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数え歌

アンカー 1

遠くふるさと沖縄を離れた子供達が作り歌っていた数え歌。

 

一つとや、人も知らない大分へ笑ってとんできた私たち。

二つとや、二親離れてきたいじょう、戦い勝つまで帰られぬ

三つとや、皆さん私の苦労見て、元気な生徒さんと言うだろう

四つとや、夜の電気がつくたびに、母のお顔が眼に浮かぶ

五つとや、いつも先生に起こされて、朝の行事をすませます

六つとや、向こうに見える停車場、乗っていきたい沖縄へ

七つとや、長い太平洋の荒波を渡って来ました私たち

八つとや、山中育ちの私達、お寺の麦めし好きになる

九つとや、ここで私が死んだなら、いかなる先生でもこまるでしょう

十つせ、とうとう戦い勝ちました、明日は沖縄へ帰ります

十一とせ、いちいち作ったこの歌は、元気な生徒さんが唄います。

終戦を迎え

アンカー 2

別府市旅行記念撮影

昭和21年(1946)10月1日 別府市太平旅館前にて

今から72年前

(昭和四十六年大分合同新聞より・・・義弘和尚投稿)

アンカー 3

私は咋年の暮れ、拙寺に昭和十九年秋より二年半、沖縄から疎開していた、かっての学童

五十六名に招かれ、沖縄で思いがけぬ、勿体ない歓迎を受け、楽しい日々を過ごさせて頂きました。

 

空路僅かに四十分、那覇に着いた私は、空港で私を迎える大勢の人波に驚かされ、

それからの一週間、村主催の歓迎会、疎開学童だった人々の集り「正定寺会」の歓迎会、その父兄の歓迎会、

等々で当時の話は尽きる事なく、夢の様な毎日でした。

 

新聞が伝える様に、沖縄は多くの問題を抱え、島民の日常は、本土に住む私達と比べると、過去も現在も

決して幸せではありません。

それ故特に感じたのが「生きる尊さ」と「教育の偉大さ」でした。

 

会の席上、具志頭の人々の話に依れば、当時、押し寄せる米軍の脅威、その中での命がけの本土への疎開。

生き別れして再び会えぬかも知れぬ親子別離の心情。

多数の子供の命を預る重大な任を引受けた教師の決意。

望まぬ闘いの渦中、散りじりになり乍ら、洞窟に潜み、飢えに耐え全島を廃虚ときれ、

而も戦後二十余年、米軍の占領下、差別や苦労を忍び、平和になって会える日を祈って生き抜いた、

一日々々だったとの事でした。

 

それ故に人々は今日あるを互に祝し、私の手を取って涙しました。

その感動は生きる尊さを私の胸深くに伝えました。

 

次に、教職を捨て、二年近く学童の世話に当った教師、森田先生の限りない愛の指導、身をもっての教えが、

今四十才近くになり、既に親となった人々の中で立派に生きている事でした。

疎開の時、先生は、自分の衣類をすべて脱いで子供の物にし、一粒の米、一個の芋を得るため、

夜までも子供の寝顔に気を配りながら山野を拓いて畑にし、又食糧と交換のため、佐伯の浜で塩を焼きました。

考えられるすべてを身を以って当ったのです。

 

子供のためには苦しい世間の風の全てを一身に受けてかばい、そして全員を無事沖縄に連れて

帰ったのです。その真心の指導を、私は今度の旅で次の事柄の中に見ました。

 

歓迎会の席上、学童代表は云いました「二年半の御恩は此の一週間で到底返せません。

しかし、私達に出来る限りの事はします」言葉少ない挨拶はそのまゝ実行されました。

 

私を案内しながら冷たい風はさりげなく人垣を作って防ぎ、夜はつもる話も打ち切ってそれとなく

私の疲れをかばい玄関に置かれた靴は誰がするともなく磨かれ、

レストランでは全員か私の食事が出来る迄は誰云うとなく待ち、常に一番安全な運転者の車に乗せ、

女の子はそっと寄って服の塵を払い、風が吹けばセーターを脱いで掛ける。

漬物好きの私に誰が届けたか鹿児島の漬物が送られ、

大分県戦没慰霊塔には二度も車を走らせ花束を持参する。

数え上げれば切りがありません‥そこには暖かい心が通い、幾度か私を感激させました。

 

