坐禅感想文(ま行)

 
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。

増永多美さん

 

《菩提寺とご先祖》

先日、祖母(河野菊江・上の地)が亡くなり、祖母の菩提寺である正定寺に伺いました。

亡くなる14年程前から熊本に住んでおりましたが、祖母の人生の大半は佐伯にありました。

生前、祖母が禅宗を信仰していることを知っておりましたので、祖母の通夜をする時に、

こちらの熊本の禅宗のお寺に来て頂こうと思っていました。

ところが、葬儀屋さんの話しをお聞きになった正定寺のご住職が、こちらに来られるとおっしゃるのです。

まさか来て頂こうとは思ってもみませんでしたので大変驚きました。

そして遠路はるばる来て頂いた時には、本当にもったいないことだと思い、日頃から祖母が心を

寄せていたお寺様にお経をあげて頂き、どんなに喜んでいるだろうと思いました。

暖かいお心遣いに深く感謝しております。

そして、次の日、葬儀のために正定寺に伺いました。小さい頃、よく遊びにいった佐伯は15年ぶりでした。

そして、はじめて祖母と祖父が住んでいた直川村に行きました。

和尚様にお会いして、27年前に亡くなった祖父のことも色々と教えて頂きました。

普段母から、若かった時の祖父母の話しを聞く機会もなかったので、和尚様のお話しは、

私にとって、とても新鮮なものでした。

そして、葬儀のあと私達がお膳を囲んでいた時に和尚様がお縁をさしながら、

「祖父(河野珪泉)がそこで絵を描いていた]とおっしゃいました。もう五十年以上も昔の話です。

たぶん母も知らなかったと思います。そこに祖父の人生の一部を垣間見た気がしました。

亡くなった祖父しか知らない私は、そこで祖父の生を改めて知り、その話しを聞いて、

とても感謝の気持ちでいっぱいでした。

そして、日頃忘れていた何か大切なものを知らされた様な気がしました。

それは、ご先祖様あって今の私達が生活していられるということです。

日頃、何に対して手を合わせることもなく、父方の祖父母のお墓参りだけで供養していると

思っていたのですが、もっとご先祖様に対して感謝して生活していかなければと思いました。

今まで仏壇のなかった家ですが、タンスの上に位はいを置き、

祖母の好きだったものをお供えして、朝夕手を合わせております。

心の中で〝ばあちゃん″と生前の祖母に話しかけていた様に話しています。

仕事で疲れた時や、色々なことがあった時、そうして話しかけると何故か心が落ちつせます。

今回、私にとって身内を送ることは初めてのことでした。色々、貴重なことを知った気がします。

私が家庭をもった時、今度は私自身で伝えていかなければと思っています。

三浦景虎さん

  

《坐禅をしてみて》

私が坐禅を始めたのは一昨年の夏休みの頃でした。

その当時、毎日が何か憂欝で自分に精神的な面で足りないものを、生活上痛感していたからです。

正定寺本堂での毎日の坐禅は決して楽しくはなかったけれども、

座っていて充実していました。

自転車で夜中八時に行き、仏前のローソクに火を灯し、そして本堂の前に座布団を敷き、

若和尚の合図で坐禅を始めます。

背筋を張り、目を半眼にし、息を整え、落ち着いた気持ちでするのです。

自らの心底に「自分はなにをするために産まれてきたのか、自分は今何をしなければならないのか」

などを幾度も唱えその中で日頃の反省などをしました。

そしてそこから何か自分に掴むものを探求できたらと思いましたが、

土台無理な事であり、一種の生意気みたいなものでありました。

しかし、個人個人禅を組んで自分に何の得があるのだろうと思うでしょう。

それは確かに目に見えないものであるし、心の中で計ることもできません。

けれども私が思うに何か自分自身何かが向上しているのではないのか。

自分の中で何かが変わっているのではないかと考えるのです。

前述は私の体験からですけれども、これから坐禅を始めようと思っている人も自分の禅、

いわゆる独自の禅というのを体感して欲しいと思うのです。

また座禅をした後は心がとても落ち着き、健康にも良いので、

日頃の生活の中に取り入れたら良いでしょう。

三浦義男さん

  

