であり、世寿84歳でありました。

遺骸を艮(北東)隅に葬り、塔を建てて微笑塔といい、のち堂を造って、微笑庵と称しました。

これが開山堂で、堂に掲げる「微笑庵」という扁額は雪江の筆であります。

 

死寂に際しては、授翁を召し行脚に出るといい、二人相たずさえて、風水泉の大樹のもとにいたり、

関山が承けつぐ仏法の由来を語り、関山が花園法皇の勅請でこの寺を創開したが、

たとえ後世関山を忘却することがあっても、この応・燈二祖の深恩を忘却するなら、

わが児孫ではない。「汝等請う其の本を務めよ」と遺誡し、立ちながら亡くなったといわれています。

宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 関山道号(国宝)

妙心寺 法堂天井 雲龍図

ご開山関山慧玄国師の300年忌を記念した法堂の
建造にともない、狩野探幽が55歳のとき、
8年の歳月を要して描きあげたとされる。

直径12mあり、龍の目は円相の中心に描かれるが、
立つ位置、見る角度によって、龍の表情や動きが
変化するように見え、
通称「八方にらみの龍」という。

重要文化財

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