正定寺の境外仏像と四方庵
正定寺の末庵は宝暦11年(1761)(256年前)に、第十世真鏡和尚が墨筆した「宝林先住記録」や
天保年間(1830~1844)に第十六世珍宗和尚が記したものなど数冊があり、新しいものでは
明治5年(1872)当時の四方庵をはじめ各末庵の住僧(庵主)略歴などがあります。
江戸時代に幕府に提出された古記録に「正定寺末庵二十一ケ庵、江戸官辺御尋有之二間三間書出」と
記されています。(印刷用PDF)
仁田原村・赤木村・上直見村・下直見村に正定寺の末庵があり、江戸時代には神社の数が71社・
庵の数が31堂ありました。現在は、神社19社・庵29堂が現存しています。
本寺(旦那寺)は三ケ寺あり、寶林山正定寺(当山)が20堂を有し、
他に「無量山専念寺(浄土真宗・大谷派)」が4堂を「東曄山善正寺(浄土真宗・大谷派)」が
5堂を有しています。
宝暦11年の古記録
宝暦11年(1761)(256年前)の古記録
次の宝暦11年末庵記録は、第十世真鏡和尚が墨筆して残したものです。
宝暦11年の記録に加筆された天保10年(1839)(178年前)の永田庵移転記載は
第16世珍宗禅味和尚が記しています。
また、永田庵の半鐘は正定寺の本堂にかかっています。
文化元年(1804)(213年前)の記録は第15世規山古範和尚の筆です。
正定寺の境外仏像と四方庵
正定寺には末庵が21庵ありました。現存する宇堂は20庵です。
庵は「御條目」が発せられた江戸期に各小字(集落)に建立されました。
宝暦11年(1761)の先師古記録には「仁田原西方高地に建立された正定寺の仏法護持を成すため」に
東西南北の方角に守護仏が配されました。その東方に配されたのが薬師如来です。
愛敬山東光庵 本尊薬師如来
所在地:佐伯市直川大字仁田原字下次郎
この庵は「正法山妙心禅寺宗派図」に未等地として記載されています。
廃仏毀釈の明治初期に第19世東巖周敦和尚が四方庵を存続させるために尽力した申請書類が
正定寺に残っています。その所轄官庁への申請書類の下書きなどから存続への先師の苦労が伺えます。
廃仏毀釈を免れた後は正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼務して存続させてきました。
昭和26年以降は妙心寺派正定寺に帰属した庵として現在に至っています。
正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼任
庵周辺は集落戸数3戸の檀信徒で管理されています。
建物は老朽化して現在は住僧はいません。
又、本尊は盗難にあって現存していませんが、本尊の代わりとして
小さな仏像が安置されています。
正定寺に残っている徒弟記録には、
安政6年(1859)に正定寺で得度した古市村出身の佐脇小佑七男、
全慧和尚が文久元年(1861)に住職した事が記されています。
現在は、隣接する小野家当主が周辺を整備して数年後には桜や紅葉
を植えて様々な草木が育ち、子孫も大切にお祀りすることが
出来るようにと供養して頂いています。
正定寺には末庵が21庵ありました。現存する宇堂は20庵です。
庵は「御條目」が発せられた江戸期に各小字(集落)に建立されました。
宝暦11年(1761)の先師古記録には「仁田原西方高地に建立された正定寺の仏法護持を成すため」に
東西南北の方角に守護仏が配されました。その西方に配されたのが阿弥陀如来です。
得度山西光庵 阿弥陀如来(本尊)
所在地:佐伯市直川大字仁田原字杭ノ内
佐伯四国:87番・55番奥の院札所
この庵は「正法山妙心禅寺宗派図」に未等地として記載されています。
廃仏毀釈の明治初期に第19世東巖周敦和尚が四方庵を存続させるために尽力した申請書類が
