坐禅感想文(は行)
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。
橋迫香代子さん
《ブーゲンビリアの再会》
役員さんより、沖縄に行った時の事を書いてくれる様にと言われ、考えてみると女の人では
一番年長なので思い出して書いてみたいと思います。
直川に疎開していた人達との親善をかねた観光旅行に、さそわれて三十名の中に加えていただき、
昨年の十一月の末に行きました。
朝、皆が集まると、『沖縄は雨らしいなあ』と、天気を気にしていたのですが、天候は良く、楽しい旅が
出来ました。
空港に着いて一日目は、専念寺会と正定寺会に別れて行きました。
私達は、具志頭村のバスが迎えに来てくれ、和尚さんを先導に具志頭村に向いました。
当時、先生で来られていた森田先生(七十才)のガイドで、村のセンターに案内され、
村長さん、助役さん、教育長さん、皆さんの出迎えをうけて、村をあげての歓迎でした。
正面には「川原木校同窓会正定寺会」と大きな字で書いてあり、正定寺にかかわりを持っている人が、
沖縄にも多いのを、改めて知りました。
今、直川では余り聞かない「川原木」という言葉を度々聞き、懐しく思いました。
テーブルを囲んで、皆が顔を合せると、お互いに年はとっているが、四十年前の思い出のある顔ばかりでした。
村長さん方が、『戦時中お世話になりました。』とお礼の挨拶があり、
こちらから、村長さんの末長い親睦と交流をと言う意味のメッセージを送って戴き、
手作りの料理をご馳走になりながら、今の若い人には想像もつかない様な物資の少なかった
時代の事を語り合っていると涙が出ました。
森田先生のおっしゃるには、引きあげる時に、帰ったら引き取る人のない子供が出来るのではと
心配したが、そんな人は一人もなくて、良かったと話していました。
八十才を過ぎたお母さん達も何人が見えていました。
戦争で受けた何箇所もの傷あとを見せてくれて、子供達は川原木にお世話になっていたので、
戦は知らぬと話していました。
命がけで、子供を手放した時のつらかった事を涙ぐんで話していました。
寒さと飢えに苦労はしたが、其の苦労が有ったからこそ今では皆、良い地位にあり、
幸せな生活をしている事を知り、良かったなあと思いました。
川原木にいた時に、沖縄を思い出して歌っていたという数え歌を皆で涙を流しながら合唱しました。
二日目・三日目は観光コースで廻ったのですが、米軍の基地の広いのには驚きました。
何処でもブーゲンビリアが奇麗でした。砂糖畑が目につきました。
私は、ヒメユリ部隊の映画で水を求めながら死んでゆく場面を思い出し本土の水をお供えしようと
思って持って行き、合同慰霊碑にお供えしました。
喉を渇かした兵士達は、きっと古里の谷や川を思い出したでしょう。
指令所のあった壕の説明を聞き、追わるる身で壕の中で指導を取った人達の苦労を偲びました。
健児の像ヒメユリの塔では国の為に若い命を捧げた人達が可愛そうでした。
生きて居れば、私達と同じ位の年だがなあと思いました。
空港を立つ時間前になると、一昨夜お会いした人達が見送りに来てくれて、
「来てね」「行くからね」「元気でね」「皆さんに宜敷くね」と再会をちかって別れました。
現在の、平和で豊かな時代に感謝しながら、直川村に帰りました。
林 寿子さん
《心の支え般若心経》
役員さんより是非投稿をといわれまして本当に恥ずかしいのですが筆をとりました。
私も、もう仁田原に嫁いで四十年近くになります。
あの頃は未だ戦後で物も少なく生活様式も今とは数段の違いでした。
女性は農業に明け暮れの毎日で、『何時かは生活も楽に』が夢で一所懸命よく働いたものです。
でも、あの苦しい頃の、隣近所や地区での心の通いあった付き合や農村の様式が、
なぜかなつかしく思えてなりません。
今では、生活様式は当時に比べて一様に楽になりましたが、何か気せわしく、
かえって心の通い合った世の中でなくなった様に思えます。
私も嫁に来た頃は元気だったのですが、三十歳を越えて体調をくずし、
約十五年ばかり病苦の連日でした。県下の多くの病院はほとんど廻りました。
病院に行っても医者はこれという病名もなく、それでも唯不安と苦痛の毎日でした。
其の間は、信仰にも迷いよく参ったものでした。
そうしたある日、実家の父に先祖に願いを込めて『般若心経を毎日唱えるように』と教えられました。
健康な時は、お経にも無頓着な私でしたが苦しい時の神頼み、ただひたすらに般若心経の
読経をつづけました。
其のうち、心の不安もやすらぎ、『先祖は自分の心の中に生きている、先祖に感謝の気持ちを忘れて
申し訳けなかった。』と教えられました。
今では、般若心経を「心の支え(心経二として先祖供養を第一に朝夕は勿論)、
月命日のお墓参りも欠かしたことがありません。
今日、こうして健康で暮らせることを「御先祖様のお陰を頂いた」と毎日を感謝し、
「心の通った日々を」と思いながら過ごしています。
近頃は、孫もお家に帰りますと、『マンマンさんに』と云ってお参りします。
その姿を見て本当に感謝し御先祖もさぞ喜んでいる事と思っています。
原 広美さん
《故郷の温かい慣習にふれて》
『故郷は遠きにありて思うもの』まさにこの言葉通りだと感じています。
私は直川中学を卒業すると大分市内の大分高専へ進学しました。
五年間の寮生活を送り、今は福岡県北九州市の会社に勤めています。
故郷を離れ、早や二十年になります。私の職場においても、北九州市出身の人は半数にも満たず、
北は北海道から南は鹿児島まで、日本全国から集まりこの他に生活の場を構えています。
この様に地方出身者の集合体においては、現在よく言われるところの『隣は何をする人ぞ』の言葉通りだと
感じます。
この様な集合体の中にあって、私も何度か知人の葬儀に参列したことがありますが、
葬儀の進行は全て葬儀社が取り仕切ります。
そこは各社組織の運営と言うこともあり、非常に洗練された葬儀となりますが、何か冷たさを感じます。
この様な中、私も今年の三月、父(原六男)の葬儀を二人兄弟の一人として出す様になりました。
この葬儀を通じ、故郷直川における都会にない地域の温かい慣習を痛感いたしました。