《本山参拝 京都・瀬戸大橋の旅》

昨年、秋も深まり肌寒い折、瀬戸大橋京都本山の旅へと出発致しました。

関西汽船では想い出多い事ばかり早朝太陽の出る時刻にピタリと合わせた様に大橋の雄太な景色を

眺めながら高松、屋島、金比羅宮へと参拝致しました。

岡山経由にて南禅寺へ…。銀閣寺の別院にて大変な特別計らいを受け非常に感動する事ばかり。

もみじの嵐山・金閣寺へ、至る処人の波、

いよいよ本山妙心寺に、翌朝六時本堂参拝し管長のお経胸にしみました。

本山の法堂に画かれた龍は今にも襲いかかろうとする様で見事でした。

清水寺を経て、もみじ東福寺へと向い帰路へつきました。

本当に佳い想い出ばかり、又の機会に大勢の方々の参拝を是非おすすめ致します。

御手洗佐一さん

  

《私の心境》

平成元年も半年を過ぎ初夏が訪れて参りました。檀信徒皆様方お元気で毎日お仕事にご精進の事と存じます。

私事、昨年より寺務局の大役を引き受け正定禅寺の運営に当たって居ります。

これも一重に檀信徒の方々の御支援のお陰と感謝致しております。

申し上げる迄もなく時代の流れと共に過疎化が進み農林業の不振等、経済的にも苦しい

時代となって参りました。

そして昔よりつちかわれて来た義理人情のうすれが目立ち人と人との距離が遠ざかって行く様な

気がしてなりません。

然し乍ら、先祖伝来守り続がれて居ります現状に有難さを感じ感謝しながら先祖の供養に勤めるのが

私達の務めではないでしょうか。

その意味においても正定禅寺の将来をよりよい方向に皆様と共に

お護りして行きたいと存じて居ります。

檀家皆様方の声・ど要望等ど遠慮なくご一報頂きます様お願い申し上げますと共に

今後とも宜しくお願い致します。盛夏が近づきますので御健康を祈念申し上げます。

御手洗喜義さん

  

《般若心経との出合い》

私達は生きていると云うよりも生かされているとよく云われます。

それ程に大きな運命に対しては私達人間は全く無力な存在であります。

特につ死に就きましても「ゆずり葉」に象徴されますように年老いた順に枯れ落ちて逝くように

死ねるものならそれは自然の摂理としてそれなりに諦めもつきますが、

肉親や身近な人との予よ期せぬ死別に依る悲しみや心の痛みはこれ迄培かってきた

知性や論理ではどうする事も出来ない空しさを感じます。

私達は運命と云う大きな樹の下で生かされ乍らそれぞれに苦脳をかゝえて懸命に生きているのが

内なる人生の側面だと思います。

私の場合、大きな運命との出会いは母との死別に始まります。

小学校五年生の時、五人の兄弟を残して数え年三十九才で突如として亡くなり、全く途方に暮れました。

其の後の私の人生の軌道も大きく変ったと今でもそう思って居ります。

亦、四十才代になって兄を、そして数年後に弟を失い運命の厳しさに衝撃を受けました。

「人間的とは苦脳する事にある」と云う言葉がありますが、その苦悩を和らげてくれる何かを

求め続けていた矢先、松原先生の「般若心経入門」が発売されました。

当時(昭和四十七年)の我が国は高度経済成長の歪みが噴出し、価値観の歴史も経済の時代から

心の時代への転換期と重なり、タイミングよく一躍ベストセラーになり、新聞その他で話題を呼びました。

早速求め、食い入るように読み耽って居りました頃、先生が佐伯の文化会館に講演に来られ、

満員の聴講者の中で二百七十六文字のお経の心をしみじみと説く先生のお人柄に接する事ができ

深く感動を覚えました。

勿論この心経の心を深く理解する事は困難ではありますが、「般若心経入門」をくり返し読む事に依って

その一端をつかむだけでも地獄で仏の思いが致します。

ものは豊かになりましたが、なぜか心の満たされない現在、長寿社会の到来と合せて私達は人生への

啓示となる絶対のものを持たないとこれからの老後を泰然と生きていく事は出来ないと思います。

すでに還暦も過ぎ、人生に於ける午後三時の傾いた日を浴びながら

この「般若心経入門」を座右の書として読み続ける事に依って生涯根絶することのできない雑草の如き

煩悩の芽をつみながら将に生かされている人生を精いっぱい生きたいと思って居ります。

三浦清美さん

  

