坐禅感想文(や行)

 
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。

柳井主税さん

 

《和合を持って》

此の度、正定寺護持会役員改選により、不肖私、副会長に選任をしただきました。

元より浅学非才な者でありますが、会長を補佐し役員一致協力して檀徒皆様の御指導と

御協力をいただきまして護持会の発展と檀信徒様方の益々のご健勝とご多幸の為、

一所懸命努力致す事をお誓い申し上げまして新任の挨拶と致します。

柳井道則さん

  

《般若心経を唱う》

先日、思い掛けず、「寺報に登載したいので、何か感想文を書いて欲しい」と、お話がありました。

私は、作文が特に苦手ですので、どうしたものかと思いましたが、

毎回、寺報の記事や、写真を集めて発行されておられる役員の方々のご苦労を思えば、

私の都合も申し上げられず、日頃の雑感を、書いてみようと、お引き受けしました。

私の日課は、家のご仏前で般若心経を唱えることで始まリます。

幼い頃は、仏壇に御参りする時は、たまに、何か自分に欲求があり、それを実現させる為のもので、

普段は無頓着でした。

八年前、父が病死する前、何かにすがるつもりで、心経を上げる様になり、いつの間にか覚えました。

それからはずっと続いています。お経の意味は、難しくて分かりませんが、唱えることにより、

心が落ち着く様な気がします。

毎日、早朝から、夜ふけまで、仕事仕事で、自分の余裕な時間もとれない様な私ですので、

地区の皆犠にも.何ヶ月も会わない時もあります。

そんな時、直川の人情味あふれる温かさが、次第に薄れていくような、自分達の都合で、

すべてが簡素化されている様な感じがしています。

その中で、一日一回、仏墳の前に正座し.家族の無事を感謝し、

平和を祈ることが祖先を大事に思う心につながる様な気がします。

又この一時のゆとりが、事放や災難から守って下さる様にさえ思います。

末筆になりましたが、寺報を発行される役員の方々へ、これからも久しくお会いしてない方や、

お会いしても、お話することの難い多くの皆様のお便りを楽しみにしていますので、ご苦労でしょうが

毎号、年を重ねていかれます様お祈り申し上げます。

矢野喜一さん

  

《少年時代の追憶》

もう五十年という程の月日が流れたのを思うと本当に夢としか思われません。

私が始めて「上の地」の土を踏んだのは、まだ十一才の頃、それからの多感な少年時代を

正定寺のお膝元で育ちました。

その頃の故郷の記憶といえば、想い起こせばつきないものがあります。

小学校の子供としては、ただもう遊んでばかりいました。山と川と野良とで育ったようなものです。

学校が退けると直ぐ友達を誘い殆んど毎日のように山をかけるか、川で釣るか、

夏になれば近くの川で真黒になって泳いだり、魚をとって遊んだものです。

高等科に進む頃ともなると、正定寺によく遊びに行ったものです。

国道から寺まで、かなり高い石段を、それから幾年の間、幾回通ったことであろう。

当時の千巌和尚さんから有名な古文書を見せてもらったり、寺の歴史や説法をしてもらったりしましたが、

その度ごとに少年の心に何んとも言えぬ深い感銘を受けたことを今も覚えています。

「自分はどんな場合でも真心をこめてやったらいいのだ」ということを教えられ、

今もその気持ちに教えられつつ仕事を続けています。

故郷を思うごとに、いつも、少年時代の感化というものが如何に大きいかということを

痛感している次第です。

人間の感化にまして、少年時代の追憶に懐かしいのは、故郷の自然です。

山でも水でも、一つの木、一つの石でも少年時代に受けた感銘は、

大人になってからでも、深い力をもって心に蘇ってき、何かしら精神的なものを支えてくれます。

佐伯に住んで三十年になりなつかますが、少年時代の懐しさで忘れられないものは、

この自然の風致です。

終わりに、私が一生忘れえぬ言葉を選んで結びとします。

  

時は今 ところ足もとそのことに うち込む命 永久の命(椎尾弁匡)

仏はつねにいませども うつうならぬぞ 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたもう(梁塵秘抄)

矢野哲也さん

  

《ふるさとがある》

「コラツ!テツ!」去ること二十数年前、上京間もない頃、良く目を覚ました記億がある。

誰あろう、物心ついた頃より、この世で一番こわい千巌和尚。

生家が寺にもっとも近かったせいか、そしてまた、人の倍いたずら者のせいか、

この一喝は誰よりもいただき、そしてやさしく諭されたものである。

一億総生産に従事、日々の食糧にもこと欠くあのいまわしい時代、

千巖和尚の私達に説いた真理は、大きなよりどころとなつている。

現代の文明社会は、我々凡人の欲望を大いに満たしてくれ、まさにバラ色の世界のように

思われます。

しかし、人間の欲望には限界はありません。

欲望を満たすことだけの空しさに気づいた時、人生の確かなよりどころを求め、

家族をそして隣人を愛し、物を愛し、そんな言葉が、あの頃とは時代の隔たりは、

はなはだしいが、今も生きているようである。

境内はもちろん。本堂までが、子供達の格好の遊び場となっていた。

そしてもう一つの楽しい場所が鐘楼である。大きな釣り鐘とも一時的とはいえ悲しい別れもあった。

春は彼岸桜にはじまり、けんらんたる桜花の石段、そして夏は蝉とり、人生の峠を過ぎ、

職責にも多少の余裕もでき、子供たちからもその責任の半分位は解放され。

これからは妻に、なつかしい私の故郷を、できる限り案内する機会をつくりたいと考えている。

そして我が家の先祖代々にもこれまでの不義理を詫びつつ千巌和尚の墓前にも、

またなつかしい一喝を聞きに行く回数を増やしたいと願っている。

ー南無帰衣僧ー想い出多い故郷がある幸せをしみじみ感じつつ…。

柳井政子さん

 

《緑の中で》

「亡き母の思い出残るコスモスは青草よりも高く咲きたり」

コスモスの花がさやさやと揺れる日曜日の昼さがりでした。

私が遅い昼食を取っていますと武田さんがお見えになって原稿を書いてほしいと言う依頼を受けました。

突然の事で私はとても戸惑ってしまいました。

文章を書くと言う事は自分からはとても遠いものだったからです。

「と」申しますのも朝七時に家を出て会社へ行き、夜の七時頃でないと帰って来ない様な

毎日の繰り返しの中、時間に追いまわされているのが現在の自分なのです。

そんな中で一つだけとても幸に思い感謝している事が有るんです。

それは自分がこの大自然に恵まれた山の中に生れ育った事なのです。

私はいつも主人の運転する隣に座っていますので通勤の行き帰りに四季の移り変わりの様子がじっくりと

観察出来るからなのです。

「春は木々の芽吹から薄紫の藤かずらの花や夏はムンムンと立ち茂る青草、

秋を告げるピンクのくずの花やススキそしてやがて来る冬にかけて枯れて行く木や革の葉の一つ一つ」、

もう何十年見飽きる事もなくこの番匠の橋を往復した事でしょう。

楽しみや苦しみを乗せながら、そんな時いつも思う事はもし私が大都会のビルの谷間の中に

生きていたらこの美しい大自然の変わり行く姿を見る事もないままにゴツゴツとしたコンクリートの壁だけを

ながめて一生を過したでしょう。そう思ったらとても淋しい気が致します。

先祖から現世までここに生れ育った事をとても有難い事だと思っているのです。

人は大地から生まれ、又大地へ帰ると言われますが、幾度、生が有り死があって来た事でしょう。

その営なみの中で皆人それぞれの生まれ持つ運命を皆負いながら、悲しみ苦しみ、傷つき醜い

心をそのままに、そんな時優しく包んでくれるのはこの美しい山で有り、川で有り青い空です。

嬉しい時は一緒に喜んでくれる大地が有ります。

自分はこの美しい大地にどれほど勇気づけられた事でしょう。

その大自然に悟される事は何という人間の短い命とすさみ切った私達の心なのでしょうか。

空じ尽す事の出来ない凡人がゆえに、「泣くも一日笑うも一日」、その一日一日の積重ねが一生で

有るのなれば笑って一日を過そうなんて格好のいい事は思って見ても仲々そうは行かないようです。

せめて今日の一日が無事で有った事に感謝して明日へ向って行きたいと思います。

今宵は雨とても静かな夜です。

柳井キミさん

 