直川に定住している人にとってはあたりまえの事と思いますが、一歩外より本慣習を見ますと、
これが本来人間社会における人間らしさだと私は考えます。
時代の変化に伴いこの様な慣習は置き去りにされがちですが、一回置き忘れたものはなかなか
戻ってはきません。
この様な素晴らしい慣習をいつまでも地域に残しておいて頂きたいと思います。
私の様な若輩者が、諸先輩方の執筆する中、宝林精舎にこの様な原稿を投稿するのは心苦しいのですが、
故郷を離れ今一度見直した時、私が一番印象に残り、今後子供達にも影響を与えなければならない事
だと感じています。
長谷川大真さん(大徳寺・三玄院)
《紫野の一行書》
私は正定寺御住職寿山和尚と修行時代を共に過ごした三玄院副住職でございます。
前号の宝林精舎にて、茶道に関した記事の中で私の事を取り上げて頂きましたので、これを機会に今回
投稿させて頂く事となりました。
大徳寺山内と茶道とは室町時代以来深く係り合い、現在もその御縁をもっております。
茶道の世界では、よく「紫野の一行書」と言われ持て囃されておりますが、その声に応える為には、
それなりに落ち着いた書道技術を身に付けなくてはなりません。
「紫野」と書けば売れるじゃないか……と言う方も居ますが、
その答えを出すのは「茶人」と言われる方々ですから、何でもいいという訳ではなく、大変難しい事なのです。
書道家の書く字と異なる点は、展覧会に掛ける作品であるか、茶室に掛ける軸物かの違いだと思います。
お互いその場に合った書でなくてはならないのです。
私も書道を始めて約七年程なりますが、九日、京都の小さな書道展で朝日新聞社賞を頂戴致しました。
しかしそれは「書道家の展覧会向けの作品」に類するものですから茶道で言う「一書物」とは少し異なります。
茶室に掛けた時にその場所やその床に合う作品が書けるようになる迄、まだまだ筆を運ばなくては
ならないと思っております。
ところで、「お寺と書道」とは切り離せないものですが、お寺の和尚は筆が上手だと思って頂くと困ります。
と言いますのも「上手くて当り前」はそれなりにプレッシャーを感じるものですから、良い時にはそれもいい方
へと向うのですが、悪い時には増々悪い方へと向ってしまいます。
塔婆の字等は皆さんの目に触れますし、石塔は末代迄残りますから、お寺の和尚さん方も皆それなりに
努力をしておられるのです。私もですし、寿山和尚もきっとそうだと思います。
皆さん励ましてあげて下さい。
次回は又別の御話しを投稿させて頂きたく存じます。皆様御健勝であります様に……合掌。
長谷川大真さん(大徳寺・三玄院)
《第二段投稿》
墨跡というものは本来「師家」といわれる老師や管長といった僧侶が弟子たちに佛法を説いたりする時に
書き示したり、書き残したりしたものが現在に至っており、その使い方は相当変化しております。
そういう意味からすると「○○院御住職の一行書」等というのは少し違った見方がなされている訳です。
紫野という名を借りて、ただ単に墨跡を売って生活するというのは僧侶として好ましくない事です。
しかし、それを正しく見すえて使う人が居ることも事実でしょう。
求める人がいれば当然与える人がいるもので、この件に関しては、たまたま私達が与える側の立場に
居たという訳です。
そこで、その書によってお寺の財政の助けが出来、また自分が住職としてあるいは僧侶として
本来成すべき事さえ忘れなければ、ある種の布教活動にもなります。
特に檀家衆だけで護持できる寺院ならばそれもしなくてもいいのですが、例えば私の所の様に
そうでない寺院では護持の為、止むを得ない部分も有ります。
私は近頃やっと書道の面白さが少し解る様になってきたのですが、やはり墨跡や一行書と
言われるものよりも、書家の人達が書かれる様々な色合いと形の書が大変面白く、
違った物の見方や心の鍛練が出来る様な気がします。
以前は絵画が好きで、油絵など画いていた時期も有ったのですが、一寸したきっかけから
陶芸の世界へも首をつっこみ、もう七年近く土と話をしております。
絵や書は自分の手から作品が仕上がってゆくのが目に見えて解りますが、
焼き物は自分の手で作り上げた物は粘土細工であり、それを窯に入れ、火が作用してこそ作品に
成るのですから、どの様な物が焼き上がるのか解らないのです。
想像は出来ても割れたり変色したり、思いのままにならないから尚更面白いのかも知れません。
一つの粘土細工が目に見えない窯の中をくぐって、それ迄と違った物に成って出て来る時、
ある種の驚きと喜びが生まれるのです。
絵や書は見て楽しみますが、焼き物は見る他に使う楽しみが有るのも大きな違いです。
手に触れて使い勝手が良い悪いなどと思案する楽しさも後からついてくるのです。
共通して言える点は、体調や気持ちの良い日は筆も思う様に進み、土もよく言う事を聞いてくれますが、
悪い日は全く思い通りになってくれません。
土は生きているとか筆が踊っているとか言う言葉を耳にしますが、その本人の意思や体調、
年齢等が書や陶器やその他の媒体を通して現われているからではないでしょうか。
ある病院で患者さんの書道を看ているのですが、皆さんそれなりに人生を語りかける様な作品を書かれます。
いつから初めても又、いつ迄でも続けることの出来る趣味としては、大変手軽なものですから
皆さんも一寸思い切って筆か土を持ってみられてはいかがでしょうか。
きっと物を作る喜びが解っていただけると思います。
林 一人さん
《ご縁》
正定寺の役員を仰付かり何の役にも立たず、早や五年が経ちました。
日頃檀信徒の皆様には正定寺の法灯護持に御協力を賜わりますことを厚く御礼申し上げます。
特に地区の世話人様や婦人部の方々には大変御苦労をお掛け致して居ります。
この誌上を借りまして厚くお礼を申し上げます。
さて寄稿のお鉢が廻って、広報の久保田正巳さんまた和尚さんからも何か書いてと云われ筆を執りました。
私も「柚の原」と「上の地」と云う土地柄少年時代から寺に村する想い出はたくさんあります。
春のお釈迦様、学校から帰るとカバンを放り出し、ビンを片手にお寺に向って走ったものです。
戦中戦後の想い出は又の機会として。