《菩提寺の紅葉(もみじ)》

投稿依頼にはまいったが断る訳にもゆくまいと、渋々とべンをとった次第である。

丁度四年前、父の命日の時であった、久しぶりに若和尚さんと雑談にふけっているうち

何時の間にか話は、京の嵐山や中津の耶馬渓の紅葉へと進んだ。

若和尚さんは、紅葉には殊更関心をお持ちのご様子で、その種類やカエデとの差異、

更には生育環境等、かなり突込んでこられた。

私も若干の知識があったので、話は忽ちクライマックスに達した。

そして今まで仲々本心を明かさなかった若和尚さんが逐に本心を打明けた。

「菩提寺の裏山の一角に、紅葉の森を造りたいので、苗木を世話して欲しい」と。

そこで暫く資金面や規模等について具体的に詰めているうち、全く、ヘビに睨まれた蛙同然の体で

育苗をつい引受けてしまったのである。

その時は左程深刻には考えていなかったが用地の確保には一苦労した。

あちこちと知人、友人に頼み歩いたが私の住所が市街地に比較的近いという悪条件もあり、

殆ど絶望的であった。最初から暗礁に乗り上げ「若和尚さんの話術(魔術)にマンマとはまったなア」と

悔んだが後の祭。

しかし断るのも情けないと思い、人分が駄目なら郷里の直川で育てようかと悩んでいた或日、

一人の知人から「土地が見つかった」と思いがけない一報があった。

直ちに該地に行ってみると、草は生い繁り、予想外の荒れ地であった。

しかし、距離的にも面積的にも格好の土地であるので、思いきって借りることにした。

苗木はあちこちの母樹を探してその種苗を家内と一緒に集めて歩いた。

時には湯の平附近まで出掛けることもあった。

しかし、一つの目的、希望をもって行うことに言い知れなぬ楽しさがあった。

苦労した甲斐あって、苗木は目下順調に生育しており、山出期も間近である。

若和尚さんの神通力ならぬ仏通力による菩提寺の紅葉を眺められる日もそう遠いことではないと思う。

今思えば、こうなったのは若和尚さんの引導も効いたがもう一つ大きな要因があったと思う。

それは、此の寺報を通じ、私と同輩の諸君が中心となって菩提寺の運営に大いに活躍されている

現実に直面した私の一種のコンプレックス否焦躁的なものが心の一隅に

宿っていたからではないかと思うのである。

何れにしろ、父の命でのことであり、何かの因果応報かも知れない。

或は、全く無頓着な私が多少とも心境の変化を起こしつつあるのは年のセイかなあー、

とも思うこの頃である。

悟りは遠くにあらずわが心の中の近くにあり。ー弘法大師ー

宮脇 護さん

《正定寺の思い出》

昭和24年7月、仁田原大ヅルの我が家を出て、いつの間にか43年を経過しました。

この間に故郷も大分変って来ました。村も直見村と合併し直川村となって学枚も

小学枚は大正11年までの直川小学枚と昔に戻りました。

正定寺参道も自動車道が出来、石段時代の寺迎え、寺戻しを3人でしたこと等昔話となっていることでしょう。

私達の小さい頃は幼稚園や保育園はなく、日曜日に正定寺で日曜学枚があり、千巌和尚さんが、

良いことをしないと極楽にゆけぬ。悪いことをすれば地獄に行くという禅宗の教えの

善因善果、悪因悪果の自力本願を徹底的に教えられ、出席者はカードに捺印してもらっていた。

昭和10年頃のお寺は多人数で賑やかだった。

家族はおばあさん、千巌和尚さんと奥さん、子どもの義弘さん、澄代さん、喜美ちゃんともう一人

妹さんがおられたと思う。

家族外では黒沢願王庵の玄格和尚さんが毎日のように来られて、納所と云うのか寺内のことを色や

指示しながら自分も働いておられた。住込は本職坊さんの雄道さんと私と同級生の小川一男(俊峯)さん。

それに江河内から甲斐さんとか言う女の人が居た。

その当時ラジオが売り出されお寺で購入されたが現在と違って大変でした。

裏参道下り口の大銀杏の上の方にアンテナを取りつけ、

電気は明治水力電気各社から配電されていたが、電圧が低くて使えないのか蓄電池を使って聞いていた。

浪花節の放送がある時は好きな人は聞きに行ったものでした。

お寺についての思い出は他にも色々ありますが、小さい時に教えられた自力本願は強く脳裏に残って

おります。何れにしろ、神仏は心のささえとし、無理な願いはかけず感謝の手を合わせて参りたいと

思って居ります。

御手洗晴視さん

 