あわただしい年の瀬を、一家の主人、主婦が常に二十名近く交替で尽すチームワークの良さ、

森田先生の人柄を知る私は、さりげなく親切を行えるこの人々を見て、

教育の真の姿を見た思いがしました。

 

空港で手を握り、涙を浮べて別れた、かっての学童やその親達の多くの人々を今思い浮かべ、

その人達に幸せの日が来る事を心より祈っています。(正定寺住職) 

 

昭和45年(1970)12月27日歓迎写真

氏名が間違っている場合はこちら

森田吉雄さん・沖縄学童疎開引率教師

アンカー 4

《正定寺山門》

下校路に『蜜柑の皮でも落ちていないだろうか』と眼を輝かせる学童たち………

国鉄線路を歩き柚の原トンネルの前で国道に下る。

お宮の前を過ぎると、もうすぐ正定寺下である。

ここからは、山の中腹に在る宿舎の伽藍は樹木の緑に包まれて見えないが、天に宙する「樅の木」の

大枝の下に鐘楼でもある山門が、頭上遥かから『お帰りなさい」と温かく迎えてくれる。

それは優しい母のお迎えにも似て、安らぎを覚えたものであります。

でも、山門に続く二百段余りの石段を一気に登ることは腹をすかしている学童らには

至難で休み休み踏みしめるようにして登ったもので、ここにたどり着くと、山門の柱に

こしかけひといきもたれ又は、石段に腰掛一息入れたのであります。

昭和四十二年頃、かつて学童らも成人し生活も落ち着いたので、『正定寺会』を作り、

疎開中慈父の如く慈み育ててくださった千巌和尚さんを沖縄に招待申し上げようと

計画しましたが、和尚さんは病床にふ伏しておられ、目的を達成することが出来なかった。

疎開当時大学在学中の義弘さんが帰省されると、子供らに取り囲まれて笑談しておられる姿を玄関の階段、

濡れ縁のところでよく見掛た。満たされない、すがりたい疎開生活であったが故に大変ほほえましく、

強く脳裏に残っております。

昭和四十五年十二月、義弘和尚さんを沖縄にお迎えして、

村長父母と共に歓迎申し上げ、

そして各地を案内する僅かの合間にも昔を今を語り合えたのは最高の歓びでありました。

昭和五十二年八月、学童らとその家族三十五名は千巌和尚さんの墓参で正定寺を訪れました。

一行が乗ったバスは裏門下に駐車されたのであるが、学童らは山門の石段道を急いで登ったのであります。

山門には数々の思い出が残っています。

 

(昭和四十六年大分合同新聞より・・・義弘和尚投稿)

那覇に着いた私は、空港で迫える大勢の人波に驚かされた。(中略)

教職を捨て、二年近く学童の世話に当たった森田先生の限りない愛の指導、身をもっての

教えが今四十才近くになり、既に親ととなった人々の中に立派に生きている。(中略)