処で役員を引受けて四名の責任役員で新しい宗教法人正定寺の会務を執行するに当り、
一応寺に関する色々な書類を閲覧検討した時のことです。
原始定款及び法人設立申請書等拝見をしました。昭和二十七年の設立申請であった。
代表総代小原千巌外四名、簀戸菊蔵、小田木治、矢野文作、林嘉治郎と署名捺印されている。
其の時父がそう云えば今夜も寺の会合、今日も寺の用事とか云ってお寺に通っていた事を思い出し、
四十数年前を懐かしく思った処です。
又々よく見ると捺印されている印鑑は、小生が勤務用に初めて作った印鑑ではないか。
再び深い感動を憶えた次第です。
閑栖和尚が林さん、これはやはり貴方に何かのご縁があっての事だと話された。
其の印鑑は、今でも佐伯のホンダセンターの印鑑箱の中にあり現役として使われて居ります。
私なりに其の時の状況を想像して見た。
各地区より外にも総代さんが出て居ましたが、やはり地元の寺に近い人を代表として作り、
当時、矢野文作さんは役場に勤務して居た関係又寺にも一番近い人だった故に彼が事務を
執ったものと思われます。
私も役場の一角に居た為便利よく印鑑を貸す事になったのでしょう。
いずれにしても四十余年前の電話もない時代、自転車で廻る以外仕方のない時代、色々と御苦労が
あった事と思っている処です。
私も何かのご縁か宗教法人として新しく出発の正定寺に係わった事に深く感謝した処です。
以来先祖を祭る菩提寺。傍の道に違わぬよう自分の出来ることを奉仕しようと心に深く刻んでいる
この頃であります。信仰も人一倍とは行きませんが、よく信仰もします。
善因善化、悪因悪化を信条として先祖を敬い日一日を感謝しながら今のところ元気に過ごして居る
この頃であります。
合掌
林一人さん
《般若心経とともに》
門前の小僧習わぬ経を読むの言葉のように、家内が毎朝仏前に向い般若心経を始め二、三のお経で
お勤めをする姿にひかれ、一人でに処々心経を口遊むようになりました。
若い頃は床の中で家内の読経を聞き鐘の音で目を覚す有様でしたが、年の勢もあってか近年心経に
興味を持つようになりました。
何年か前の寺報に寄稿した通り家内は大病をし数多くの病院を巡り、又様々な宗教にも迷い
大へん苦労した事がありました。
これと云う病名もなく究極は信心、先祖にすがることを一念に四十年、先祖供養を第一に今日まで
続けて居ります。
お蔭で以来元気になり、毎朝の般若心経を心の依り処として読経されて一日の始まりとして居ります。
私も数年前から家内の朝のお勤めにひかれ読経を一緒にと発奮先祖の安らかな眠りと、家族全員の
安泰を祈ることを其の日の行とするようになりました。
特に一昨年ふとしたご縁から四国八十八ヶ所参りをすゝめられ、直川にも二組の同行者があり
共に巡礼することとなりました。
初めは社会見学又少しは観光気分も伴って参加しましたが、全く異なりそんな安易なものではなく
本当に吃驚致しました。
上下とも白衣に靴も勿論、菅笠の巡礼姿であり、数キロの山道を歩く事もあり、又数百段の石段を登る
時もあり、正に体と心の修業の旅であります。
うすら覚えの心経でありましたが同行者の読誦に合せて付いて行きました。
霊場(札所)での参拝の仕方がわからず人におくれを取らぬよう又迷惑を掛けてはと一生懸命でした。
何せお経も一霊場で心経は二巻、食事の前に一巻、其の日の巡礼に感謝して一巻と、
一日に二十巻程の心経を上げます。
先達の先生が云った通り教本を見て早く憶えなくても毎日を心を込めて読経することだと教えられ、
懸命に努力した次第です。
お蔭様でお経も完全にマスターし現在五十一番札所迄クリアーし来年三十七ケ寺で満願となります。
こうして心経に学び仏の教に従って旅の出来ますこともお大師様のお蔭と感謝しながら楽しみにして
居る処です。
処でお経など全く関心のなかった私ですが毎朝の行と般若心経で心が洗われ、すべてが善因へと導かれる
思いです。
悟を開くなど大袈裟ですが、生涯が健康で幸せな一生であるように、般若心経は智恵の目覚めを
説いています。
信じると云う清浄無垢な心をもって初めて仏教の教えに接し、智恵によって其の教えを知り悟りの道に
到達できると説いています。
「摩訶般若波羅蜜多心経」本当に有難いお経だそうです。
幸せになる「仏の智恵」の教えを大事にこれからも家族一族一緒に先祖を大事に感謝の心で
豊かな老後を送りたいと念じて居ります。
林一人さん
《寺の想い出》
梅雨も明け、本格的な夏を迎えました。
檀信徒の皆様方には、御健勝にてお過しのことと推察申し上げます。
さて、私こと一月の総会に於きまして責任総代に再選され、花園会会長を仰せつかりました。
元より浅学非才であり、其の責務の重たさを感じている次第でございます。
しかし、菩提寺である寺の事故に、万難を配して其の任務を果して行くつもりでありますので
よろしくお願い申し上げます。
特に世話人様方や婦人部の方々には格別な御世話になる事と存じますが、御指導、御協力の程を
重ねてお願い申し上げます。
さて、私の正定寺に付いての想い出を少しばかり記したいと思います。
家が寺とは向合いであり、隣集落で子供の頃からよく往来したもので、春の甘茶祭り学校帰りに瓶を
片手に近道を走って登った。
夏は年上であったが義弘和尚とは一緒に前の川渕で水浴びをした時代が、懐かしく想い出されます。
一番印象深い事は親父が総代をしていた関係でよく使いに行かされた。
何故か夕方になると思い出したように用事を云い付けられた。中渡りを急ぎ渡り、寺に走った。
苦になるのが唯一山門に通じる石段である。
左曲りの石段を登り、一息付いて右段上に山門が見え元気を出して一気に登る。
山門の中でヤレヤレと思うが、庭に上るのにまだ数段あるのが非常に重荷だった。
庭の石畳の参道に上る。
夕闇に本堂がかすんで見える、又走る。と云うのが右脇に崩れ掛った祠、大師堂があり
其の前は墓地、子供心に何か鳥肌が立つ。
急ぎ玄関の呼鈴を押す。和尚さんすぐ出てくれと玄関で足踏みをして待つ。
しばらくして千巌和尚さんの「林か、親父は元気か」、決って第一声であった。
父と同年だの色々と話すが、耳に入るものではない。
早く帰りたい一心、一目散に走り、石段はいつ降り去ったか覚えぬ有様であった。