《私の歩いて来た道》

私は、昭和二年二月に元・上野村大字井崎字石丸から元・川原木村大字赤木字市屋敷に嫁いで来ました。

何も知らない次男の家でした。

次男と云っても長男の出た後の事ですから、何もある訳でもなく家と土地と仏壇があったので、

まず法要を行い、それからニ人の生活が始まリました。

仏壇は、朝晩の茶水をかかした事はありませんでした。

お盆やお正月には、お寺様にもお参りしていました。

何にしても馬や牛を飼った事がないものですから、草を切るのが苦手でしたが、

それも何とか切れるようになり、春と秋には蚕も飼って頑張って来ました。

昭和四年に長男(主税)が生まれ、次々と二男四女の大家族になり、

それから戦争が激しくなって物資がなくなり供出はせねばならないので苦しい生活が続きました。

それも何とか切り抜けて来ました。終戦になり、長女を嫁がせ家にも嫁を迎え、次男にも嫁をもらい、

次々と子供を嫁がせて、気がついた時には五十坂になっておりました。

幸い良い嫁をもらって孫も一男一女が出来て円満に時を過ごしていましたところ、

老少不定と云ってどんな災難が待ち受けているかわかリません。

昭和五十年の三月に孫が突然事故にあってそれから私は頭が悪くなって何もわからなくなり、

嫁にいたわられながら、二人で念仏を唱えて毎日を送っていたら、

又三年目に三女が親子共々に事故で亡くなりました。

あちらのお母さんが嫁に先立たれたと思うと同情せずにはいられません。

家の嫁こそわが娘、家の娘は、あれは世間のあずかり子と云うことわざがありますが

もう私も七十坂をこえて八十六才になりました。

静かにお参りをする事を望んでいましたら、又、不幸せが待っていたかのように・・・・。

それは四女の婿が急病で亡くなりました。

私にしてみれば半分の年でした。運命ならいたしかたありません。

二度あったことは三度あると云うことわざとあきらめて、毎日念仏を唱えて、

心の支えにして暮らしています。なむあみだぶつ。

色々とお聞き苦しい事を並べ立てて申し訳ございませんが、お許し下さいませ。

 

一、春は浅 花のつぼみもかたきまま とわに帰らぬ 旅の人。

ニ、楽しみに 待し その日は 死出の旅とは。

三、はつらつと 男盛りをそのままに 一言も告げず逝きしはかなさ。

 

孫の思い出(数え歌)

一、人の命のはかなさは何にたとえるすべもなく。

二、二親見捨てて行くからは、おわびはめいどで致します。

三、みなさんお世話になりました、どうぞ無事でさようなら。

四、嫁を迎える時も来ず、かたきつぽみのそのままに。

五、いつもにこにこほがらかで、いつもやさしくしてくれた。

六、無理を言ってもさからわず、目には涙をためながら。

七、何を云っても元気よく、何でも元気にしてくれた。

八、やさしい心をそのままに、呼ベど帰らぬ旅の人。

九、心ゆくまで墓の前、両手を合せて念仏する。

十、とうとう一とせ立ちたれど、残るははかない夢ばかり。

安井裕子さん

 

《いのちのバトンを受けついで》

父と母で二人父と母の両親で四人こうして数えてゆくと十代前で千二十四人二十代前では…‥・?

なんと百万人を超すのです過去無量のいのちのバトンを受けついでいまここに自分の番を生きている

それがあなたのいのちですそれがわたしのいのちです。

これは町はずれの本屋さんで見つけた「一生感動一生青春」という相田みつをさんの本の一部です。

私も当年とって、五十四才、父の生きた五十一才を通り越し、母の生きた五十七才を目前にして、

今自分の番を生きています。

感動いっぱい、夢いっぱい、いのちいっぱい、の毎日を生きています。

今日は故郷に眠る父母の墓碑名に、いのちのバトンを受けついだことを、報告いたします。

遠い異郷の地にて、五月七日、あなた方の曽孫が誕生致しました。それはそれは可愛いい女の子です。

めでたい、さいわい、福のきざしと縁起の良い字で、幸せな人生を歩んでほしいとの願いを込めて

祥歩(さちほ)と名付けました。

そうですあなた方の孫は母となり、当然私はおばあちゃんになりました。

直川村大字仁田原四一二〇番地より飛び立った小さな綿毛は遠く東京まで飛んで行き、

そして埼玉の地で岩にしがみ付く様に、精一杯根を張りました。

そして小さな花が咲き、その小さな綿毛は千葉県で、これも縁にしでしょうか?

大分を故郷に持つ男性と大きな花を咲かせようと努力しています。

後にも先にもかけがえのない大事な、いのちの花を受けついで、このバトンは絶対に落しては

いけないのです。

一日の終り無事に過ごさせていただいた感謝と、今日の出来事を両手合せてふるさとに向って

報告していますが届いていますか?

幼馴染みのあの山、あの川をいつも心の灯火として都会で頑張っている直川出身者の集い

「東京直川会」も今年で九回を数えます。皆さんそれぞれに苦労して現在を生きています。

時間の程つのも忘れて逢う事の出来なかった幾星霜の空白の時を取りもどそうと、話に花がさきます。

「死にたいこともあったけど生きていたからよかったねここでこうしてこうやって不思議な不思議なめぐりあい

あきらめなくてよかったね」

幸福の詩集よりあなたのお父さんに名前をつけて貰ったよとか、

お母さんに取り上げてもらったんだって自分には覚えないんだけど……?