歓迎会の席上、学童代表者は云いました。

「二年半のご恩は此の一週間で到底返せません。しかし、私達に出来る限りの事はします。」

言葉少ない挨拶はそのまま実行された。

私を案内しながら冷たい風はさりげなく人垣を作って防ぎ、夜はつもる話も打ち切てそれとなく私の疲れを

かばい玄関に置かれた靴は誰がするともなく磨かれ、レストランでは全員が私の食事が出来上がるまで

誰云いうとなく待ち、常に一番安全な運転手の車に乗せ、女の子はそって寄って服の塵をはらい、

風が吹けばセーターを脱いで掛ける。

漬け物好きの私に誰が届けたか鹿児島の漬物が送られ、大分県戦没慰霊塔には二度も車を走らせ花束

を持参する。

数え上げれば切りがありません。

そこには温かい心が通い、幾度か私を感激させました。

あわただしい年の瀬を、一家の主人、主婦が常に二十名近く交替で尽くすチームワークの良さ、

森田先生の人柄を知る私は、さりげなく親切を行えるこの人々を見て、教育の真の姿を見た思いがしました。

空港で手を振り、涙を浮かべて別れたかっての学童やその親たちに幸せが来ることを心より

祈っています。

 照屋孚美夫さん

アンカー 5

《沖縄学童疎開》

私は、五十有余年前正定寺に学童疎開としてお世話になった者の一人です。

当時小学校四年生の私も定年まで無事勤め終える事ができました。

これも、正定寺に疎開して沖縄戦の難から逃れ生を得たお陰だと感謝しているところです。

沖縄戦で肉親の誰かを亡くした疎開児童また、直前に疎開を止めた為に一家と共に亡くなった児童もいますが、

父母兄弟六人沖縄に残った者全員を亡くした私にとって疎開と正定寺には特別な感慨があります。

遠足気分で親元を離れ疎開生活の寂しさ苦しさに泣いたものですが、戦後帰郷した兄姉の語るところによると、

父は沖縄の激戦を予想し兄姉の年齢を考え血筋を残すために私を疎開させたと聞き只只涙するばかりでした。

疎開児童が集まり想い出を話題にすることは食べ物に関わることが殆どです。

出港から途中で船団を組む為の七日間に及ぶ待機を含む輸送船内の生活で空腹と喉の渇きに耐えられず、

蒸気の油臭い水滴を飲むなどの長い旅の後川原木駅に着き、夜分にも関わらず婦人会の皆様から頂いた

「しそお握り」のおいしかったこと、あの時の「しそ」の香りは今もって忘れません。

お寺での食事風景、当時の上級生は苦笑いをしますが、お椀に盛られたご飯またはお芋の量を目測し

量の多い席に着きそれから下級生が先を争って着席したものです。

また、学校の昼食時、軽くよそおったご飯が学校に着くまでに歩く振動で弁当箱の半分になるため、

これを弁当箱いっぱいに拡げて時間をかけて食べたこと等泣き笑いの想い出です。

なかでも心の痛む悲しい想い出は、学校の帰りに線路わきに落ちている蜜柑の皮を拾い、

休みの日には野山に入って桑の実を摘み軟らかい草の根・茎を食べていたが、寒くなるとそれも叶わず

周辺の農家の芋の種床を荒らしたことです。

空腹を満たすため農家の皆様に大変なご迷惑をかけ、また千巌和尚様にご苦労をかけた事を忘れてはならないと、

この時ばかりはしんみりとなります。

正定寺の疎開生活については、平成七年八月「学童疎開を考える平和学習」として御地の直川小学校において

小学生の皆様との交流会を持ちましたが、戦争の悲惨さと平和の尊さを感じとった感想文を読み、

また「広報なおかわ」・大分新聞にも紹介され正定寺の歴史の一ページとして若い世代に記憶され、

引き継がれることは、私たち学童疎開児童にとって望外の喜びであります。

「柳は緑花は紅人はただ情け」琉球古典音楽の一つです。

私たちはお世話になりご迷惑をかけた正定寺と直川村の皆様のご恩を生涯忘れることなく、

その絆を大切にしたいと思います。

沖縄は今元気です。

昨年の九州・沖縄サミットに始まり今年のNHK連続ドラマ「ちゅらさん」の放映と沖縄の元気・バイタリティ

そして平和を発信しています。

早や六十路の高齢者となった疎開児童も『正定寺会』を結成し偶に集まっては往時を偲び、

