坐禅感想文(な行)
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。
鳴海周一さん
《山門随想》
平成元年如月中旬某日、正定寺山門に至る自然石のきざはしは、
暖い陽光と遠近に見る梅花の香りで春の気配すら感じさせる風情があります。
鐘楼を兼ねる山門の入口に立つと、不意に視界一ばいに本堂の大屋根が見えます。
それから境内に上る石段を一つずつ登るにつれて本堂が上から下へ次第にその全容を表して来ます。
このレイアウトは国東半島国宝富貴寺大堂のそれと酷似していますが、ここは如何にも禅寺らしく
簡素で独特の風格があります。
黙したま~本堂に入る、正面本尊は釈迦如来である。
御仏を拝する座の真上の「人天蓋」に内に見る、美しい極彩色の天女像は或る種のなまめかしさがあって
目にまぶしい。座せば一瞬にして静寂の世界となる。
天蓋から下がる瓔珞の微かなゆらめきに、聞こゆるともなき「たまゆら」の音を聞いたとすら思う程の静かさである。
一隅に珍宗禅味和尚像と記され古い掛軸を見る。
あの和尚はこの人であったのか。……
不意に私の思いは文化九年(1812年)佐伯藩をゆるがした近郷七ケ村農民による百姓一揆にさかのぼる。
史書は言う、このとき一揆に加担したる人、実に三千余人とそして、その人々の精神的支柱となったのが
当時藩主と対等に話しのできる高僧珍宗和尚であったという説がある。
しかし、全国各地の一揆がそうであったように、この一揆も又悲惨な結末を迎えることとなる。
主謀者八人のうち二人は刎ね首獄門、六人は蒲江浦深島へ遠島となった。
後に深島流人の人々は入津郷尾浦に入り、その開拓にあたったという。
私もその未商の一人として今ここに座している。
尾浦はここ正定寺から南へ六〇キロ余も隔たる海辺の寒村である。
今は車で一時間の距離であるが、百七十余年も昔から、つい昭和二十年頃までの寺と尾浦の往ききは
如何に不便であったか、人死にでもあれば早朝尾浦を立ち夕方寺につく、翌朝和尚の供をして尾浦に帰る。
勿論すべて徒歩である。葬儀がすむと二十人余の親戚が寺参りに来る。
寺は膳ごしらえで手厚くもてなし、一晩の宿をかす。
不便ではあったがそれだけに寺と檀家の結びつきは今でも他に類例を見ない程深く根強いものがあります。
山門を辞して下りの石段に立った途端、
一瞬真黄色の「つわぶき」の花の群落がまるで白日夢のように私の視野をかけぬけて行った。秋の花である。
ここ山村にない筈の「つわぶき」は海辺の尾浦の檀徒が毎年毎年辛棒強く持って来ては植え続けたのです。
若い新命さんのたんたんとした話し振りが私の心の中に強い感動として残っていたからであろうか。
私自身は新分家なので家に仏壇もありませんし、菩提寺も決ってはいないと思っていました。
しかし、下りの石段に見た「つわぶき」の花の幻覚は、私にある決意をもたらしました。
「宝林山正定禅寺」私の菩提寺となる筈の寺は、ふりむけば、すでに深い木立の中にかくれて、
鳥の声もありませんでした。
長田秀夫さん
《仏の道》
幾星霜の法灯を守り伝えておわす正定寺。正定寺あっての檀家・檀家あってのお寺、
その縁は人の世の尽きる事無く仏の道と衆生の結び付きの中で人間の生活の上で信仰に
生きることで日々たのしく幸せに生活をしている。
しかし、生有るものは威す。幾世代人々は帰らざる人となるが、鐘の音を聞き静かに吾が身を思い
香を焚きて供養一途に身を致すとき、般若心経の空なる心を自ずから会得して
家庭的にも社会的にも豊かな人間性を保持して暮らすことは、
身を以って知る仏の道であり、人の道であると信じております。
孫から『じいちゃん死んだらどうなるの』と聞かれた。
『それは何も可もなくなって仕舞う。だから今からあらゆる本を読むとそれがわかって来る。』と話した。
子供も成長するにしたがって人生の節目の都度に味わって来ると思うし、
信仰心も芽生えてくると思います。先祖を敬い供養も大事です。
しかし、私は先祖の言動、そして歩んで来た人として道をたがうことなく、祖先一に恥じない生き方をし、祖先の心を
活かして世事に取り組んで行く心算です。
慈悲と満足と感謝の気持で、今からも努力して一生を終り度と思うし、