今だお父さん、お母さんの事が話に出て参ります

そんな時、すぼらしい両親を持ったことをとっても誇りに思います。

私は親とは名ばかりで現実の出来事の中で揺れ動いてばかりいる誠に頼りない母親です。

お父さんお母さんの膝元にも及びませんが命ある限り、一生感動、一生青春、

そして「朝は希望に起き昼は努力に活き、夜は感謝に眠る」を生活の指針に生きて参ります。

二女も三月結婚し、孫達も帰って行き、今主人と二人淋しくなりましたが今まで同様、

それぞれの家族を幾久しくお見守り下さい。よろしくお願い申し上げます。

末筆になりましたが正定寺御住職様初め関係者各位の御健勝とふるさと「直川」の益々の

御繁栄をはるかにお祈り申し上げます。

合掌

矢野侃可さん

 

《父の五十回忌に憶う》

昨年二月私は、父の五十回忌の法要を営んだ。

父の五十回忌までは元気で生きていたい、と

話していた母の横で私は、父を知る人は今何人残っているだろうか?などと思いながら、

亡き父の思い出を皆んなで語り合った。

あれから五十年、私は、父の年齢をはるかに越えてしまった。

終戦という言葉も今日では色あせて、戦争の生々しさもあまりピンと来ない時代に入ってしまったようだが、

私はいまだにあの時の様子を忘れることが出来ない。

私は終戦を十歳で迎え、戦後の苦しい経済状況の中で育った。

父のいない淋しさ、貧乏な暮らし、母の肉体的・精神的苦労は、幼い私の日にも鮮烈に焼きついている。

終戦の年に、夫と子供二人を一度に失くし、女手一つで、残りの二人の子供たちを育てなければならなかった・・

本当に大変なことだったに違いない。

しかし母は、そんな苦労を少しも見せずに、私たちを育ててくれ、私が結婚してからも孫の世話や

商売にと毎日忙しく働き続けた。

そんな母に少しでも恩返ししょうと、母の八十九の春に私も勤めをやめて毎日話し相手をしたり、

車でドライブしたり、好きな食事を作ってあげたりしている。

母は今年、九十二歳になったが、身の回りのことは何でも出来て人に

迷惑はかけたくないともの静かに語り、いつも笑顔で私たちを見守ってくれている。

今何か感想を書くとなると、どうしても自分のことより、母の姿を書かねばならない気がする。

昨年の五十回忌に出席した父の妹も、今年は天国へ逝ってしまった。

兄妹でただひとり残った母に、皆の分までいつまでも元気で、一日でも長く生きていてほしいと私は願い、

与えられた命の尊さをと、自分に言い聞かせながら毎日を送っている。

矢野 薫さん

 

《花園会青壮年部研修会に参加して》

八月三十日から二日間、私達は、京都で行われた研修会に参加させて頂きました。

出発の日は、天徳寺と願成寺の住職様方にお見送りをして頂き、すぼらしい門出となりました。

京都に着いて、まず本山妙心寺の見学を行い、境内の広さ、その歴史の深さに触れ、

心が洗われる様な清清しい気持ちになりました。

次に、花園会本部長宮田正勝様の基調講演を拝聴いたしました。

その中で、寺である所の組織体は、異業主体であり、寺の組織を作る事によって、

学校の先生の話も聞けるし、自営業の人の話も聞ける、公的機関の人達の話も聞けるという利点がある。

その利点を活かしていく時に自分の人生を有意義に過ごす鍵があるのではないかと聞かされました。

そこで、一歩前に踏み出して、寺を地域社会の中で活用させていけばもっと住み良いすぼらしい

生活ができるのではないかと思います。

今、尊い命を頂いた子供たちが悩み傷ついています。

そんな子供たちを、寺を通して救っていけたら、どんなにかすぼらしい事だろうと感じまにた。

又、宮田様の話の中で、十二才で亡くなった筋ジストロフィー症で病院のベットで詩を書いた

少年の話がありました。

ここで、その少年の作った詩を少し紹介します。

題は『もう一度でいい』

この短い命をどうやって生かそう

一度僕達考えてみる

無駄にしてはもったいないみんなみんなすぼらしいカを持っている

だからだから ゆっくりと自分をもう一度見つめてみよう

短い命だから大切にしよう

僕は親切な心 思いやりのある心

励ませる知識 助けられる腕

これを合わせ持った人間になりたい

彼は、一生懸命生きる道を考えて、自分のできる事は何かを考えて、この世を去っていったのです。

この少年の詩は一日一日を大切に生きるという事を私達の胸の中に強烈に残していった様に思えます。

この講演では、たくさんの事を学び、これから生きていく上で本当に大切な事を教えて頂いた様に思います。

講演が終り、班別討議では全国のさまざまな活動状況やイベントが紹介されました。

私の所でも花園会婦人部主体で高いレベルの活動は行っておりますが、青壮年部がまだ結成されていないのが

現状です。

結成につきましては、お尚さんをはじめとして花園会役員総代の方々とこれから協議していきたいと

思っております。

二日目は、早朝より、勤行坐禅が行われました。

私情、雑念を捨てて澄み切った気持ちを体験させて頂き、自分は生きているのではなく、

生かされているのだと実感いたしました。

二日間、貴重な体験をさせて頂き、心より感謝致しております。

本当にありがとうございました。

柳井順一郎 さん

 

《小さくても、薄くても真の先祖供養》

四方の山野にも冬の深まりを一段と温くした昼下り、投稿依頼を受け執筆致しました。

十二月に入ると毎年のごとく全国一斉に展開される歳末助け合い募金運動で、黒い法衣に網代笠をつけた

一行が、お経を唱えながら市街地を廻る光景を見たり、聞いたりします。

黒染めの衣裳で道行く人や家人に募金を呼びかけている。

歳末助け合いたく鉢は戦後まもなぐ始まり、今年で五十二回目と聞く。

師走を告げる風物詩として所によれば定着した善意の姿であるが、最近の世の中を見ると

厳しい社会であるだけに、こんな善意が尚一層高校生らによる街頭募金と共に意味深く輝きます。

私の父(久登)が他界して十二年、父の生前中は先祖供養といっても夏冬に供花を三回山中に取りに行き

飾るか、墓地の清掃をする程度でした。

亡父の後には無縁であった

正定寺にも八月十四日と一月一日の早朝に参拝、墓前通過の際には合掌礼拝を決め現在に至っています。

これも、自分をこの世に送ってくれたご先祖様が「ありがたい」存在にあると思います。

生きているものはご先祖様に対して感激の心をどのように表していったらよいか判断はむずかしいと

思いますが、私は感謝の心をこめて供養することが大切ではなかろうかと考えています。

最近は老若男女を問わず自己主義主張が強く「‥離れ」の精神が至る分野で存在し、無関心、無接触、

無気力、無関係、無謀等が横行し、まして神仏にも疎遠、薄弱な心配りとなり、宗教心の衰退が伺われます。

厳しい時流の変遷と厳しい世相、激動の時代とはいえ今なぜ師走の街にたく鉢等が地域社会の

福祉増進のために率先して助け合いの心を求めているかを深く探求する必要があるのではないかと

首を傾けます。

科学技術の高度化、国際化、情報化、高齢化という今日の社会において、人々の生活の中により充実した

豊かな生活を送るために新しい知識、技術や生きがいを求めようとする学習意欲が高く求められています。

私は現在正定寺の地区世話人をしています。

仏教界の事が未知なことばかりです。

任期満了までに何か一つでも先祖供養等につながることの習得励行ができればと会議の出席、

はなぞの広報の愛読、法要行事への参画が必須条件であり、承継した財産の保存管理と共に

一層の努力を傾注して参ることこそ、先祖の供養の最良の道であり生涯学習の一端でもあると思います。

今夜も師走の寒空の下に眠る先祖の霊に向って、思いは小さく、思いは薄く届かなくても暖かい思いや、

心配りが心の奥底に存在する限り、読経はできなくても真の先祖供養であると信じ、願い、

先祖の安らかな永久の眠りをお祈りして筆を置くことに致しました。

柳井邦宏さん

  