堺正章演じる「恵文」父さん程ではないが『ナンクルナイサ』(なんとかなるさ)と年金生活を楽しく過ごしています。

最後になりましたが、正定寺と正定寺檀家の皆様の益々のご発展を祈念いたします。

橋迫香代子さん

アンカー 6

《ブーゲンビリアの再会》

役員さんより、沖縄に行った時の事を書いてくれる様にと言われ、考えてみると女の人では

一番年長なので思い出して書いてみたいと思います。

直川に疎開していた人達との親善をかねた観光旅行に、さそわれて三十名の中に加えていただき、

昨年の十一月の末に行きました。

朝、皆が集まると、『沖縄は雨らしいなあ』と、天気を気にしていたのですが、天候は良く、楽しい旅が

出来ました。

空港に着いて一日目は、専念寺会と正定寺会に別れて行きました。

私達は、具志頭村のバスが迎えに来てくれ、和尚さんを先導に具志頭村に向いました。

当時、先生で来られていた森田先生(七十才)のガイドで、村のセンターに案内され、

村長さん、助役さん、教育長さん、皆さんの出迎えをうけて、村をあげての歓迎でした。

正面には「川原木校同窓会正定寺会」と大きな字で書いてあり、正定寺にかかわりを持っている人が、

沖縄にも多いのを、改めて知りました。

今、直川では余り聞かない「川原木」という言葉を度々聞き、懐しく思いました。

テーブルを囲んで、皆が顔を合せると、お互いに年はとっているが、四十年前の思い出のある顔ばかりでした。

村長さん方が、『戦時中お世話になりました。』とお礼の挨拶があり、

こちらから、村長さんの末長い親睦と交流をと言う意味のメッセージを送って戴き、

手作りの料理をご馳走になりながら、今の若い人には想像もつかない様な物資の少なかった

時代の事を語り合っていると涙が出ました。

森田先生のおっしゃるには、引きあげる時に、帰ったら引き取る人のない子供が出来るのではと

心配したが、そんな人は一人もなくて、良かったと話していました。

八十才を過ぎたお母さん達も何人が見えていました。

戦争で受けた何箇所もの傷あとを見せてくれて、子供達は川原木にお世話になっていたので、

戦は知らぬと話していました。

命がけで、子供を手放した時のつらかった事を涙ぐんで話していました。

寒さと飢えに苦労はしたが、其の苦労が有ったからこそ今では皆、良い地位にあり、

幸せな生活をしている事を知り、良かったなあと思いました。

川原木にいた時に、沖縄を思い出して歌っていたという数え歌を皆で涙を流しながら合唱しました。

二日目・三日目は観光コースで廻ったのですが、米軍の基地の広いのには驚きました。

何処でもブーゲンビリアが奇麗でした。砂糖畑が目につきました。

私は、ヒメユリ部隊の映画で水を求めながら死んでゆく場面を思い出し本土の水をお供えしようと

思って持って行き、合同慰霊碑にお供えしました。

喉を渇かした兵士達は、きっと古里の谷や川を思い出したでしょう。

指令所のあった壕の説明を聞き、追わるる身で壕の中で指導を取った人達の苦労を偲びました。

健児の像ヒメユリの塔では国の為に若い命を捧げた人達が可愛そうでした。

生きて居れば、私達と同じ位の年だがなあと思いました。

空港を立つ時間前になると、一昨夜お会いした人達が見送りに来てくれて、

「来てね」「行くからね」「元気でね」「皆さんに宜敷くね」と再会をちかって別れました。

現在の、平和で豊かな時代に感謝しながら、直川村に帰りました。

廣瀬博信さん

アンカー 7

《八月盆・敗戦・疎開》

今年一月から正定寺世話人の役を頂きましたが、何分にも浅学非才な身であります。

何事に付け至らぬ点も多々あることと思いますが、

正定寺様をはじめ先輩役員また檀信徒の皆様方の御指導とど協力をいただき責任と実行を基本として

世話人の役を勤めさせて頂きます。どうぞよろしくお願い致します。

早速ですが、此の度は、正定寺寺報に何か記載してはしいとの要望があり簡単にお引き受けしたものの

今日になっては、何の様なことを記載するべきかと、とても迷っていたんですが、

実は昨夜(六月三十日)TOSテレビの深夜番組で《今よみがえる沖縄戦の真実》と云うテーマで、