この道しかなかった正定寺、よくも義弘和尚や御姉妹さん達、佐伯中学校や女学校に五年間も通ったものだと、
厚く感心懐かしく思われてなりません。
車道も出来て便利になったが、時には山門経由の石段を懐かしく思う処です。
これからも色々と檀家の皆様には御世話になることと存じますが、先祖を祭る菩提寺です。
古き良き伝統を受継ぎ、法燈護持に努めなければと思っております。
皆様の御理解と御協力をよろしくお願い申し上げます。
廣瀬博信さん
《八月盆・敗戦・疎開》
今年一月から正定寺世話人の役を頂きましたが、何分にも浅学非才な身であります。
何事に付け至らぬ点も多々あることと思いますが、
正定寺様をはじめ先輩役員また檀信徒の皆様方の御指導とど協力をいただき責任と実行を基本として
世話人の役を勤めさせて頂きます。どうぞよろしくお願い致します。
早速ですが、此の度は、正定寺寺報に何か記載してはしいとの要望があり簡単にお引き受けしたものの
今日になっては、何の様なことを記載するべきかと、とても迷っていたんですが、
実は昨夜(六月三十日)TOSテレビの深夜番組で《今よみがえる沖縄戦の真実》と云うテーマで、
当時の沖縄の現実が放映されました。
その画面はとても悲惨な太平洋戦争の誤戦により先祖から受け継がれた大切な家・水田・畑・家畜
そして尊い命までが短時間で破壊されて殺されていく映像でした。
此の真実は、ただ言葉で戦争の「犠牲」とだけで片付けてはならないと思います。
一瞬のうちに破壊はできますが再建はとても長い年月が必要とされます。
沖縄では今なお再建に努力を重ねられているそうです。
戦時中の昭和十九年八月沖縄の具志頭国民学校(現小学校)の生徒四十九人が家族と別れ
本土の山間部、旧川原木村は正定寺へ集団疎開されました。
正定寺本堂へ寄宿され二年余の生活はとても食料物資の乏しい時代でしたが苦楽を共にしたものです。
その甲斐あって今は、きずなも固く結ばれ昭和五十八年二月正定寺住職様のど協力が実り
私達当時の同窓生四十五名が沖縄へ渡り久々の涙の再会に成功することが出来ました。
沖縄の皆様(沖縄正定寺会)との交流は増々深くなるばかりとなりました。
終戦の日が近づくとことさらに当時を思い出します。
樋口紫水さん
《恩師・森神紫陽先生を偲ぶ》
五十五日間の闘病生活、奥様の手厚い看護の甲斐なく三月十七日、九十二歳の天寿を全うし永眠されました
先生のご逝去はまさしく巨星落つの感慨と先達を失った私達に虚脱感と
深い悲しみ淋しさが身にしみて迫るものがあります。
今年正月、大分トキハで開催された大分県美術協会二十五周年記念名誉会員展に出品し、
一月七日には門人二十名を連れ、元気に祝賀懇親会に出席したのが公の場では最後になりました。
先生は日展に三度入選され大分県書道会の重鎮として県書道会をリードし、
県美術協会の名誉会員として地域文化発展の為、御尽力されていました。
日展入選作品の内、昭和三十四年の作品は直川村へ寄贈されたとお聞きしています。
直川村出身の先生は毎年夏になると赤木の緑泉で社中書道練成会を開催し、
練成の合間をみては緑泉下の川で好きな釣を楽しんでいました。
先生は生涯書道家として貫かれ、書に対する姿勢は厳しく、いつお宅ヘお伺いしても
机に就かれ勉強されていました。
弟子に対しても厳しく指導され、あまり褒めることのない先生でした。
そんな指導方針のもと弟子が展覧会等で入選入賞すると「お目出度う良かったね]と
やさしくお言葉をかけておられました。
一門の正月恒例の新年書初会、昇段級試験と祝賀会等、門人とお酒を酌み交わすことの
好きな先生、あの優しい笑頗、想えば数限りない想い出ばかりです。
先生の崇高な書風と書道精神を守り継いでいくことが我々の使命と思います。
ご生前のご指導に感謝し、ご冥福をお祈りして思い出といたします。
飛田禮子さん
《もみじの京都》
一昨年の十二月十一日、私は京都本山参拝に誘われました。
季節も良く京都の風景を満喫しながら皆様とご一緒させていただきました。
檀信徒の方やそのご親戚の方々、知った人ばかりでバスの中でも船の中でも和やかな楽しい旅でした。
参拝の日程は夕方正定寺をバスで出発、別府港を九時発の関西汽船で四国高松へ、
船中一泊して源平合戦古戦場跡屋島壇の浦・そして金比羅様にお参りし瀬戸内海を眺めながら
「夢の架け橋(瀬戸大橋)」を渡りました。
夜八時頃、正定寺の年寄り和尚さんが修業した南禅寺へ到着、初めての京都の夜を過ごしました。
二日目の朝ゆっくりと南禅寺を散策しその境内の広さと美しさに驚きました。
その後銀閣寺こ風山・金閣寺そして若和尚さんが修業した相国寺を拝観して京都ならではの
風情を味わいました。
特に、嵐山や東福寺のもみじは格別で鮮やかな木々の下での記念撮影は別天地のようでした。
いよいよ私達のご本山妙心寺へ到着です。
花園会館では精進料理をごちそうになり広大なご本山を、和尚さんに説明していただきました。
同じように本山参拝に見えた鳥取県の方々も一緒で、妙心寺派の檀家のご先祖さまをお祭りしている
大きな部屋で一緒に般若心経を唱えました。
焼香が終わると管長様がお説致してくださいました。
母親が子供に「古い物でも新しい時があった。お爺ちゃん、お婆ちゃんも若い頃があり一生懸命働いて、
腰が曲り、足が痛くなり亦体の形が変ったのよ」と言い聞かせ、
お年寄りに感謝する気持ちを教えれば、明るい家庭になり円満に過して行ける等‥…
静かに話しかける和尚さんの有難いお説教でした。
又、拝観の途中、短い着物に素足で広い本山を掃除している若い修業僧に会いました
一人前の和尚さんになるには計り知れない厳しい修業の道がある事も知らされました。
本山参拝も無事に終わり、色々と心に残る思い出を作れたのも先祖様のお陰だと感謝し
一層の信仰を深めて行きたいと思っています。皆様も是非ご本山にお参りしてみて下さい。
平井正さん
《本山詣りに参加できて》
去る十一月二日、四回目の正定寺本山詣りに参加させて戴き、六十人乗りバスに二十二名での快適な
旅の出発。
サンフラワーで神戸港にそして名ガイドの説明の中、東本願寺・鳳凰堂・万福寺・東福寺等