《父の笑顔と正定寺》

父が他界して一年と四ケ月が過ぎました。

父が亡くなるまで私は、人の死というものを深く考えたことはありませんでした。

人は必ずいつかは死を迎えます。

その死を迎えた時に、その人のすぼらしさをつくづく思い知らされるのだと、父が亡くなり礎尤めて感じました。

生前の父はとても気丈で、体調がおかしくなっても決して泣き言は言いませんでした。

背中から腰への痛みが強く、立っているのがしんどく、暇さえあれば横になっていた時も

仕事は一日も休むことなく、倫理のお世話も笑顔で続けていました。

結局、父の病気は癌でした。検査入院、壮絶な闘病生活が始まりましたが、毎日見舞う私たち家族や友人にも

いつも笑顔で、逆に励まされて家路につくこともあったのです。

本当は痛かったろう…、不安で仕方なかっただろうに…。その父の笑顔が消えたのが、

入院して八ケ月後のことでした。たくさんの親族、友人に見守られ、息をひきとりました。

仕事第一の父で、とても厳しく育てられ、時には反抗したこともありましたが、病気と闘う父の姿に、

父の優しさ、強さを感じ、父を心から尊敬しました。

最期になって父の本当のすぼらしさを知った気がします。

父が亡くなるまで、私の家には、仏壇もお墓もありませんでした。

今までご先祖様についても考えたことがなく、お寺参や和尚様の話はとても新鮮で、心が落ち着くのを

感じました。ご先祖様がいるからこそ、私たちが生きている、生かされているのだと聞き、これからも

先祖を敬い、感謝の気持ちを持って生きていこうと思います。

菩提寺を正定寺に決めたのは、父の実家と私の妻の実家が

正定寺であり、「人は亡くなり、仏になった時、同じ宗派であれば、あの世において、また会うことができる」と

聞いたことがありましたので、決めました。

お墓も正定寺の境内に建立することができました。

お墓については、おじやおばに、大変なお世話になり、言葉では言えない程、感謝しています。

父には、何一つ親孝行らしいことはしていませんが、父の父母と同じ菩提寺にお世話になり、

父が生まれ、育ち、大好きだったこの直川村の地に、お墓を立てられたことを、

父は喜んでくれている思います。

元気なころはいつもしかめっつらをしていたのに、不思議なもので、今は最期にみせてくれた笑顔しか

私の心の中に残っていません。

父のあの笑顔に会いに、また、お墓参りに行こうと思います。

矢野侃可さん

 

《婦人部研修会の報告》

菊の花の香りただよう季節が訪れました。

先の正定寺花園婦人部の総会におきまして、前吉内会長さんの後をお受けする事になりました。

浅学非才の私には大へん重荷で御座居ますが、御仏様の御加護を頂きながら頑張って

参りたいと思って居ります。

皆様方のお世話になる事と思いますが、どうか御支援御協力のほどお願い申し上げます。

さて、早速ですが、平成十三年度正定寺花園婦人部の研修旅行を、先日十一月一~二日の一泊二日で、

今年度は近回りにしまして、荻町の荻の里温泉に決まりました。

『荻の里』は、町営の温泉で送迎をして下さって、一路326から三重経由で研修地竹田の碧雲寺に

お参りしました。

和尚様の法話を拝聴致しまして、「葉落帰根」と言う言葉に深く感銘いたしました。

バスは目的地の荻の里温泉に到着、心配した天気が雨に変わり、それでも皆様は雨の中

深まり行く秋を満喫しながら白水の滝を散策致しました。

晩秋の雨に煙り、夢幻の大地の鼓動を伝えるかの様に、迸しり響く滝の音は神秘的で、煩悩を洗い流す

思いでした。

荻町は地域活性化に力を入れている様で、特にトマトの生産は西日本一で手作りケチャップは

大好評だそうです。

温泉はすぼらしく、ゆったりと心の体も癒し、又、夕餉の膳は郷土料理に舌鼓しながら、ご馳走だな…

…と言う声も、あちこちで聞こえ、旅の一夜を満喫した事を思っています。

私は申し訳なく私用で夕食後早退帰省しましたが、翌日もグランドゴルフ等を楽しみ

全員無事に帰省されたようで、皆様の御協力に心から感謝いたします。

ありがとうございました。 合掌

矢野侃可さん

 

《研修旅行に参加して》

平成14年度の花園会婦人部研修旅行が7月1日~2日に別府・国東方面を中心に実施されました。

参加者は30名を越え、午前8時に正定寺を出発しました。

ちょっとお天気が心配でしたが、「日ごろ行いが良い人ばかり」と笑いながら車内は楽しいムードでした。

あっという間に「立命館アジア太平洋大学」に到着。

正定寺の和可子さんの案内で大学の説明ビデオを見たあと、大学の食堂で各国の料理が自由に選べる

バイキング料理を頂きました。

言葉は分かりませんが外国の方々と顔を合わせて食事を頂き、広くて眺めの良いすぼらしい大学に

感動しました。

午後から「明礬温泉」・「血の池地獄」と見学して早めに「ホテル望海」に到着しました。

夕食会では趣向を凝らした演技や舞踊など次から次へ披露され、最後は和可子さんのニコニコ笑顔で

「やれば出来る」のかけ声を全員が英語で唱和しました。

二日目、日本一の蘇鉄がある日出町の「松屋寺」や自分に似た仏さまがおられると言う「東光寺五百羅漢」に

参拝しました。

東光寺は野球で有名な柳川高校のそばにあります。

又、「富貴寺」・「真木大堂」にも般若心経を唱えながらを参拝しました。

『豊かな人ほどストレスがたまる』と言われる現代病も癒される二日間の楽しい研修旅行でした。

柳井亜耶香さん

 

《大切ないのち》

わたしは、H13年10月1日ごろ、じいちゃんとうんどう会にいくやくそくをしました。

しかし!そのつぎの日、じいちゃんが、朝からぴょういんにいき、夜にかえってきました。

そのあとじいちゃんは、おふろにもはいり、いっしょにごほんをたべて、はなし、くすりものみ、

いつもどおりの時間をすごしました。

そのあと、わたしは2かいにあがって、妹とあそんで、楽しくしていました。

けれど、したのかいが、「どたどた。」という音にまじり、「おとうさん!。」「じいちゃん!。」と言う大きな声がして、

ばあちゃんがきんじょの人に、いそいできてということをしらせて、びょういんにれんらくしました。

それから、きんじょの人が、いそいで家の中にはいってきました。

そのようすを、わたしは、たすけれずに、妹のめんどうばかり見ていました。

そして、5、6分すると、きんじょの人の家ぞくの人が1人きて、

「みんな、いっしょうけんめいで、じゃまになるからおいで。」といわれて、お母さんにいって、いきました。

なので、あとはわかりません。

けれど、お母さんといっしょに、びょういんにいきました。

すると、お父さんが、「もう、だめかもしれない。」といったので、いそいでいきました。

でも、いったらじいちゃんは、もうだめでした。

わたしは、その時「じいちゃん、やさしくて、わたしのことすきだったのに。」と思いました。

じいちゃんがいなくなって、ずいぶんたち、ことしでもう1年少したちました。

いまでも、思い出があたまにうかんできます。

しょっちゅうさいきにつれていってもらったり、一日家でいっしょにすごしたりしていました。

けれどいまでは、そんなことはなくなり、妹のめんどうをみることが多くなって、だれとも家にいず、

妹と私だけになりました。

けれど、けっして、じいちゃんをわすれたことはありません。

いまも、ほとけさまのお茶かえも、わすれないようにしています。

じいちゃんが、天ごくへいってからは、とてもさみしいです。

柳井孝義さん

 