《新任のご挨拶》

青田を渡る風が快く感じられる今日この頃、皆様方には益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。

さて、私儀この度改選により正定寺檀信徒総代に選任されました。

もとより浅学非才ではありますが皆様方のご意見やアドバイスを頂きながら公正無私を旨として努めて

参りたいと思っています。

私の心に残る仏教との出会いは、インドネシアジャワ島の「ボロブドール遺跡」を見学する機会を得たことです。

1814年ヨーロッパ人により発見された八世紀後半の造立と推定される天然の丘の上に

安山岩をたたみ上げて作られたものです。

面積1万2千㎡・高さ31mの頂上には鐘型の塔をかぶせた形の仏教大建造物です。

壮大複雑な建築仏教物語図を浮彫にした回廊の中には、

釈迦の母である摩耶夫人が六つの牙を持つ白象の夢を見て右脇腹から釈迦を懐妊した図が描かれています。

この世に生まれ修行してお悟りを開き広めていった様子を知ることが出来ました。

仏様のご縁を頂きながら今後とも皆様方のご支援を賜りますようお願い申し上げます。

村上頼光さん

 

《読経の中に先祖を偲ぶ》

私どもが子供の頃に年寄りは家の宝という言葉を耳にしたことが有る。

長い年月をかけて得た豊富な経験と知識で私どもに生活の知恵を教えてくれたものです。

祖父は言っていた「着物は畑に綿を作りそのブタで糸をツムイで布を織り、手で縫って作っていた」と。

炭焼き一つも窯を作ることから火のつけ方から何回も何回も祖父に教えてもらったものだ。

おやつも米を石臼で粉に挽き豆も粉に挽き、手に手を掛けて作って食わせてくれたものだ。

思えば多くの人々の深い恩愛を受けてきたものだと、母の五十回忌祖父の三十三回忌にまいり

本堂にせいざして和尚様の読経中にこんなことを思い出していました。

飽食の時代と言われる結構な時代に育った今の若い人にこんな話をすると笑われることでしょう。

間もなく還暦を迎えようとしています。これからは感謝報恩の念を深めていきたいものです。

村西栄二さん

 

《般若心経》

父、嘉妻が、逝ってから早一年半が過ぎた。

思い出せば、平成十一年一月十一日の月曜日の夕方に亡くなり、十三日に葬儀を十五日には

初七日の法事をし、それから、二月二十八日の四十九日までの法要、八月の初盆供養、

年が明けての一月には一周忌の法事を執り行った。

このことは、人が亡くなってからのごく普通の行事だが、私の家では、十六年前に母親が亡くなっているので、

二度目の事だが、私が主に行うのは初めてで、その都度毎に親戚の伯父、伯母の協力があり

執り行うことができた。

また、言うまでもなく、正定寺の和尚さんには、その度毎に仏事等の相談にのっていただき、

お経をあげて供養していただき、誠にありがとうございました。

私は父の一周忌ぐらいまでは、ほとんど毎晩のように父と母の供養と思い、般若心経をあげ続けた。

私は、この般若心経を、母が亡くなったときに父が、母の供養だから、一緒にあげてあげようというので、

その時に覚えた。

その父は、自分が亡くなる二週間前までに毎晩かかすことなく仏壇の前で、愛する母のことを思い出しながら、

あげ続けた。

私は、ストレスがたまり、物事がスムーズに進まなくなったとき、苦しいときの神頼みじゃないが、

仏頼みと思い、この般若心経を心の中であげることがある。

心が落ち着きスムーズに事が進むような気がする。

父は毎晩お経をあげる前は、私に「一緒にあげよう。仏様を大切にしないといけんぞ。

大切にせんとバチがあたるぞ。」とよく言っていた。

父の言うとおり、私の今の人生、バチがあたっているように思える。

私は、朝、仕事に行く前と仕事から帰ったときの二度、仏壇の前に座って手を合わせるようにしているが、

今日を機にもう一度寝る前に愛する父と母の供養のため、般若心経をあげるよう努力したいと思う。

また、父と母の月の命日(十一日)には、墓にお参りし、般若心経をあげたいと思う。

これからは、父と母の教えを引き継ぎ、父と母の供養を毎日続けたいと思う。

村西栄二さん

 