建物、国宝、重要文化財と身も引きしまる壮厳なお寺を廻りまして本山妙心寺に到着。
私達の菩提寺で有ります妙心寺は禅宗として、けいだい建物は全国随一で、
境内の広さ三十一町歩と云う気の遠くなる広さの中、四十六箇寺にかこまれた大きなお寺です。
朝六時十五分より雨の中で境内での建物(開山堂)の説明を聞きながら
微妙殿に参って廊下より百六十畳敷の中には柱は建って居ません。
正面の御本尊釈迦如来の両側には全国三千九百ケ寺に近いお寺の位牌が置かれ、
毎日供養して戴いて居ります。
当日は正定寺の位牌の前に灯明がともされまして、副管長様始め十名程の和尚さんにお経を唱えて
ご供養していただきました。
其の間、近々に夫、妻、子供と肉親を亡くされた方々がハンカチで目頭を押さえておられる姿に
感動させられました。ご先祖に会えた様な感じは、私一人ではなかったようです。
真実にお詣りして良かったと常日頃信心に縁遠い私でも、機会が有りましたら亦お詣りしたいと
思って居ります。
其れより雨の中の金閣寺・祇園会館での芸子さんの舞踏劇、きれいな舞子さんのおどり、三味線、唄い、
はやしと生の迫力にうたれ乍らの「祇園おどり」を見させて戴き、
同行皆様には大変ご迷惑をおかけ致しましたが、家族の様な雰囲気の中での楽しい旅を終える
事が出来ました。有難うございました。
本山詣りに準備その他万全をつくして戴きました新命和尚さんと、
お母さんに心から感謝申し上げまして筆を置きます。
平井 正さん
《新任あいさつ》
去る五月八日の護持会総会におきまして前:高須賀会長の跡を受けて会長に
選らばれました平井正です。
御承知の通り其の器でもありませんが、引き受ける事になりました。
副会長原六男氏、会計吉田春道氏外二十三名の委員と共に一生懸命にやって行きたいと思って居ります。
皆様の御指導御協力をよろしくお願い申し上げます。
前会長:高須賀様始め役員の方々には種々護持の為に御高配を頂き、
亦一昨年来、大屋根修理に対しましての素案作成につきましては、真実に御苦労様でございました。
特に寺岡棟梁さんには、多くの日時を費し、種々の御配慮を頂き終始献身的な御協力を頂き
役員さん共々其の御労苦に対しまして衷心より厚く御礼を申し上げます。
有りがとうございました。
大屋根修復工事も建築委員会其して皆様方の意見により当初の計画の中、
付帯工事を除き今度は大屋根のみやると言う結論になりました。
除きましたる工事につきましては亦近い時期に取り組まねばならない事だろうと思います。
大屋根修復工事のみでも檀家の皆様に大変な出費と思いますが、私達の先祖より受け継ぎました由緒ある
正定寺の存続に是非必要最少限の工事で御ざいます。
完成に向け御協力頂きます様お願い申し上げます。
泥谷 謹さん
《仏教と私》
武田さんから寺報に書く原稿を依頼されたが、考えてみれば九十五才にもなって時代のズレと共に
老衰による痴呆で種々の事柄や用件に対して物忘れが多く、
寺報に書く事を遠慮したが再三の依頼に最後の奉仕と思いペンを執った。
昭和十六年に川原木村役場を退職し、大分県農会佐伯事務所に勤務となり、時あたかも支那事変からの
戦時体制が強化され総動員法等によって私は食糧増産、供出等の督励に郡市町村を回る事が勤めであった。
そんなある日、宇佐神宮に先勝祈願祭に参列し、四日市町にある京都本願寺の分院に宿泊することになった。
当院では和尚さんの仏語の解釈やお説教を聞き人生としての修養を積むことができた。
帰りには和尚さんの温かい厚志によって数珠を戴いた。
翌十七年には佐伯養賢寺で研修の為、職員と共に一泊二日でお世話になり夜は修業に来られている方々
と共に座禅にも参加させて戴き和尚さんから「仏教と生活」についての法話をお聞きした。
翌朝は早く起床し掃除から炊事と努めを終えて帰庁した。
またある時は、研修旅行で高野山のお寺に一泊し夜は先祖の供養を営み、永平寺では若い僧侶の方々の
修業の話を聞いたり見たりして修業の厳しさと仏の道にある方々の心の安らぎ、
さらには人生として毎日の生活の上で、研修、修養の出来た事は大きな喜びであり、
すべてに感謝と慈悲の気持ちを持つことを身をもって体得することが出来た。
昭和十九年に母を、四十一年に妻を亡くした。妻の初七日に仏事を済ませ、深く考えさせられたことは、
戦時中の苦しさの中で家事はもとより子どもの教育、上は大学より高校、中学、小学と六人もの世話に
至っては考えられない程の苦労であったし、相済まない気持であった。
何としてもこの苦労の償いはしなければならないと思い毎朝、仏壇にお参りし心の安らぎを求め、
今日まで欠かしたことはない。以来、仏教について深い関心を持つ様になり、「抜粋のつづり」の中から、
観音信仰と生活(邦須政隆:眞言宗智山派管長さん)の講演録に目を通したり、白隠禅師の『坐禅和讃』…
衆生本来仏なり…を読んだりして理解を深め、特に人生として完熟期を終え終末期を迎える様になって
一層、仏の教えに学び、これからは益々健康に留意し「広く美しく、明るく、楽しく」を心がけ、
生き甲斐のあった人生として終わりたいと念願している。
寺報によって檀家の方々の親善を図り、又寺の催し事を通して仏の道についての理解を深め社会浄化を
計られつつある事やこれに携わっている方々の努力に対し、感謝をすると共に、
今後はさらに時代に適応した内容の充実に努められんことを望んで止まない。
広瀬イソ子さん
《般若心経と七十八歳》
小学生の頃、近所八軒で、月に一度各戸回りのお大師講がありました。
父は先達とし般若心経を読経していました。
自分の家に来た時にはよくお参りし、父に合せてとぎれとぎれにでも覚えました。
それ以来大人になるにしたがって、読経する機会を失ってしまいました。
経済的に恵まれない家庭では毎日の生活に追われ家を支える事しか考えられませんでした。
長い年月忘れていた般若心経、今此の年になって再び思いをかけ初めました。
年に一度お寺さんで行う大般若には、欠さずお参りしています。
和尚さん方の読経に合せて皆さん読経出来るのに出来ない箇所があって引っかかります。
どうにかして覚えなければと般若心経の本を買いました。
お店の方が『まだばあちゃん覚えてないの』と言われました。