正定寺に残っています。その所轄官庁への申請書類の下書きなどから存続への先師の苦労が伺えます。
廃仏毀釈を免れた後は正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼務して存続させてきました。
昭和26年以降は妙心寺派正定寺に帰属した庵として現在に至っています。
正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼任
庵周辺は集落戸数7戸の檀信徒で管理されています。
建物は十数年前に建て替えられました。
現在は住僧はいません。
正定寺に残っている徒弟記録には、
文久3年(1863)に正定寺で得度した肥前井手野大福寺(真宗)
の次男全喜和尚が元治元年(1864)に住職した事が記されています。
正定寺には末庵が21庵ありました。現存する宇堂は20庵です。
庵は「御條目」が発せられた江戸期に各小字(集落)に建立されました。
宝暦11年(1761)の先師古記録には「仁田原西方高地に建立された正定寺の仏法護持を成すため」に
東西南北の方角に守護仏が配されました。その南方に配されたのが地蔵菩薩です。
宝盈山願王庵 本尊地蔵菩薩
所在地:佐伯市直川大字仁田原字黒沢向
佐伯四国:55番札所
この庵は「正法山妙心禅寺宗派図」に未等地として記載されています。
廃仏毀釈の明治初期に第19世東巖周敦和尚が四方庵を存続させるために尽力した申請書類が
正定寺に残っています。その所轄官庁への申請書類の下書きなどから存続への先師の苦労が伺えます。
廃仏毀釈を免れた後は正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼務して存続させてきました。
昭和26年以降は妙心寺派正定寺に帰属した庵として現在に至っています。
正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼任
庵周辺は集落戸数13戸の檀信徒で管理されています。
昔から「牛馬の種付け地蔵」として、近隣のお参りも多く
最近は遠方からも信者が参拝して年2回のご開帳には賑わいます。
明治以前のご開帳は30年に一度~10年に一度でしたが、
その後は隔年のご開帳となり戦後から正月1度のご開帳が長く続きました。
現在のように年2回のご開帳となったのは昭和30年前後からです。
1月・8月のご開帳の午後3時より集落住民の参拝導師に正定寺から
赴いています。
正定寺に残っている徒弟記録には、
文久3年(1863)に正定寺で得度した東京芝の英治郎七男
斯文和尚が同年に住庵した事が記されています。
参拝者が多く、集落の信仰も篤い土地柄で現在も住僧がいて、
地蔵をお祀りしています。
斯文和尚の後も大嶋玄格和尚(当山第20世鐵山和尚の弟子)で
昭和21年~30年までは森本真道和尚(当山第21世千巌和尚の弟子)
でした。森本真道和尚は正定寺副住職を経て龍護寺の住職となりました。
地蔵菩薩奉納法要讃(明治19年1月21日)
昭和30年代前半の願王庵
上記は、正定寺の副住職だった森本真道和尚が龍護寺に請われた時の拝請文です。
文字は当時龍護寺の兼務住職だった天徳寺の川野享源和尚のもので、新命とは
正定寺の新命和尚(森本真道和尚)を指します。
又、文中の貴山とは正定寺を指します。
正定寺宛てに送られた「正定寺の新命和尚さんを龍護寺の住職として招きたい」という文章です。
昭和30年代 ~ 昭和40年代
昭和53年当時の願王庵
庫裏新築のために昭和53年~54年頃に勧進された趣意書
くろぞう地蔵尊庫裏新築費募金趣意書
拝啓
秋空高く澄み、山野は紅葉で飾られ、まことに快適を時節となりました。
ご尊家皆々様お障りはございませんか。お伺い申し上げます。