《総代挨拶》

この四月に、新しい総代に承認いただいた柳井孝義です。

檀家皆様の御理解と御協力で、昭和五十八年からもう二十年もさせて頂いております。

何分若かったうえに総代になる資格もなく、正定寺の事、仏様の事など何もわからず、今日まできました。

近年、社会情勢の変化や世代交代などで、檀家のお寺離れや宗教に対する関心が薄れているように

思います。

お寺や我々総代に対する不満や苦情を教えて下さい。

直せる事は少しずつ是正し、誤解は解消しましょう。

現在の正定寺は、佐伯市や南郡の中でも最も開けたお寺であると信じています。

これからもよろしくお願いします。

柳井道則さん

 

《総代挨拶》

このたび地区の世話人さんより総代を務めるようにとの薦めがあり、私のようなものに務まるかどうか

大変不安でございますが、是非とのことでお引き受けすることになりました。

もとより浅学非才であり、皆様のご指導を仰ぎながら精一杯努めさせていただきたいと思います。

私自身三十四才で父を亡くし、正定寺とは若いときから檀家としてのお付き合いをさせていただいております。

父が病床に着き、毎日の仏壇へのお参りが朝の日課となり、それを続けるうちにいつのまにか般若心経を

唱えるようになり、一日の家族の無事を祈ることでその日がはじまり、心の安らぎを覚えるようになりました。

これからも、日々精進し、機会があれば本山である妙心寺にお参りさせていただいたり、皆様のお世話が

できるように勉強させていただき、総代として皆様の期待にそえるようがんばりたいと思います。

山内麻緒さん

 

《水仙花》

秘密の場所の様に木々の下に咲く水仙。この一時の命しか持たぬ花畑けは、ひいじいちゃんが

咲かせたものだった。

「綺麗じゃろ?見に来んか?。」そう言われた人は、いそいそとこの展覧会擬きへ出向き、

白・濃黄色の花を愛でていく。

幼い頃キライだったひいじいちゃんを、好きになれる瞬間だった。

なぜキライだったのかは、もうあまり覚えていない。

ただ一つ、先端に数花付いただけの小さな植物を、あのひいじいちゃんが必死で守り慈しむ姿に

違和感を感じていた。

幼い私から見ると、その頃のじいちゃんは大きく怖い存在でしかなかったのだろう。

細く繊細な、まるで女の子の様な体に、水を滑らせる楽しさ、言い様の無い〝花だけの域〟を発する

神秘な香りが大好きで、この花畑けはいつまでも〝ここ〟に有るものと考えていた。

いや考えもしなかった。そして、それはひいじいちゃんも同じだ。

幼い頃とは逆で随分小さく見え、昔叩いていた頭も、大好きになったのに。

病院に御見舞いに行くと泣いてくれるじいちゃんの孫で良かったと思えたのに。

あの人は、私の見ていない所で、はらりと花を舞わせてしまった。

ひらひらと、唯ふらりと浮いている様に見えても、重力と言う力、死と言う力に強く引き寄せられてしまったのだ。

風が吹かない限り浮かず、浮いてもいずれは落ちて行く。

塩分を含んだ水が頬を伝う。たくさんの人が流して行く。

この養分ともならぬ水を枯れた花へと降らせていくのだ。きれいに咲いた証として。生きた意味として。

最後の儀式として。仕方の無いことではあるし、誰もが通る道だと言う。しかし私は受け止められなかった。

受け止められず、月日がたって行った。

そしてある日、私は気づいた。ひいじいちゃんの姿に霧が掛かった様になっているのだ。

これまで〝いつも〟使っていた、サイダーに似た泡立つ液に入った入れ歯。

皺しわと時間と刻まれた銀時計。今は〝生きてた頃に使ってた〟と言う言葉に刷りかわっていた。

思えば、ひいじいちゃんの時間の流れはゆったりしていて、そこだけ穏やかな空間だった。

考え方によっては、ひいじいちゃんと水仙は似た者同士かもしれない。

細くて小さい花では有るが、どこか凛として、私の居所でもあった。

一つの扉を開けると安心できる場所も、今開けると、しんとしている事が多数、無意識のうちに

そこへ行きうろうろしていることも多数有る。

水仙があった時の潤いは乾涸び、木々も消え今は乾きしか無いけれど、死について考え、

新たな形の貴方に近づいたのだ。

これからもずっとずっと花を咲かせない水仙。

雨の雫が流れることは二度とない。でも今もたくさん花を咲かせている。

酔い痴れる一時をありがとう。栄光とともに空の上へといってらっしゃい。

柳井道則さん

 

《開山650年遠諱法要記念花園会全国大会に参加して》

12月5日より2泊3日の日程で「開山650年遠諱法要記念花園会全国大会」に佐伯市各寺院の役員20名の

方々と共に参加させていただきました。

5日に大分港より2月に竣工した新船ダイヤモンドフェリーで出発して快適な船旅を満喫。

6日早朝神戸港に着き一路京都へ向かいました。

最初の参拝は、妙心寺と同じ禅寺の金閣寺へ、下漆に金箔のきらびやかな2層・3層の建物や

水面に反射して映る金閣寺池など庭園は世界遺産に登録されています。

ちょっと紅葉はすぎていましたが落葉も絵になる光景でした。

その後は都路を走り会場の国立京都国際会館へ、「京都サミット」も開催された会場は1700人が一同に

食事ができるほどでその大きな会館にはおどろかされました。

大会1部の行事では、開山遠忌法要が行われ管長さまのご挨拶や記念式典表彰式と続き、

2部では京都出身の「バチ・ホリックス」の太鼓演奏に「西川きよし氏の講演」

最後に「千本えんま堂」の狂言で無相大師(慧玄和尚)が妙心寺を開く前の物語が演じられ、

大変おもしろく見物できました。

7日は、寒い朝でしたが二条城の見学をして、大本山妙心寺にお参りしました。

広大な山内に46の塔頭寺院が点在し、日本最大禅寺にふさわしい偉容をほこり多くの重要文化財に

驚かされました。

文化財の絵は狩野派で京狩野派・江戸狩野派と有りますが、妙心寺は京狩野派の公家風を

おおく用いていると聞きしみじみと堪能することができました。

その後は、最後の紅葉狩を楽しもうとする大勢の観光客でにぎわう嵐山を散策しました。

あっという間の3日間でしたが、私達のより所である妙心寺の拝観時間が思うようにとれなかったのが

心のこりでしたが、もう一度機会があればゆっくりお参りしたいと思います。

来年10月には開山無相大師650年遠忌法要で檀信徒参拝が計画されています。

ぜひお参りをお勧めしたいと思います。私にとって初めてのご本山妙心寺へのお参りは感動の連続でした。

合掌

柳井正道さん

 