折を見て、正定寺の門をたたき、世間話をする様な時も作り度し、好きな事もやろう。
その中にこれからの私の生き方を考えて行こう、
一秒の命を大切にしながら、そして正定寺と共に檀家の皆様の御幸福を願って筆を置きます。
中岡潤子さん
《母の葬儀に大阪まで》
春爛漫、梅も散り、桜の開花も今年は早く、例年にないスピードで、只今北上中との花便りに
季節の移り変りの早さを感じます。寺報を毎号楽しみに拝読させて頂いております。
又読み返していますが、特に〝正定寺の歴史″には興味深く強い関心があります。
何一つ知らない事ばかりでした。
現在私は大阪在住ですが、昔両親と大入島に住んで居た頃の事です。
生前父がお世話になりました正定寺様に、まだ千巌和尚様や弥栄奥様が御健在の折、
毎年父についてお参りしていました。楽しみの一つにしていた様に思います。
その父も逝って二十五年、大鶴にお世話になった母も十一年経ちました。
今元気だったら寺報を見てどんなに喜こんだ事でしょう。
私には判らない川原木の話題は尽きなかったでしょう。残念乍ら今は仏壇にお供えして話掛けています。
先年法事で正定寺様にお参り致しましたが、
車の通れる立派な道路もあり、位牌堂や、住宅別棟も出来、お寺の中も大分様子が変っていましたが、
鐘楼、本堂の静かさ、部屋の中から見た前庭、裏庭の様子は昔と少しも変っていませんでした。
石段が高くて休み乍ら登ったその脇のツワブキに対する尾浦の方々の想いを知り、感銘を受けました。
大入島にもツワブキが自生していたので何処にでもあると思っていましたから。
母も大阪で十四年一緒に暮しましたが葬儀の時には和尚様が大阪まで御出で下さり、
又その後法事には若和尚様がお出で下さいました。
遠路もいとわぬ正定寺様の御厚意に深く感謝致しております。
永川三好さん
《正定寺との出会い》
私は、愛知県生まれで今は別府に住んでいます。寿山さんと知り合ったのは、六年前のことでした。
「別府南無の会」の一周年記念で「松原泰道(べス卜セラー「般若心経入門」の著書)さんが
講師でお見えになり、寿山さんから一緒にお話を聴きに行きましよう。』と誘われました。
それが私と仏様の出会です。現在も時々正定寺に足を運びます。寺報もたのしく拝見させてもらっています。
仏様への想いや人との出会い、苦労ばなしなど心打たれる記事ばかりで一号からずっと
綴じて大切にしています。
去年のー月ごろでしたか、正定寺に行った時の事です。
寿山さんから、『何か寺報に載せる記事でも書いてくれませんか』と頼まれました。
私は、檀家でもないし文も下手ですので断わりましたが、是非と云うので
『正定寺の絵でも書きましよう。』と約束しました。
後日、カメラを持っていき正定寺の写真を撮り、絵を描き始めようとしたのですが、
檀家さんが二百五十家もあり、そのご先祖がお祀りしてあるお寺だから、
自分の気持ちもきれいにしなければと考えました。
私が初めて直川村の正定寺にお参りしたとき『いいところにあるお寺さんだ。』と思いました。
何んとなく心がやすまり気持ちがスーとするようでした。
三回・四回と行っているうちに、皆様の御先祖の祀っている所や住職様の墓や山門など
見て廻り、本当に心が洗われるようでした。今の世の中いろいろと大変です。
でも私は、時間が取れれば、『よし正定寺ヘ行こう』と思います。
私は、檀家でも大分の人間でもないですが、転勤、転勤で別府に来て十二年目です。
そして今は、お寺を知り心は豊かです。いやな事も思わなくなリ、たしかに見る目も変わり、
聞く耳も変わリました。皆様のように私も正定寺を大切にして行きたい
いつまでも私達の欲心を無の心に導いていただきたい正定寺であってほしいそんな、
私の気持ちを省りみながら下手ながらも心をこめて描きました。
長田秀夫さん
《新春の挨拶》
檀家の皆さん、平成九年の新春を迎えて家族揃って平和の内に正月を過ごされた事と御慶び申し上げます。
今年も皆々様方にとりまして良い年である様願って止みません。
特に諸事多端の折、絶ずお寺のことに御協力を戴いて居り感謝にたえず本当に有難うございます。
御蔭様で本寺の行事は元より環境面でも充実の一途をたどって居ります。