さて、当地直川村仁田原黒沢の賓盈山額王庵は、正定寺の末庵でございまして、
ご本尊は「大通勝仏」と申し、弘法大師ご巡錫のみぎり刻まれたという
伝説もある程で、その縁起は古く、今から四百年程時の天文年間、
飯星山の岩窟から現在地に移り、「延命地蔵」として以来連綿、近郷の善男善女の
崇敬をあつめています。
本堂は過ぐる昭和二十七年、現在龍讃寺住職森本真道師が発願し、
下直見の曽宮衛吉棟梁によって新築し方形づくりの立派をものが出来ました。
そして「黒沢のお地蔵さん」として親しまれ、信徒の方々のご参拝は年中絶ゆる
ことがありません。
しかし、庫裡の建物は昔のまゝ で、すでに百年をはるかに越し、
近年老朽が目立ち、専門家は 「修復不可能、放置すれば危険」 としています。
そこで地元の方々のお力添えにより、この際庫裡を改築し、ご参拝の方々に
ゆっくりくつろいでいただくよう大奮発をしているわけでございます。
ところが当地はご存知のようを山深い僻地、しかも小部落とあっては大変な
重荷で、完成まことに困難ででございます。
そこで万人講の方式をとり、広く一般の方々から浄財の喜捨を仰ぎたく存じます。
何卒ご賛同の上いくぱくかのご寄付を賜わり、これによりさらに皆様の仏縁を
深められますようお願い申す次第でございます。
計画としては、建坪二十七坪ばかりでかなりの建築費を要しますが、
幸い地元や一部崇敬者から、木材の寄進のお約束をいただきましたので、
募金目標を六〇〇万円と定め、早速寄付のお願いにかかり、
見通し立ち次第建築にかかり、来年半ばには完成したいと在じます。
どうか貴下のみならず、篤信の方々お誘いの上、何分のご協賛が頂けましたら
幸いでございます。
南海部郡 直川村大字仁田原細川内
くろぞう地蔵尊庫裏新築期成会
信徒総代 田鹿地郎一 佐伯市
信徒世話役 丸山寛昭 佐伯市
塩月国佑 佐伯市
桂木米作 佐伯市
橋本玉記 本匠村
顧問 高木嘉吉 佐伯市史談会長
羽柴弘 佐伯市史談会
山下貞夫 直川史談会
曽宮衛吉 寺社建築家
実行委員会
相談役 柳井春雄
甲斐岩夫
小野浩伸
御手洗晴視
実行委員
長田秀夫 小田木智通
御手洗登 小野照美
柳井久登 小野勝
井崎敏行 御手洗環
柳井滋敏 谷崎松雄
小野昭和
小原豊嶽 正定寺住職
後藤正観 願王庵主
【付記】
一、いずれ遠からず期成会委員、または実行委員がお伺い申しますので、
その節は多少にかかわらず何分のご寄付をお願い申します。
二、遠方でこの趣意書郵送の方には、失礼をがら振替用紙を同封いたしました。
これをご使用「料金当方負担」ご送金頂けますなら幸いと存じます。
三、すぐご寄付下さる方は左記事務所へ電話下されば役員又は実行委員
参上いたします。
〔事務局〕 南海部郡直川村大字仁田原
くろぞう地蔵尊事務局
(097258)5524
正定寺には末庵が21庵ありました。現存する宇堂は20庵です。
庵は「御條目」が発せられた江戸期に各小字(集落)に建立されました。
宝暦11年(1761)の先師古記録には「仁田原西方高地に建立された正定寺の仏法護持を成すため」に
東西南北の方角に守護仏が配されました。その北方に配されたのが毘沙門天です。
善利山護国庵 本尊毘沙門天
所在地:佐伯市直川大字下直見字間
佐伯四国:49番札所
この庵は「正法山妙心禅寺宗派図」に未等地として記載されています。
廃仏毀釈の明治初期に第19世東巖周敦和尚が四方庵を存続させるために尽力した申請書類が
正定寺に残っています。その所轄官庁への申請書類の下書きなどから存続への先師の苦労が伺えます。
廃仏毀釈を免れた後は正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼務して存続させてきました。
昭和26年以降は妙心寺派正定寺に帰属した庵として現在に至っています。