《花園会青壮年部研修会に参加して》

去る平成14年9月29日(日)、別府市の亀の井ホテルで開催された

〝妙心寺派東教区花園会青壮年部研修会(総会)″に柳井孝義総代と小田木聖孝会計と私の3名で

参加してきました。

研修会は、午前10時に参加者全員での般若心経・坐禅和讃の法要、

生活信条「一日一度は静かに座って身(からだ)と呼吸と心を調えましょう

人間の尊さにめざめ自分の生活も他人の生活も大切にしましょう

生かされている自分を感謝し報恩の行を積みましょう」を唱和し、

厳かな中、開会されました。

次に花園会会頭・青壮年部会長の挨拶の後、10分間の静坐をし、自分自身を久しぶりに見つめなおし、

心を落ち着けました。

次に研修テーマ「禅自らを調え生活(くらし)を調えましょう」を題で、

本山常任布教師栗原正雄師による講演が1時間半、ありました。

それから、昼食後、「禅の世界」という題目でビデオ視聴があり、和尚さんが厳しい修行をし、

禅の世界を切り開いていくことを知りました。

次に総会が開催され、13年度の事業報告・決算報告、14年度の事業計画・予算が、

全会一致で承認されました。

最後に信心のことば「わが身をこのまま空なりと観じて静かに坐りましょう

衆生は本来彿なりと信じて拝んで行きましょう

社会を心の花園と念じて和やかに生きましょう」唱和し、

四弘誓願を挙げ、研修会は閉会され、3名共に先祖を大事にし、

これから、自らが生きていく上での一つの糧を学び、帰路につきました。

村西栄二さん

 

《平成18年度第3回花園会青壮年部研修会に参加して》

去る平成18年6月24日(土)〜25日(日)、京都の大本山妙心寺・花園会館で開催された

“平成18年度第3回花園会青壮年部研修会”に参加してきました。

研修会は、第一日目(6月24日(土))花園会館にて12時受付、午後1時に参加者全員で般若心経を挙げ、

次に全国花園会青壮年部長の開会のことば、妙心寺派管長(花園会総裁)のあいさつがあり、

厳かな中、開会されました。

続いて、特別講演「限りなき挑戦」と題して元広島東洋カープ衣笠祥雄氏の講演が始まった。

衣笠氏は、皆さんもご存知のとおり、プロ野球公式戦最多出場記録等を持ち、「世界の鉄人」と

呼ばれています。

講演では、誰でもこれをやるんだという目標をもって人一倍真剣に取り組んでやれば、

達成できるということを教えられました。

次に「無相大師一代記」と題して、一龍齋貞花師匠の講談がありました。

講談では、平成21年に遠諱650年を迎える妙心寺のご開山さまである無相大師の教えである

『請う其の本もとを務めよ』(喜びや悲しみの出どころはいったいどこ?)のメッセージを、

650年後の今日、どう受け止め、どう日常生活の中で活かすことができるのか、この混迷の時代だからこそ、

改めて問い直してみようということで、師匠よりお話がありました。

最後に、妙心寺の「法堂はっとう」で30分間の坐禅を無心で行い、第一日目の研修会が終了しました。

第二日目の研修会は、午前6時起床、午前6時30分から、朝のお勤めを「法堂」で行いました。

30分間の坐禅に始まり、7時30分から粥座(朝食)を、「微妙殿」で頂きました。

ご馳走があるのかと思いましたが、本当のお粥に漬物少々の食事で、さすがにすぐに腹が、減りました。

次に「無相大師と妙心寺」のビデオを鑑賞し、引き続き、「無相大師とボランティア活動」と題して、

花園会本部長の一色宏襄氏の講演があり、私共は、「おかげさまのこころ」を率先して実践し、

「よく教うればこれに従う」と言われる如く、子供たちの範となる様に精進しようということで、

お話がありました。

最後にボランティア活動として托鉢と清掃奉仕があり、私は、清掃奉仕を選択し、小雨の降る中、

街頭に出て、京都太秦映画村までの往復2km程の清掃を行い、昼食をし、研修会のすべての日程を

終了しました。

このようにして、私は、今回の研修会で、さらに先祖を大事にし、これから、自らが生きていく上での

一つの糧を学び、帰路につきました。檀家の皆さん方も一度は、本山にお参りしてみては、如何でしょうか。

森田吉雄さん・沖縄学童疎開引率教師

  