祖先崇拝に依る菩提心の現われであると思います。
今後共お力添えを願います。最近数多くのお寺様を見てきましたが、各お寺共清明に
して荘厳を感じながら安らぎもあり長い歴史を思う時、極楽浄土もかくの如きかと静かに感じとる処であります。
正定寺法燈護持のため更なる御理解をお願い致します。
人々の幸福と平和を理念として花園会も妙心寺派四千有余寺が一つの心で
仏法の普及活動につとめて居る処であり、本寺に於いても婦人部の方々が行事全般に細かく
御配慮下され御支援を承っております。期待と感謝を申し上げ度いと思います。
又すぐる日蒲江町福泉寺にて、教区花園会にも青壮年部として矢野さん・小野さんが出席され
意見発表をされ、本当に心強いことであり将来に向って若い力の結集にむすびつくことだと思います。
そして又、先般は宮崎県佐土原町大光寺にて東教区各寺の役員の合同研修会があり林一人氏と三人で
参加しました。
会議の中で感じた事は単的に言って今日まで数百年の歴史的事実があり仏教は人々の生活にとけこんで
一体となり限りない将来に向って佛の心は生きていると思いました。
処世の基本は何んであるかよく考え心の持ち株を如何にすべきか反省の上に立って行動して行きたいと思う。
檀家の先輩各位が本寺に寄せた熱意を思い起こして更に努力して務め度いと思います。
今後共よろしく御引廻しの程を御願い致します。
終りになりましたが檀家の皆々様の御盛栄と御健禅を祈念して御挨拶と致します。
中岡潤子さん
《奥の細道を尋ねて》
四月十六日-十八日二泊三日、友人と三人で東北旅行のツアーに参加しました。
伊丹から空路仙台へ、仙台からは観光バスでいよいよ旅の始まりです。
東北自動車道を北進、気温も高く大阪と変わらず、天気にも恵まれ幸先よい。
車窓から見る桜、こぶしの花は満開です。
先ず最初に平泉中尊寺参拝です。国宝の金色堂、天治元年の道立、創建当初の唯一の遺構との事、
皆金色の阿弥陀堂、素晴らしい螺鈿細工、透し彫りの金具、漆の蒔絵等。
ずらり並んでおわす仏像の中央の須弥壇の中には藤原三代の各御遺体と四代の首級が
納められているそうです。
御蔵には工芸品、藤原公遺品が数多く国宝の華まん、金銀字経等見事でした。
芭蕉の句碑、経堂、旧覆堂、鐘楼と見学し、中尊寺本堂にお詔りする。
天台宗東北大本山として、前九年、後三年の長い戦乱亡き人の霊を慰める為建立されたと聞く。
十数年前友人と宿坊に泊った想い出の束稲荘へ行って見る。昔と変わらぬ、懐しさで記念撮影をする。
月見坂の杉木立を義経や弁慶の話を聞き乍ら下って行く。
バスは又、ハイウエーを山形、秋田、岩手の盛岡へと北上し南部鉄器工場見学、酒蔵見学をすませ
青森三沢に、東北五県を通過する。
今夜は古牧温泉泊。
渋沢公園の中にあるホテル(朝早起きして公園内の散歩に出る。東京から移築した渋沢邸を外から見学、
内部が見れなくて残念でした。
青森は桜はまだ蕾だ。
二日目は奥入瀬渓流、十和田湖、発荷峠を通り一気に残雪の山形蔵王まで南下する。
スキー場の中にあるホテルに到着。まだ滑れそうな程雪は多い。
三日目は今旅行唯一の目的地、天台宗の古剃立石寺(山寺)です。
下から見た感じでは随分高い、一千段も登れるかと心配したが、曲り乍ら平地もあり以外と楽に奥の院迄到着
芭蕉の句碑の写真を撮り乍ら下山しました。
最後は、東北一の禅寺、伊達家の菩提寺瑞巌寺参拝です。
臨済宗妙心寺派で、正定寺様の昔の和尚様が、瑞巌寺の何代目かの御住職になられたとのお話を
想い出していました。
国宝の本堂、庫裡、各部屋の障壁画を見学し、前庭の紅梅白梅の前で写真を撮る。
四百年、八百年経つと云う杉の大木、昔の和尚様方の修業跡等驚く。
気忙しく船に乗り松島めぐりをして帰途に着きました。
帰宅したら、正定寺様からお便りで偶然を感じ乍ら開封、投稿のお勧めと三浦義男様の御急逝のお報せでした。
三浦様には、先々代先代と昔から亡両親共々お世話様になっております。
今ツジ姉様の御主人様が亡くなられ旧知の方々の去り行く淋しさをつくづく感じます。
心から御冥福をお祈り申し上げます。
我が家の仏壇にも報告し、朝夕の感謝の気持ちを忘れない様お参り致しております。
