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沖縄学童疎開

正定寺は明治7年(1874)(143年前)に川原木小学校(現・直川小学校)仮校舎となっていました。

先の戦時下では、沖縄・具志頭学童疎開者(学童49名・教員2名・世話人2名)の受け入れ先として

地域の文化や教育の活動拠点として大きな役割を果たして来ました。

 

※川原木(かわらぎ) 仁田原(にたはら)

戦禍の沖縄に戻る前の旅行

終戦を迎え沖縄学童別府旅行記念写真

別府市旅行記念撮影

昭和21年(1946)10月1日 別府市太平旅館前にて

今から72年前

現在の太平旅館

正定寺の沖縄学童疎開

二十日前には「対馬丸」が潜水艦により撃沈されたばかりの昭和19年9月8日沖縄県具志頭村具志頭

国民学校の学童が沖縄戦渦より本土疎開のため那覇港を出発、二週間の船中を経て旧川原木村仁田原に

到着しました。

 

学童49名(高等科2年8名・高等科1年4名・小6年8名・小5年13名・小4年9名・小3年7名)と

引率教師2名・寮母及び世話人5名が昭和21年11月に沖縄に戻るまでの2年数ヶ月を

旧川原木村の正定寺で過ごす事になりました。

当時の住職が千巌和尚(せんがんおしょう)でした。

千巌和尚

昭和32年2月18日65才(本堂玄関前)

当時の住職である千巌和尚の恩返しと共に四十才前後を迎えた学童は昭和42年「沖縄正定寺会」を作って

本土復帰前に千巌和尚の招待を計画しました。残念ながら病に臥していた千巌和尚の招待は

なりませんでしたが、実子であった義弘和尚が昭和45年12月25日にパスポートを手に沖縄に向かい

当時の学童など55名の盛大な歓迎を受けました。

  

沖縄に戻った学童の中には家族を戦渦で失った者もありましたが戦後72年経った現在も当時の学童と

正定寺の交流は続いています。

このホームページを見た沖縄学童疎開の子孫にあたるお子さんやお孫さんとも平和の願いと共に長く

親交を得ることができれば幸いです。

 (第二十三世住職・小原寿山)

千巌和尚系図

昭和元年(91年前)に本堂前で撮った写真

 

左から千巌長女:澄代(8歳)・ヤエの姉:サワ(39歳)・鐵山和尚寺庭:松子(72歳)

千巌次女:喜美子さん(5歳)・千巌和尚(34歳)・千巌長男:義弘(当年)・千巌和尚寺庭:ヤエ(35歳)

サワ長女:米子(9歳)

昭和12年1月4日撮影(80年前)

後列左から 喜美子(14才5ケ月)・澄代(17才4ケ月)・林チエ(吉川チエ17才)・

前列左から 尾崎豊一(9才)・ヤエ(46才)・房子(4才7ケ月)・義弘(10才11ケ月)・千巌(46才)

中央の老夫婦が千巌和尚の両親で後列左が千巌和尚。千巌和尚は兄の万五郎とは双子です。

疎開学童との交流

学童の数え歌

終戦を迎えて沖縄に戻る事が決まり、別府温泉への旅。

住職・引率教師・疎開学童・同窓生の投稿

昭和46年の大分合同新聞に投稿

児童引率教師

沖縄正定寺会代表

川原木同窓生

川原木同窓生

児童引率教師の孫

昭和45年(1970)12月25日を伝える新聞

昭和52年(1977)8月4日の写真と新聞

昭和57年(1982)晋山式に学童来院

昭和58年(1983)2月沖縄へ同窓生が訪問

平成元年(1989)11月同窓生が沖縄訪問

平成7年(1995)戦後50年の平和授業に沖縄学童が小学校へ

戦後50年の平和授業に沖縄学童が小学校へ

具志頭小学校校長 赤嶺幸信先生

直川小学校校長:鴨尾利夫先生

現住職 小原寿山

戦後50年の平和授業感想文

戦後50年の平和授業感想文

戦後50年の平和授業感想文

戦後50年の平和授業感想文

戦後50年の平和授業感想文

戦後50年の平和授業感想文

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