《感謝の気持ちを存分に伝えたい》

今年の一月に祖母が他界しました。

去年から祖母の状態も徐々に悪くなっており、元気なうちに出来るだけ会っておこうと考えていました。

父からも、葬式はこっちでやれるから、生きてるうちに帰ってやってくれ、と言われてた事もあり

亡くなる寸前まで入院の付き添いに行く予定を立てていました。

その準備の最中に訃報を受け、年甲斐もなく声を出して泣いてしまいました。

祖母がもう亡くなるということは理解はしていたのですが、気持ちは全く受け付ける状態には無かったようです。

飛行機の予約は取っていたのですが、もう亡くなったのなら帰っても仕方がないとも考えていました。

しかし、祖母への供養をしたいという気持ちに加え、両親のことがとても心配になり帰国することにしました。

ユダヤ教のラビが書いた本ですが「なぜ自分だけが苦しむ、のか」という本の影響もあったのかなとも

思います。

この本は、よくホスピスなどの医療関係者必読の書といわれている本だそうです。

そこからの私の理解から、悲しく苦しいであろう私の家族にたいして「そばにいること」、

そして「話を聞くこと」が、自分が行動に移せる唯一のことだと思ったのです。

(うちの祖母の生きている間にも、そのような気持ちで行動したつもりですが、十分だったのかはわかりません)

そして帰ってみると、地区の人々や親戚一同が祖母のために悲しんでくれていました。

そして、その輪の中に入ると、自分自身の悲しい寂しい気持ちの中で、なんともいえない一体感と

いう物を感じました。

家族の為と思って帰国したのが、結局自分自信がみんなに救われていることを実感しました。

心がその場にいる人々とシンクロしているような暖かく不思議な感覚です。

上記の本に引用されていたのですが、デュルケームという社会学者が南の島での土着の

宗教を研究することで、宗教の本来あった目的というのは人と人とを互いに結びつけることに

あるという結論に至ったそうです。

というのも、土着の宗教は、まだ神さまとかそういった概念はなく、人と人とを結びつけることで、

大きな脅威や災難、悲しみに対して一人で立ち会わずにすむからだそうです。

今思うと、このとき感じたこの不思議な感覚は、そういった私たち家族と地域の人々を結びつける物

だったのかなとも思います。

こういった観点からも、やはり、地域の宗教を知り、それと共に年を重ねることの重要性を

感じずにはいられません。

今年の夏は帰国して祖母の初盆を迎えたいと思います。

葬儀の慌ただしさとは違うもう少し落ち着いた気持ちで祖母と過ごした時間を振り返ってみたいです。

祖母は今頃は久しぶりに祖父と会えて喜んでいるかと思います。

もしかしたら、また祖父の世話という大仕事が増えて元気なときのように飛び回っているのかもしれません(笑)

そして、祖母がお盆に帰ってきたら、病中は直接伝えることができなかった感謝の気持ちを

存分に伝えたいと思います。

柳井道則さん

 

《退任の挨拶》

この度、私は任期満了によりまして、総代を辞することになりました。

一言、皆様方にお礼を申し上げます。

平成十五年に総代を仰せつかり、その間、位牌堂の改築・大和尚様の津送(葬儀)等大きな行事や

多くの年間行事にも、檀信徒の皆様方のご理解と力強いご協力をいただきました。

心から感謝申し上げます。

あっという間の六年間でございました。

私達が総代をさせていただく間、様々な経験をさせて頂くことができました。

中でも曾てない大和尚様の葬儀は私達には心に残る思い出となりました。

この様な機会を与えて頂き誠にありがとうございました。

今後は、すばらしい総代さんも決まり、正定寺及び檀信徒の皆さんの

ご多幸をお祈りして退任の挨拶と致します。本当にありがとうございました。

柳井孝義さん

 

《総代を辞するにあたって》

昭和五十七年から二十七年間、菩提寺の総代をさせていただきました。

当時は、「信心のない若い者が総代なんか…」と一部の方々から声があがったと聞いています。

当の本人も振り返るとその自覚はなく、時の流れのままに一期三年九期が過ぎてしまいました。

その間、寿山和尚の晋山式、本堂大屋根修復、先代和尚の津送など貴重な経験をさせていただきました。

総代としてお寺や檀家のみなさんに貢献できたとはとても思えませんが、

大過なく終えることができたことは嬉しく思います。

皆様、和尚様永い間ありがとうございました。そしてこれからも

正定寺の一檀家としてよろしくお願いいたします。

柳井亜耶香さん

 

《妙心寺展の感想》

2月21日、私たち家族は福岡県の九州国立博物館で開催されている『妙心寺展』に行きました。

もともと、私たち家族は「妙心寺展に行ってみようや!」と話していたので丁度いいタイミングでの

参加となりました。

 

当日は大型バスで大宰府まで行きましたが、天気がよく、太宰府天満宮の梅の花がきれいに咲いている

日曜日ということもあってか、車も人もとても多かったです。

 

太宰府に到着し、昼食をとってしばらくしてから九州国立博物館へ行きました。

私たち家族は三手に分かれて展示物を見て回りました。

 

私は父と展示物を見たのですが、展示物の説明書きを見てみると……

大分県のものが多いということに気付き、とても驚きました。

中にはテレビで見たことのあるものや、私が知っている歴史上の人物の私物を展示してあったりと、

感動と驚きでいっぱいでした。

 

国宝の兄弟鐘、龍虎図屏風、豊臣鶴松所有の菊桐文馬具、徳川家綱の位牌、達磨像、釈迦三尊像、

金剛力士立像など多くの展示物がありましたが、ひとつひとつがとても印象に残っています。

 

その中の龍虎図屏風は左隻に虎、右隻に龍が描かれていたのですがまるで虎は龍に、龍は虎に

敵対心があるかのように睨み合っている様でした。

特に龍は、雲の中から体全体を出さずに体の一部を出していたので、龍の大きさや力を感じさせられ

圧倒されました。

 

また、展示場には妙心寺法堂の雲龍図が映し出されていました。

本物を見ているわけではないのに、何とも言えない空気感に魅了されてしまいました。

 

この『妙心寺展』に行って、沢山の素晴らしいものに出会うことができました。

これから先、ここで見たものすべてをまた見ることはできないと思っています。

ここで見た展示物、そのひとつひとつを忘れないようにしたいと感じました。

 

もし、またどこかで機会があればここで見た展示物の1つでもいいので再会できるといいなと思います。

私はこの『妙心寺展』に行くことができて、多くの文化財に出会うことができて、本当によかったと思いました。

柳井直人さん

 

《妙心寺展》

二月二十一日、ついに妙心寺展に行く日がやってきました。

わくわくしながらおばあちゃんとアトレにまっているバスに乗り出発しました。

前から少し気になっていたので、これはいいと行くようにした事をバスの中で思い出しながら

そして、妙心寺の国宝や重要文化財のならぶのを思いうかべながら、どんどん進んで行きました。

 

そんなことを考えているとバスのスピードがだんだん落ちて、ほとんど動かなくなってきました。

ゆっくりと動いていると「昼食の時間があと残り少ないので、ついたらすぐ昼食を食べてください。」と

バスガイドさんの案内どおり、着くとすぐ食べあげました。

おかずは、博多だけにしかない物も入っていたし、他のおかずもおいしくてとてもおなかがふくれて

もう動けない、というぐらいになりました。

 