恥かしいが其の通りです。『カセットも有りますよ』と、進められましたが自分で苦労して覚えようと
思ってお断りしました。それからは覚えることに努力しました。
お友達に同じ年の方で覚えてない人が居ました。
『どう?覚えましたか。』『うん。やっと覚えたの。わしな、トイレに行っても練習したの』
私はそう迄はしなかった。未だ真剣さと努力が足りなかったと反省しました。
始めてから約一ケ月でやっと間違わずに読経出来るようになりました。
それにしても記憶力の減退と頭の回転の鈍さが痛く思い知らされました。
以後三年、毎夜一日の仕事を終え仏前にお参りして今日の無事に感謝し般若心経を二回読経する
ようになって心の安らぎを感じるようになりました。
般若心経は字数が少ないが仏教の精粋を集められた経本。其の真意の程は仏門に入られた方は
おわかりでしょうが、私達は有り難い御経として今後続く限り毎夜の読経を続けようと思っています。
「動から静へ、進から過へ、有から無へ、」と身心共に変りゆく今の自分を見詰めながら残り少ない人生、
自分なりの炎の煙火を燃しながら生きたいと思っています。
広瀬伊久太さん
《信心と健康》
人生の幸福は健康なり、あの寒かったどてらの時期も過去り谷間に鷺歌い、
四方の山々は緑に包まれた四月十二日。
それは私が忘れる事の出来ない喜びの日であった。
役場住民課長より県知事殿から『小包が届いた』と云って受取りました。
急で開封したところ八十八才の米寿の祝として金銀杯一対が届けられました。
私はありがたく頂戴して早速ご先祖と氏神様に金銀杯でお神酒を供へて報告しました。
私は、今年八十八才を迎へ知事さんからお祝を頂きましたが私は自分の病気で病院の寝台に
一度も寝た事がない。
昭和四十八年二月から五十八年二月まで老人の医療費の無料と云ふ法律が布かれ実施になり
十年間無料時代がありました。今は外来で九百円、入院は日額六百円と云うことです。
私は過る十年間になぜ二、三回病気しなかったろうかと今、考えるとあと惜い気がして居ります。
之も私の健康に外ならないと思います。
話は前に戻りますが、終戦後昭和二十五年中、心背燎炎で目を患い眼科医に通院しました。
医者ではかばかしく行かないので或る信者にお詣りしました所、
『お前、信心を取れ信心も外に取らないでいゝ唯先祖を拝め、次に氏神様を祭れ』とお諭がありました。
私はそれ以来お先祖と氏神様に朝晩家内安全無病息災健康でありますようにと手を合しております。
之れも私の健康に起因して居ると思います。
昨年お正月の大分新聞に静岡の老人で今年九十才で最後の富士登山をしたと云う記事も出れば
写真も出て居ましたが、それくらいまでは自分も健康でありたいものだと感じて居ります。
檀家の皆々様此の世に生を受けた以上何日の日か死と云う峠を越さなければならない。
人生の最後まで健康でありますようお祈りしつつ寺報の一頁を汚させて頂きます。
平井美代子さん
《私の安らぎ》
いつの間にか、五十路の道を歩き始めている自分に気づき、改めて時の流れの早さを感じる
今日この頃でございます。
日一日として安らぐことのない、あわただしい毎日を過しています。
土俵際に立っている自分・仕事・経済・趣味にいたるまで、考えて見れば、全部そうなのである。
考え方を変えれば緊張した生き方とも云えるだろうが、あまりにも忙しい毎日なのである。
現代は、週休二日制の企業も多くなり、ましてや学校までもそうなるのではないかと云う、
ゆとりある生活が求められているのに、私の生活はゆとりどころか追われるばかりである。
今日が何日か、何曜日かといつも自問自答するような日々の中で一つだけ私の時間があります。
それは、書道教室です。仕事の都合で参加出来ない時もありますが、私に心の安らぎを与えてくれるのも
書道です。先生は正定寺の若奥様です。生徒も、若い人から私のようなおばさんまでバラエティにとんでいます。
皆さんとのコミュニケーションも素敵です。書譜に順じて昇級に頑張ることも出来ますし、
又、作品作りに取りくむこともできるし。私にとっては楽しく「無」になれる時間です。
書道を通じて「写経」もやれるし、先祖様へ思いを馳せてくれます。
生きている時は、色々と意見の衝突もありましたが、ほとけ様になった今はただ懐かしく、
優しく見守ってくれる父母。
良きにつけ、悪しきにつけ先祖様に報告をする私ですが、何にも云わずに微笑んでいるばかりです。
それが又、何とも云えぬ安心感を私に与えてくれます。
初孫もでき日増しに可愛いくなるばかり。
昔の人の格言どおり『目に入れてもいたくない』とか『子より孫が可愛いいか』『雪より霜が冷たいか』
そのものである。
両親からいただいた頑強な体と強い精神力で仕事の出来ることに感謝しております。
飛田世志雄さん
《11.451》
「11.451この数字が意味するものはお分かりでしょうか?
そうです、去年(平成四年)一年間で交通事故で死亡された人数です。
この中には、高齢の方を始め、未だ現世は何かを知らない一歳にも満たない乳児まで
含まれているのです。
私は現在の職業を通じて様々な死と対面してきたのですが、一番悲惨な死は交通事故によるものと思います。
当直勤務中のある日の早朝、「交通事故発生、車が電柱に衝突し乗車している3名とも死亡している模様」
と叩きおこされ、半信半疑で現場に急行したのです。
現場に近付き道路を見ますと、未明の明るさの中に衝突したと思われる電柱に向かって
百メートル近いスリップの跡が見受けられ、さらに現場に到着してみますと乗用車が
真っ二つになっており、乗車していた二十歳代の若者三人が死亡していたのです。
事故の原因はスピードの出し過ぎであると思われますが当時の状況について居眠り運転していたものか、
なにかに気を取られていたものか、その原因は最早判る術べもありません。
一寸した注意をしなかったがために、守らなければならない交通ルールを守らなかったがために、
自らまたは全く関係のない他人を死に至らせしめることになるのです。
ここ数年は、第二次交通戦争と言われるように、毎年一万人以上の人が交通事故で亡くなっているのです。
人間何故こうも死に急ぐのでしょうか?