正定寺の管轄寺院として正定寺住職が兼任
庵周辺は集落戸数20数戸の住民で管理されています。
この集落には正定寺の檀信徒はいませんが、
今でも毎日当番で佛飯をお供えて護っていただいています。
正定寺に残っている徒弟記録には、
文久2年(1862)に正定寺で得度した宮野浦の池田幾蔵三男で
因尾の瑞祥寺徒弟玄孝和尚が明治5年(1872)に住職した
事が記されています。
現在の名称は「護国山毘沙門庵」となっています。
この庵の由来は故・村西勇氏が記しています。
毘沙門庵誌
この地区の中心の小高い丘の上に1839(天保10年)に仁田原の正定寺の境外仏像として
建てられた毘沙門庵があり、常に地区民を眺め下して見守っている佐伯四国八十八ヶ所の49番札所として
知られ霊感あらたかな庵であります。
この毘沙門庵は、山号が善利山、寺号は護国寺で「善利山護国寺」と云っていましたが、
毘沙門天様をお詞りし多くの願いごとをかなえさせて下さる神様で『毘沙門天様、毘沙門天様』と親しまれて
きましたので、今私達は「毘沙門庵」と呼んでいます。
この毘沙門天様の外にお釈迦様、お大師様・お地蔵様をお祭祀しており、地区民は毎日交替で
ご仏飯をお供えにいき、地区民の健康と幸せを祈っています。
お釈迦様の生誕日の四月八日は毎年世話人が庵に在ります甘茶の木の葉で甘茶をつくり
お釈迦様をタライの中に入れ、屋根をつくり蓮華や菜の花、蛇杓子(コウライテンナンショウ)などで飾り、
そのお釈迦様に甘茶をかけ、ご仏体を洗って無病息災を祈り、その甘茶を各戸に分けて飲み健康を
願っています。
また、毘沙門天様は軍の神様であり城を築くときや寺を築くときに真北、子の方向で北の護りの神様とも
云われています。この毘沙門庵は、正定寺の真北にあたります。
毘沙門天様は、軍の神様でありますから「問地区」から日支事変、大東亜戦争に23名の人が
出征していますが、この毘沙門天様が見守ってくれたお陰で一人の戦死者、病死者もなく全員元気で
復員することができました。
この戦争で戦病死者がなかった地区は珍しく私達は本当にに霊験あらたかと思っています。
また、この庵には涅槃像会の掛け軸が1855年(安政2年7月)に弥生町堤内の「岩助さん」と云う人から
寄進があり、地区の宝物としています。この涅槃とはお釈迦様は印度の人で仏教を開いた偉い人であったが、
旧2月15日に亡くなられており、その亡くなられたとき、お釈迦様のお弟子さんや鳥類・獣類、爬虫類が
みんな嘆き悲しんで弔いをしている絵であり、雲の上にいる人はお釈迦様のお母さんです。
この庵も建物の老朽化が激しく雨もれがあるため昭和39年に庫裏の新築を、昭和49年本堂新築をして
いたが、平成元年8月25日夜の大雨で本堂裏側の石垣が崩壊したので翌日地区民が現地をみて検討した結果、
本堂の土台や参道にも亀裂が入っているので、この本堂を別の場所に移転新築してはどうかとなり、
全員賛成で移転新築することになった。
場所はすぐ近くにある「下口」 の岩井芳重氏の土地の寄進を受け材木等は地区民の寄進と全員奉仕により、
平成2年9月19日正定寺和尚様の導師のもと建立致しました。
正定寺檀信徒の方々には過分な浄財を寄進いただき、また和尚様からは壇引きの寄進をいただき重ねて
お礼申し上げます。
毘沙門庵講中世話人 村西 勇
末庵一覧表
下記事項にある「佐伯四国」や御詠歌は大正五年(1916)(101年前)になって設定されました。
現存する直川の庵は、正定寺・専念寺・善正寺・養賢寺・洞明寺などの末庵でその全てが長年に渡り
地域の信者や住民によって護持されてきました。正定寺の末庵でも大鶴の延命庵や間の毘沙門庵などでは、
現在も住民が毎日ご仏飯を交代でお供えして数百年変わらぬ信心を続けています。