だけど、続きまして、といわんばかりのテンポで妙心寺の見学です。

妙心寺展では、いよいよ見学が始まると、早く入りたいという気持ちで体がうずうずしていました。

入り口で入場券と500円をはらいイヤホンをつけてもらい、中にすぐ行きました。

中に入ると銅鐘や5体の像などがあり、

「昔の人がこんなりっぱなものをよくつくったなあ」と言いながら、とてもおどろき

ますます体がうずいていきました。

 

中に入って行くと、トラと竜の見合っているものがあり、ものすごい迫力におどろきました。

その上には、とても大きな竜が円をえがきながら回っている絵がありました。

そのあたりをぐるぐると回ると竜の目の方向もかわるのを見て、

「なぜこんなふうにみえるのかなあ、おかしいなあ」とおどろきました。

 

その後進んで行くとやっと外に出ることができました。さらに下におりて

お土産を買いました。そして楽しかった時間はもう終わりがきてしまいました。

バスに乗り直川のアトレをめざして出発しました。

 

妙心寺展はすばらしいなあと思いながら、バスの中で一日のことを思い出していました。

今日は、妙心寺のてん示された国宝など、貴重な物を見れてよかったと思いました。

少しだけどお寺の事などいろいろ知らなかったこともわかってとてもよかったです。

吉内喜代さん

  

《私の四季》

原稿の依頼をいただきましたけれど、長い間筆には無沙汰しています上に、

主人の足が不自由になりましてからは何処にも不義理を重ね、新聞やテレビ相手に時折

おたずね下さる方のお話を楽しみにしているだけの毎日でございます。

でも山里の一隅から眺める山のうつろい、流れ行く雲の姿は春夏秋冬、年毎に新鮮にたのしませてくれます。

やっぱり“頑張らなくては”と勇気を出させてくれます。

いろんなことがございました平成元年をふりかえりながら、つたない歌で御許しいただきたいと思います。

 

【杉木立の木漏陽をうけ しいたけのホダに寒子は丸く光れり】

『五月弟の逝に』

【新緑を搾るばかりの雨 跳ねて金色の霊柩車は山峡を行く】

『リハビリで病院に』

【腕くみて歩きし事もなき夫の 手をとりて行くリハビリの径】

『秋の農繁が来ました』

【声高に米の価格を話しいし 農夫はコンバインの試動を初む】

【五時知らす有線放送さむざむと 暮れ行く里の上を流れぬ】

吉内喜代さん(女性部部長)

 

《第5回全国花園会婦人部大会に参加して》

十月二十八日、静岡県浜松市で開催されました大会に、この二部から天徳寺の大川さん、海福寺の竹中さん、

願成寺の岩佐さんと四人で参加しました。

会場の「アクトシティ浜松」は完成したばかりの近代的建物で大ホールに二千名の全国代表が集まりました。

ホール正面に御仏壇がしっらえられその左側に静岡西教区の御詠歌部、右側に岐阜西教区のコーラス部が

並び大会役員の方々がお待ちするうちに松山妙心寺管長様が小倉宗務総長様、羽賀総務部長様方を

随えられて御着席なさいました。

「三帰依」のコーラスと御詠歌によって開会となり管長様の御垂訓に続いて役職の方々の御挨拶と御祝詞を

いただきました。

大会メインの婦人部活動発表は先づ静岡西教区から始められましたが婦人部としての発足は平成二年に

会長を始めとする規約が出来、会費千五百円として運営されます。

行事活動は各寺院の行事に合わせ大体一月の大内容でそのあとお茶をのみながらのはなし合いを

親睦の場として会員はたのしみにしているそうでした。

信越教区は寺院数十八ケ寺が約千名の会員で平成三年九月結成し役職は二年交替の

各寺院まわりもちとし、運営費は各寺院負担で会費千円の運営。

活動行事は静岡と大体同じにみうけられましたが「おかげ様運動」を進め浄財の寄附を国際援助、

普賢岳災害、北海道地震などに協力されている由でした。

山陰教区は昭和四十四年五部の発案で幼稚園児五十組、母子百名で「母子のつどい」をお寺を中心として

始めましたところ大変いい効果があがりそれが二十年あまり現在まで続いて来ているのですが

それがきっかけとなって平成二年に教区全寺院の婦人部結成となり、三部づつに分かれて役職の交替をし

長く続くことを念願しての規約づくりをして結成の時は笠原婦人部長をお迎えして大変もり上った

結成でしたと報告されました。以上三名の方の発表で午前の行事終了。

午後は大会テーマ「どう生きる貴方のいのち」と題した基調講演を前花園大学長盛永宗興老師より

いただきました。

先づ吐く息から始める静座の御指導で心身を整えお話にはいりましたが、私達は父母を縁として

地球生命発生から絶えることのない命を生きているのであってこの生命は他の生命をいただいて

生かされていること。

この恩を自覚し報ゆると共に次の世代に渡すのにはどう生きなければならないかと説かれました

次にサブテーマとして「婦人は今何をすべきか家庭で社会で」を沖本花大教授を司会者として

バネラディスカッションとなりました。

宗教家・教育者・社会人・婦人代表笠原会長四人のパネラーの意見がのべられましたが、

家庭の核家族化。共働きの多忙さ。少数子供の過保護となり子供が物心つくまでに人間形成が

出来ないまま社会に送り出されていることが現在の世相をつくっている原因となっているのではないか。

個性を尊重する教育の落し穴として自己中心となり物やお金では替え難い喜こびがうすれた教育のあり方を

考える時、子育ての直接の座にある婦人や母の自覚が一層重要になって来るという多くの御意見でした。

三時すぎ閉会。浜松は雨になっていました。

待望の富士山はみることが出来ませんでしたが八時すぎ「寝台特急富士」の車中となり今日の成果を

話し合いながら帰途に着きました。

意をつくせませんが大会報告とさせていただきます。

吉内喜代さん(花園会婦人部部長)

 

《女性部研修旅行》

かねてから計画していました婦人部の研修旅行は、六月二十九日・三十日、同行二十七名で国東巡礼を

してまいりました。

二十九日午前九時、直川出発、拾った様な梅雨晴れの天気で十号線を北上、波鎮かな別府湾を右手に、

一路国東へと車は走ります。武田守さんに写真をお願いしました。

車中は、にぎやかな笑い声一ばいで、正午近く富貴寺着。用意の山菜料理で昼食をすませ、

川野きみさんの先導で、心経三巻をあげさせていただきました。

ふくよかな阿弥陀如来像、藤原時代末期の作とうかがいましたが、半開のまなざしは、心洗われる

思いがいたしました。

総白木造りの富貴寺をあとに、眞木大堂へと向かいます。日本一大きな大威徳明王とおききしました。

大火焔を負った不動明王、四天王を従えた阿弥陀如来、ひしひしと心に迫って来る想いでした。

大堂をあとに両子寺に車は進みます。

この両子寺を中心にした、六郷満山の国東仏教文化のおはなしをききながら、時移れども脈々と続いてきた、

底知れぬ儒教の力を、しみじみと感じさせられました。

こけむした石段の参道を、足に自信のある人達で、おまいりしました。

記念写真をとっていただき、四時すぎ、今夜の宿別府へと向かいます。

美しく広く改装された別府湾沿いの路を、あっという間に別府に着き、旅のつかれをいで湯に流し、

くつろいだ浴衣で夕食となりました。ぼつぼつと歌が出始め、踊りが出る様になりました。

九時のおひらきまで、時間の経つのを忘れたのです。

三十日の朝は、ゆっくり宿を出発、物産店で土産を袋につめ、内山に向かいましたが、すこし風があやしくなり

はじめ、内山で昼食をする頃は、雨雲となりました。

観音様におまいりし、心経をあげ、三二六号線を走り始めると、本降りになりました。

サカセ地蔵様は、雨の中でおまいりをすませ、一路直川へ。運転手さんの御好意で、家の近くまで送って

いただきました。皆様おつかれ様でした。

不行き届きの点を御協力していただき、研修の旅が出来ました。

又の機会をと思いつつ御報告をさせていただきます。

 