折角この世に生命を与えられたのに天寿を全うすることは難しい世の中になっているのでしょうか?
皆さん、もう一度考えてみませんか、命の大切さと、命を守る術を。
交通事故で亡くなった方々の御冥福を祈り合掌
飛田好枝さん
《暮らしの中で》
私は今年の四月で早古稀を迎える年齢となりました。
嫁いだ頃から夫と共に農林業を営んでまいりましたが、
昭和六十年五月に思いもよらず夫が病気で入院し、胃の手術を受けました。
そして一年七ケ月の長い人院生活を過ごしました。
夫の入院中は不安な毎日が続き、絶望状態になった事も度々でした。
でも周囲の人に励まされ乍ら、一日も早く快方に向かいますようにと心の中で仏様にお祈りし、
介抱を続けるうちに奇跡的に退院する事が出来ました。
八年過ぎた今では、病弱乍らも家のまわりの軽い仕事は出来るようになりました。
そして大分の娘の家に車を運転し、遊びに行くのを唯一の楽しみにしています。
これも神仏の御加護に依るものと有難く感謝致して居ります。
そして朝タ神仏に礼拝し、仏前で般若心経を唱える事で心の安らぎを覚えます。
亡き姑は、お正月・お盆・それに春秋のお彼岸の中日には必ず、
霊具膳を供えて、お参リをして居りました。
当時の姑の姿を思い浮かベ乍ら、今は私が受け継ぎ守って居ります。
毎月十七日の観音様には、地区の方と一緒に近くの庵にお参りして居ります。
清掃した仏壇にお供え物をして、般若心経と観音和讃を唱えます。
お経の終った後で皆さんとお茶を頂き乍ら、午後のひと時を過ごして居ります。
例年のように今年も、正月二十日には大般若会が大勢の参拝者で賑やかに行われました。
その時私は、世話人婦人の方と一繕にお手伝をさせて頂きました。
皆さんとそれぞれの仕事を分担して明るい雰囲気の中で楽しく働く事が出来て有難く思いました。
又、昨年の秋には正定寺花園会婦人部が結成され、参加致しました。
お陰で先祖様にお参りする機会に恵まれて有難く思っております。
そして、これから新しく発足した婦人部の行事に参加させて頂きたいと思っております。
私達の暮らしの中には苦しい事や悲しい事があリますが、
信仰心をもって明るく人生を送って行きたいと思います。
平井 正さん
《三ケ年を振り返り》
此の度護持会長を退任するに当りまして一言お礼を申し上げたいと思います。
三年の間一緒にやって頂きました委員の方々はもとより、檀家の皆様の御協力に対しまして心中より
厚くお礼を申し上げます。
振り返って見ますと丁度大家根修復工事の話が出た時でありました。
色々の御意見の多かった中、幸いにして完成を見るに至りました。
特に委員の方々には毎月の積立金の徴収等大変でございました。御協力に対し感謝申し上げます。
例年行われます「大般若会」に毎年多くの方々の景品の御芳志により年を重ねるごとに盛会裡に終える事が
出来ました。厚く御礼申し上げます。
さて事業につきましては、墓地造成・裏山の林道開設・お稲荷さんの移転・細川内小屋敷林道新設等
手掛けてまいりました。
経費に関しましては支障木の市場出荷により四十万若の余剰金を見て終る事が出来ました。
特に武田守君には終始大変な御協力をいただきました。紙面をかり厚く御礼を申し上げます。
又今迄の護持会の仕組につきましてこれを変更する様になりました。
多くの方々の御意見と寺本来の姿を思い合せますと総代を中心の行き方が事業をやる場合は
特に其の感が致します。
世話人さんの同意を得まして総代さん方とも懇々と相談を持ち納得をえまして本年度より実施する様に
なりました。
今迄の『護持会』を『花園会』と改めまして各委員さんには今迄通りお寺のお世話をして戴きまして
今迄の三役(護持会長・副会長・会計)の役員を廃止する様になりました。
総代さんを柱に護持一般をやって戴きますが今迄通り御協力頂きます様お願い申し上げます。
三年の間お寺の方々に一方ならぬ御世話になりました。
至らぬ事のみに終りましたが誠にありがとうございました。
檀家の皆々様の御多幸と更なる御協力をお願い申し上げましてお礼と致します。
泥谷 謹さん
《我が人生百歳の歩み》
大正七年七月大分県立農事講習卒業
大正七年八月大分県蚕業試験場助手
大正九年四月中野村農業技手
大正十一年四月直見村農業技手に転任
大正十四年四月川原木農業技手に転任
昭和六年満州事変の勃発から、日支事変と発展し、戦時体制下になったので、私は中野村を始め、
直見、川原木村在職中は、主として、部落毎に農事小組合の設立を進めて共同田植、共同炊事、
共同防除等を推進して来た。
戦時体制下なので、経済面を始め、あらゆる面の統制が強化されて来た。
昭和十三年には、国家総動員法の公布があり、昭和十四年には国民徴用令が公布、
昭和十六年から、大分県農会職員として、南海部郡農会事務所に駐在となった。
昭和十六年に食糧管理法が公布になり、食糧配給制度となった。
食生活は極度に困難となって来た。農業団体では各種の団体が統合せられ、大分県農業会が設立され、
食糧の増産、供出、配給をする業務を行うことになった。
私は農業会設立と共に、南郡町村の指導課長を命ぜられ、その責任を負う事になった。
毎日各町村に出向き、食糧の増産、並びに計画等の指導、供出等の督励に務めた。
郡内出張はすべて、自転車であるので、名護屋村、蒲江などの場合は、朝の四時に家を出ることも度々あり、
佐伯事務所からの、帰宅の時も午後七時、上岡駅からは貨物列車であった。
昭和十九年になって、日本軍は戦況至って不利との状況を知った。
昭和二十年、沖縄が米軍に占領され、広島、長崎に原爆投下、ポツダム宣言受諾、
天皇の終戦詔勅放送があって終戦となった。
昭和二十一年、終戦によって事務、其の他の処理を行なったが、戦事に対する事務については苦労した。
昭和二十二年は、自宅休養川原木農協組合長六ケ年昭和
二十三年川原木村森林組合長六ケ年
昭和二十九年直川村村長弐期八ケ年
昭和三十八年茲に来て、生涯を振り返って見て、村民の皆様の長い間温かい御支援ご協力を