《正定寺山門》

下校路に『蜜柑の皮でも落ちていないだろうか』と眼を輝かせる学童たち………

国鉄線路を歩き柚の原トンネルの前で国道に下る。

お宮の前を過ぎると、もうすぐ正定寺下である。

ここからは、山の中腹に在る宿舎の伽藍は樹木の緑に包まれて見えないが、天に宙する「樅の木」の

大枝の下に鐘楼でもある山門が、頭上遥かから『お帰りなさい」と温かく迎えてくれる。

それは優しい母のお迎えにも似て、安らぎを覚えたものであります。

でも、山門に続く二百段余りの石段を一気に登ることは腹をすかしている学童らには

至難で休み休み踏みしめるようにして登ったもので、ここにたどり着くと、山門の柱に

こしかけひといきもたれ又は、石段に腰掛一息入れたのであります。

昭和四十二年頃、かつて学童らも成人し生活も落ち着いたので、『正定寺会』を作り、

疎開中慈父の如く慈み育ててくださった千巌和尚さんを沖縄に招待申し上げようと

計画しましたが、和尚さんは病床にふ伏しておられ、目的を達成することが出来なかった。

疎開当時大学在学中の義弘さんが帰省されると、子供らに取り囲まれて笑談しておられる姿を玄関の階段、

濡れ縁のところでよく見掛た。満たされない、すがりたい疎開生活であったが故に大変ほほえましく、

強く脳裏に残っております。

昭和四十五年十二月、義弘和尚さんを沖縄にお迎えして、

村長父母と共に歓迎申し上げ、

そして各地を案内する僅かの合間にも昔を今を語り合えたのは最高の歓びでありました。

昭和五十二年八月、学童らとその家族三十五名は千巌和尚さんの墓参で正定寺を訪れました。

一行が乗ったバスは裏門下に駐車されたのであるが、学童らは山門の石段道を急いで登ったのであります。

山門には数々の思い出が残っています。

 

(昭和四十六年大分合同新聞より・・・義弘和尚投稿)

那覇に着いた私は、空港で迫える大勢の人波に驚かされた。(中略)

教職を捨て、二年近く学童の世話に当たった森田先生の限りない愛の指導、身をもっての

教えが今四十才近くになり、既に親ととなった人々の中に立派に生きている。(中略)

歓迎会の席上、学童代表者は云いました。

「二年半のご恩は此の一週間で到底返せません。しかし、私達に出来る限りの事はします。」

言葉少ない挨拶はそのまま実行された。

私を案内しながら冷たい風はさりげなく人垣を作って防ぎ、夜はつもる話も打ち切てそれとなく私の疲れを

かばい玄関に置かれた靴は誰がするともなく磨かれ、レストランでは全員が私の食事が出来上がるまで

誰云いうとなく待ち、常に一番安全な運転手の車に乗せ、女の子はそって寄って服の塵をはらい、

風が吹けばセーターを脱いで掛ける。

漬け物好きの私に誰が届けたか鹿児島の漬物が送られ、大分県戦没慰霊塔には二度も車を走らせ花束

を持参する。

数え上げれば切りがありません。

そこには温かい心が通い、幾度か私を感激させました。

あわただしい年の瀬を、一家の主人、主婦が常に二十名近く交替で尽くすチームワークの良さ、

森田先生の人柄を知る私は、さりげなく親切を行えるこの人々を見て、教育の真の姿を見た思いがしました。

空港で手を振り、涙を浮かべて別れたかっての学童やその親たちに幸せが来ることを心より

祈っています。

守永優佳さん

 