当時の沖縄の現実が放映されました。

その画面はとても悲惨な太平洋戦争の誤戦により先祖から受け継がれた大切な家・水田・畑・家畜

そして尊い命までが短時間で破壊されて殺されていく映像でした。

此の真実は、ただ言葉で戦争の「犠牲」とだけで片付けてはならないと思います。

一瞬のうちに破壊はできますが再建はとても長い年月が必要とされます。

沖縄では今なお再建に努力を重ねられているそうです。

戦時中の昭和十九年八月沖縄の具志頭国民学校(現小学校)の生徒四十九人が家族と別れ

本土の山間部、旧川原木村は正定寺へ集団疎開されました。

正定寺本堂へ寄宿され二年余の生活はとても食料物資の乏しい時代でしたが苦楽を共にしたものです。

その甲斐あって今は、きずなも固く結ばれ昭和五十八年二月正定寺住職様のど協力が実り

私達当時の同窓生四十五名が沖縄へ渡り久々の涙の再会に成功することが出来ました。

沖縄の皆様(沖縄正定寺会)との交流は増々深くなるばかりとなりました。

終戦の日が近づくとことさらに当時を思い出します。

森田邦之さん

アンカー 8

《僕の知らない祖父がいました》

 

とても大きな声が、私を呼びます。

ひとつひとつの言葉は、とても丁寧で熟考しながらゆっくり喋ります。

まるで、校長先生の朝の集会。

私の祖父である吉雄は、校長先生だったようです。

 

過去形なのは、私が1回も校長先生だった姿を見たことがないからです。

私にとってはごく普通のどこにでもいるありふれたおじいちゃんだと思っていました。

 

祖父はいろいろな経験をさせてくれたと思います。

新幹線の切符の買い方、釣りの仕方、散歩の仕方、ハエたたきの使い方・・・。

 

あるとき、僕は祖父に言いました。

「沖縄の日差しはとても暑いけど、フライパンを外においておいたら目玉焼きが出来ると思う。」

祖父は僕の馬鹿げた問いかけをまじめに聞いてちょっと微笑み、

「実際にやってみなさい」と言ってくれました。結果は内緒です。

 

祖父と弟と僕の3人で、仲良く釣りに行きました。

家の堆肥置き場でミミズを捕まえ、綺麗な澄んだ海のすぐそばにある小さな水溜りでした。

沖縄にもうなぎがいたのは驚きです。祖父もとてもびっくりしていました。

 

祖父は散歩が好きでした。とにかく地図を買って歩き回ります。

どこかに旅行に行くと、次の朝の早朝は必ず散歩に行っていました。

 

富士山に家族で行ったこともありました。家族5人と祖父の計6人だったと思います。

1人また1人と家族が脱落し、8合目を過ぎるころには、私と祖父の2人だけになっていました。

9.5合目でさすがの祖父もギブアップ。おまけに持ってきた1.5リットルのコーラのペットボトルの

ふたが自然に緩み、祖父のリュックの中をずぶずぶに濡らしていました。

「私はここで待っているから、頂上を見てきなさい」と言われ、頂上までは私一人で行きました。

おいてきた祖父が心配だったので走って行って20秒ほど火口を眺め、急いで降りてきたのを

覚えています。

 

沖縄疎開の話は、僕には一切しなかったのでよくわかりません。

親戚のおじさん、おばさんや、両親からの情報がすべてでした。

そんなとき、インターネット上で祖父の名前で検索をかけ、正定寺さんを知りました。

 

僕の知らない祖父がいました。

知らない写真がありました。

僕の知らない祖父がそこにいました。

 

私と祖父の思いでは、語りつくせぬほどたくさんありますが、正定寺さんのインターネット上の情報で、

私の中で一段上の説得力と納得を感じさせてもらえました。

このような機会を与えてくださった正定寺住職様に感謝いたします。

ありがとうございました。

昭和45年(1970)12月25日戦後初めての沖縄訪問

アンカー 9

昭和52年8月4日 沖縄本土復帰で31年ぶりに正定寺へ

アンカー 10

昭和57年晋山式に学童来院

アンカー 11

昭和58年2月沖縄へ同窓生が訪問

アンカー 12

平成元年11月同窓生が沖縄訪問

アンカー 13

平成7年戦後50年の平和授業に沖縄学童が小学校へ

アンカー 14