戴きましたことは、只々感謝、感激に堪えません。
更に、四月十一日、百才を迎えたところ、村民の皆様方々から御祝の御言葉を戴き有難く感謝に堪えない。
余命を、人生として生甲斐のあった終末を遂げたいものだと思い、最近は、毎日を心安らかに、
毎朝仏壇に御参りしている。
戦前五十年は、人生として戦争体制一筋に、戦後五十年は、世界の経済大国の福祉国家をなし遂げた。
今、ここにひとしお振返って考えると、感慨一入であります。
平井幸司さん
《たぁにぃ》
二〇〇三年三月十三日、いつも通り仕事をしていたら、携帯に着信があった。
一週間ほど前から意識のなかったじいちゃんが亡くなったという。
意識がなくなった時、身内と近しい親類が集まった。
病室に六~七人いて、じいちゃんに呼びかけたり、腕をさすったりしている。
意識がないため、目が虚ろな感じで開かれていた。
腕をさすろうと袖をまくると、肌の色こそ昔のままだったが、筋肉質だった太い腕は見る影もなく、
骨と皮だけという表現がぴったりとくるように細くなっていた。
電話の後、仕事を引き継ぎ、急いで帰った。
通夜には間にあった。大勢の方がお焼香に来てくれた。
お焼香をし、ばあちゃんやお父さんに一言二言声をかけてくれた。
口々に「たぁにぃ」と言っている。
小さい時から聞いている言葉だが、聞けば聞くほど涙が出た。
未だに「たぁにぃ」と聞くと目が潤む。
しかし、これだけ大勢の人に「たぁにぃ、たぁにぃ」と慕われる祖父、平井正を改めてすごいと思った。
通夜の後か、葬儀の後かに、ばあちゃんと何人かが話をしているのを聞いていたら、
「たぁにぃは、かぁねぇじなきゃいかんかったんよなぁ。いっつも〝かず、よいかず〝っち、呼びよったもんなぁ」
と言っていた。
病室で、意識がないのに、よく目でばあちゃんを見ていた。
最後まで、ばあちゃんを頼りにしていたのかなと思った。
じいちゃんは、やさしく、いろんなことを教えてくれたし、いろいろ連れていってくれた。
たまに怒るのだが、ものすごく恐ろしかったのを覚えている。
三人姉弟の末っ子だった自分は、二人の姉よりじいちゃんに多少ひいきめにしてもらったように、
今となって思います。
働きだし、たまに家に帰ると、ばあちゃんと並んで座わって、
「おう、こうじ、帰ったんか」と笑っていたじいちゃんをよく覚えています。
最後に、親類、地域の方々、ご協力いただいた方々に、この場をお借りしてお礼を申し上げます。
花園会女性部 廣瀬芳子さん
この度、幸いにも寶林山正定寺第二十四世南陽和尚様の晋山式に主人共々お手伝いするご縁にめぐりあえて、
感謝しております。
私達は、先代の豊嶽義弘和尚様にひとかたならぬお世話になっておりましたので、
いっそう深いご縁を感じました。
私は安下所で出立茶礼の供給のお手伝いをさせて頂き、金襴袈裟の装束に整えられた、南陽和尚様の
立派なお姿に感無量でした。
稚児行列にも参加し、お稚児さんや沿道の皆様がこの晋山式を祝福して下さり誇らしく思いました。
新命南陽和尚さんもこれからさらにご修行を積まれて立派な和尚様になられ、私達壇信徒を
お導き下さりますようお願い致します。
藤村道雄さん
《親になり》
直川村を離れて十年以上が過ぎました。
喧噪とした都会生活の中で、忘れがちな故郷の豊富な自然や人々の素朴な暖かさが、
とても懐しく思い出される今日この頃です。
私は現在、都心から電車で五十分程の神奈川県の大和市という所に、
妻と昨年誕生した長男と共に幸せに暮らしております。
結婚を機会に姉から位牌を譲り受け、本来ならば直川村に住みお墓を守っていくのが筋だとは
思いながら、遠く離れてはいますが私達なりに先祖と両親の天命を祈るようになりました。
狭いながらもマィホームを持ったので、遅くなりましたが仏壇も購入しました。
最近しみじみと、故郷の良さを感じるにつけ、自分の生まれ育った土地を大切に思うと共に、
先祖も大事にしなければと考えるようになりました。
親になり、はじめて親の有難さがわかった今、自分にできる最大の親孝行は
先祖と両親への供養しかないと確信したわけです。
大袈裟に聞こえるかもしれませんがこれは特別な事ではなく人間として自分の原点はどこなのかと考えた時、
ごく自然で基本的な気持だと思います。
人は皆、親の背中を見て子は育つといいますが、このように素直に受け入れられたのも
両親の生きる姿勢が無言の教育をしてくれた賜物と思います。
時代が変わっても、世代や土地柄は様々であっても親から受け継いだ先祖への思いは
心の中に生き続けていくのではないでしようか。
私自身、仏壇に手を合わせながら、近い将来、この姿を見て子供が一緒に祈ってくれる日が
来る事を願わずにはいられません。
そして、私達がこうして元気に週ごせるのも先祖のお陰だと心から感謝しております。
星野金一郎さん
《私が見た夢》
私にとって、神仏はほとんど縁のないものでした。
今でもそんな深くかかわりのない私に「何でもいいから書いちょくりー」驚きです。
何を書いていいのかわからない。
そこでうその様な話ですが、私は十年ほど前に、仕事現場で、二トン近い鉄板が落ち、わずか一、二秒
〝これで終りか″その瞬間、頭に浮かんだのは、やはり妻や子の顔でした。
病院に運ばれ、何日目かに、私はすごくきれいな夢を見ました。
空を飛ぶ夢です。
私の生まれた所の上を何回もまわりながら、いつのまにか、私の生まれた麦カラ屋根の家。
そこには仏壇に、何十本ものロウソクを立て、私を迎えるかのように、何十人もの人が
楽しそうに読経をしていました。その後、何軒も廻りました。みな同じ事をしていました。
提防の上に行った時、若い人達が酒を飲み、杖や大太鼓でおおさわざしながら、
とてもきれいな舟を作っていました。
家の時もそうでしたが、皆が手まねきをします。私も楽しい事が大好きなので下りていこうとしました。
その時、何か声がした。それは妻の声で、それが経を唱えたのか、ただ呼ぶ声であったのか
おかげで私は今生きてます。しあわせをかんじています。