梅雨晴れの 陽のかがやきや、国東の 青葉路を行く巡礼の旅

木もれ陽の下 流れ行く両子寺の 谷のせせらぎ聞きつ登りぬ

吉内喜代さん

 

《新春のごあいさつ》

新春の御慶びを申し上げます。

今更ながら光陰夫の如しの感慨でございますが、正定寺婦人部が正式に結成されまして満三年になりました。

昨年十一月十七日畑の浦福泉寺で、平成八年度秋季特別布教が開催され、

当婦人部から四名が参加致しました。

午前中は法話をいただき午後、本山青壮年研修会に参加されました矢野薫様、小野美智治様、

第七回花園婦人部全国大会に出席の木本勅子様方の体験発表がございました。

第二回全国大会に私が参加させていただきました時、婦人部結成を強く要望され、

笠原全国婦人会長を始め各教区の役員がきまりましたが、右から左にというわけにも行かず

各寺院も幾度かの協議を重ねたと聞き及びました。

正定寺は和尚様の御熱意と皆様方の御理解御協力で平成五年十二月に結成いたしました。

彼岸供養、献茶会、山門施餓鬼、大般若会と、年と共に定着してまいりました。

研修旅行や忘年会に親睦を深めてまいりました。

先般は又、会員の方のアイデアで、お年寄りに梅干しをさし上げることになり、丹精の梅漬けをあつめて

直川苑におとどけしました。

手造りの昔なつかしい味を喜こんでいただいたと思います。

新しい世代お寺中心の活動に終ることなく、地域社会に役立つことが私達の進む方向ではないかと思います。

先日、或る会合で和尚様が御本山妙心寺の婦人檀信徒はみな花園婦人で婦人部というのは

限られたものではない。

婦人部を核にして集まるべきだといわれました。正定寺も大きく輪をひろげたいと思います。

皆様方の御参加をお待ちしています。

年を重ねた者と若い方々の活力を一緒に研鎮出来たらどんなに素晴らしいかと思うのです

新しい年の平穏と皆様方の御多幸を切に御祈り申し上げます。

平成九年元旦

吉内喜代さん

 

《第3回花園婦人部研修旅行報告》

去る七月十九、二十日婦人部の研修旅行を和尚さんと御一緒に参加二十二名で実施いたしました。

皆さんの希望で別府ヤング別館に一泊し県立の研修となりました。

十九日朝十時、正定寺前を出発、昼前に到着しましたが午後一時開演の芝居見物にと昼食もそこそこに

すませました。

そのあとは入洛と夕食で、又夜の芝居見物に出かける人や部屋でくつろぐ人など湯の町の一夜をすごしました。

翌朝八時、大分交通のガイドさん同乗の車で宇佐風土記の丘、歴史民族資料館に到着。

宇佐八幡文化のあけぼのや、国東六郷満山につながる考古学資料を見学したのですが、

沢山の資料と勉強不足、それに時間も少なく心残しながら福沢諭吉旧居にむかいました。

福沢諭吉先生は今更申し上げることの無駄な方です。

私達思想の先駆者であられる方が青年時代どう考え生きて行かれたかという資料には心ひかれる

ことばかりでした。

旧居をあとに自性寺の大雅堂にむかいましたが、自性禅寺は妙心寺派のお寺とおききしました。

御好意で無料見学させていただきましたが、池大雅も日本南画を完成し竹田と共に有名な文人です。

やがて車は山国川の清流に沿って耶馬へとむかいます。昨夜の後遺症か?にぎやかだった車中は

次第に静かになってきました。

ガイドさんも笑いながら青の洞門に近づきます。

有名な禅海和尚が一鎚一鎚打ち続けたという三十年の、のみのあとに心うたれながら耶馬トピアで

昼食をすませ、最後の羅漢寺まいりです。

旧式なリフトに肝をひやされながら、登りついた山上から見はるかす眼下の耶馬は、秋とは又異った

深緑で素晴らしいながめでした。

五〇〇羅漢のそれぞれのお顔に無病息災を祈念し、お水をいただいて下山。

もと来た路を帰別してヤングの車にのりかえ、五時近く皆元気に研修の旅を終えました。

運転手さんの好意で唄げんか橋によりました。

平成九年も残りわずかになりました。皆様方の御協力を感謝しっつよいお年をお迎え下さいます様

祈念いたして居ります。簡単な報告を御許し下さい。

平成九年十二月

 

ロープウエイのきしみに胆をひやされつ登る眼下は深緑の耶馬

 

カラコロと下駄をならして芝居見に湯の香漂よう鉄輪の街

吉田ヤスさん

 

《扶助料返してがん張る》・・昭和32年9月18日(大分合同新聞)

吉田ヤスさん(46)一家は番匠川工事事務所の日稼ぎ人夫に働いている

長男孝次君(22)と長女好乃さん(20)と三人家族である。

ヤスさんが直川村(当時直見村)から佐伯市池船で洋服仕立業を営んでいた

主人進さんのもとに嫁いでまもなく、進さんは当時5才の孝次君と3才になる好乃さんの

二児を残して昭和14年病死した。

幼児二人を残されて主人に先立たれたヤスさんの悲しみは想像以上のものがあった。

遺児二人を育てあげるにはどんな苦労も耐えしのんで生き抜かなくてはならないと決心して、

未亡人ヤスさんの生活苦闘がこの日から始まった。

それから十余年間ある時は鳶業の日稼人夫に雇われ、暇をみては実姉キヌさんのミシンの手伝いから

雨ガサ行商などしながら二児の養育費を稼ぎ出していたが女手のムリな疲れがたたったためかついに

病気になってしまった。

しかし、二児の学費はどうしてもいる。母一人でしかも病気とあってはどうにも動きがとれないので

毎月二千円の生活扶助料をもらってささやかながら学費や暮らしの費用にあてていた。

こうして長男孝次君が鶴岡中学校を卒業して店員に勤めるようになった。

病気の母を抱えて店員勤めでは家の暮らしは成りたたないが「このうえお世話をかけては相すまぬ、

より貧しい家を助けてあげてください」と二ケ年間もらっていた生活扶助料を昭和25年3月、

いさぎよく返上した。

いましばらくもらってはとすすめられたがききいれない。

この美わしい心意気はたちまち付近の評判となった。

これを知った本匠村の某氏は一面識もない他人のヤスさん一家の心掛けに感激して信用貸しで住宅を

買いなさいと十二万円を投げ出すというような美談も生まれた。

病弱のヤスさんは気分のよい時は農家の日雇い労務や賃縫いなどにも手を出しており

孝次君も日給わずか四百二十円だがムダづかいせずに毎月二千円を借金返済の天引貯金にしているという

模範青年である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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