《私の祖母》

私の祖母は、私が二十歳の誕生日を迎えた月に亡くなりました。

生涯を終えるにはまだ早い、68歳の若さでした。

長い間の闘病生活で、祖母の身体は私が覚えている姿とは、ほど遠いくらい変わっていました。

顔は少しだけ痩せてたようでしたが、身体はまるで木の棒のように細くなっていました。

その姿が今でも鮮明に私の目に焼き付いています。

5月25日の朝、亡くなった事を父から電話で知らされました。

その瞬間、祖母との思い出がフラッシュバックしたかの様に次々と私の脳裏に出てきました。

私は孫の中で一番年上なので、他の孫より祖母がまだ元気な時をよく知っています。

祖母は一言で言うと「怒らない人」でした。

私は祖母から、今まで一度も怒られたり、叱られた記憶がありません。

私は小さい頃、おてんば娘の名詞が似合うほどやんちゃな女の子でした。

そのせいか、私が近所で遊ぶ時はいっも祖父祖母が監視役をしていました。

田んぼの水路で水遊びをする小さかった私をいつも祖母が上から心配そうに見続けていました。

それは今でもスゴク覚えています。

私はよく物も壊しました。

祖母が趣味で踊りをしていたので家には、扇子が沢山ありました。

よく兄弟でその扇子を使って遊んでいました。祖母から扇子の使い方などを教えてもらったりもしました。

そんなある日、「絶対遊びに使ちゃ、駄目よ」と言われた大切な舞台用の扇子を、幼心に火がついて、

つい手にとって遊んでしまいました。

遊びに使ってはいけないと分かっていたのですが、その姿を祖母に見つかってしまいました。

私は「怒られる!」と思い、頭をぐっと縮めました。

でも、祖母は「駄目でしょ」と言うだけでした。

普通大人の人は、叩いたり、怒鳴ったりするのに、祖母は優しい顔で「次はしては駄目よ」言うだけでした。

そんな事があってから、私は祖母の言う事を守り、祖母との約束は決して破ったりしなくなるようになりました。

だからいつも、祖母の家に泊まりに行くと必ず祖母の布団の中で寝ていました。

その時に嗅いだ祖母の臭いは今でも懐かしく思い出します。

改めて祖母の事を思い出すと、次々と思い出が出てきます。

そして、なによりも祖母を尊敬しています。

私はとても祖母の様にはなれないと想えるくらい尊敬しています。

少しでも祖母のような広い心と、人を許せる心を身に付けたいと思います。

そして、いつか私もお祖母ちゃんになる日が来た時、祖母の様な優しい笑顔で人に接する態度が

とれるよう頑張りたいと思います。

だから『おばあちゃん、見守っていてね。』

森田邦之さん

 

《僕の知らない祖父がいました》

とても大きな声が、私を呼びます。

ひとつひとつの言葉は、とても丁寧で熟考しながらゆっくり喋ります。

まるで、校長先生の朝の集会。

私の祖父である吉雄は、校長先生だったようです。

 

過去形なのは、私が1回も校長先生だった姿を見たことがないからです。

私にとってはごく普通のどこにでもいるありふれたおじいちゃんだと思っていました。

 

祖父はいろいろな経験をさせてくれたと思います。

新幹線の切符の買い方、釣りの仕方、散歩の仕方、ハエたたきの使い方・・・。

 

あるとき、僕は祖父に言いました。

「沖縄の日差しはとても暑いけど、フライパンを外においておいたら目玉焼きが出来ると思う。」

祖父は僕の馬鹿げた問いかけをまじめに聞いてちょっと微笑み、

「実際にやってみなさい」と言ってくれました。結果は内緒です。

 

祖父と弟と僕の3人で、仲良く釣りに行きました。

家の堆肥置き場でミミズを捕まえ、綺麗な澄んだ海のすぐそばにある小さな水溜りでした。

沖縄にもうなぎがいたのは驚きです。祖父もとてもびっくりしていました。

 

祖父は散歩が好きでした。とにかく地図を買って歩き回ります。

どこかに旅行に行くと、次の朝の早朝は必ず散歩に行っていました。

 

富士山に家族で行ったこともありました。家族5人と祖父の計6人だったと思います。

1人また1人と家族が脱落し、8合目を過ぎるころには、私と祖父の2人だけになっていました。

9.5合目でさすがの祖父もギブアップ。おまけに持ってきた1.5リットルのコーラのペットボトルの

ふたが自然に緩み、祖父のリュックの中をずぶずぶに濡らしていました。

「私はここで待っているから、頂上を見てきなさい」と言われ、頂上までは私一人で行きました。

おいてきた祖父が心配だったので走って行って20秒ほど火口を眺め、急いで降りてきたのを

覚えています。

 

沖縄疎開の話は、僕には一切しなかったのでよくわかりません。

親戚のおじさん、おばさんや、両親からの情報がすべてでした。

そんなとき、インターネット上で祖父の名前で検索をかけ、正定寺さんを知りました。

 

僕の知らない祖父がいました。

知らない写真がありました。

僕の知らない祖父がそこにいました。

 

私と祖父の思いでは、語りつくせぬほどたくさんありますが、正定寺さんのインターネット上の情報で、

私の中で一段上の説得力と納得を感じさせてもらえました。

このような機会を与えてくださった正定寺住職様に感謝いたします。

ありがとうございました。