合掌
長田文明さん
《兄の思いで》
六月二十八日の深夜、佐伯市の病院で兄(満弘)を看病する母から「満弘の具合がおもわしくないので
すぐに帰って来て」との連絡を受けました。
私は、覚悟してはいましたがついに来る時がきたのかと思いました。
今まで必死で看病してきた母の淋しさを思うと何とも言えない気持ちでした。
妻と二人、大分市から病院へ車を飛ばしました。
病室へ着き、兄へ声を掛けるとこちらを振り向き目を一瞬開けてくれました。
しかし、その後二度と目を開けることはなく私たち三人が見守る中、永遠の旅立ちとなりました。
享年四十五才でした。
兄と私は、父を早くに亡くし、今は亡き祖母と母の二人に育てられました。
兄は幼少のころから体が弱かったため、小学三年生の時に施設に入ることになりました。
その時、兄が施設にいくのをいやがり泣きました。
このことを思い出しながら母と話すことがあります。
今、自分が子どもを持ってよく解かることですが、その時の兄を送り出す母の気持ち、施設にいかなければ
ならない兄の気持ちを思うと、こみ上げてくるものがあります。
そんな兄も成人となり不自由な体ながら好きな家に帰り療養が続きました。
私達が実家に帰っても直接言うことはありませんでしたが、いつも私達家族の事を気遣っていてくれたことを
母から聞きました。
そんなやさしい兄がいてくれたからこそ今の自分があるのだと思います。
二年前から体調不良になり入院しました。
一度は退院し好きな家に帰ることが出来ましたが再度入院、そのまま帰らぬ人となりました。
療養中には、たくさんの方々にお世話になりました。
病院の方々や直見苑、ホームヘルパーさん、近所の方々、みなさまに感謝いたします。
お葬式、逮夜を終えこれからも先祖を敬い、感謝の気持を忘れることなく大切にしていきたいと思います。
鳴海博美さん
《父》
四月初め、私たち家族は父(久幸)が余命一年ということを告知されました。
父は病名だけしか知りませんでしたが、少し落ちこむ父と私は、病室で『一緒に頑張ろう』という約束をしました。
しかしその二カ月後、父は息をひきとりました。
少しずつ、体の先から冷たくなっていく父の手を握りしめながら、心の中で、
『まだいかないで、頑張ってよ』と叫び続けましたが、病気には勝つことができませんでした。
父はもともと、職業病であったため、私が小さい頃から家に居ました。
母が働き始めたこともあり、家事全般を父が担当するようになってから、
父は料理の才能を発揮するようになりました。
カレー・コロッケ・パスタと何をつくつても絶品でした。
私が就職してからは、お弁当もつくってくれました。
盛りつけは、ちょっとぶ格好でしたが、毎回美味しく食べていました。
毎朝、私が通勤で通る平和公園で、犬の散歩をしながら手を振って見送ってくれるような、
娘思いの優しい父に感謝しっつ、後ろ姿が「歳をとったなあ」と感じ始めた矢先の入院でした。
今まで家で一緒に居る事が多く、何を話す訳もなく過ぎていた毎日でしたが、いざ父と別れがせまっている
と感じると、少しでも、父と一緒に居て、話をして、父との時間を共有したいという思いで病院に通っていました。
父は昔から私が好きな事は、自由にさせてくれていましたが、「地方で就職したい」と言った時、
「縁を切る」と言って反対した為、私は実家に戻って来ました。
実家に戻って来て三年間、父が亡くなることを運命だったと思いたくはありませんが、もし運命だったのなら、
私は実家に戻って、父と暮らし、最後まで父と一緒に居ることができて良かったと思っています。
入院中、父は、大切に育てていたブーゲンビリアを気にしていましたが、今年は今までになくきれいに、
まるで父が咲かせてくれているかのように咲き誇っていました。
縁側で座っている父の姿はもう見ることができませんが、私の心の中で父はいつまでも生き続けています。
長友玉美さん
《二十年前の写真》
私の先祖のお墓は延岡にあります。
お仏壇も延岡の祖父の家にあり、お盆などに帰省しては手を合わせたりしていましたが、
たまにしか帰らないため、私にとっては日常的な光景ではありませんでした。
ところが、その後祖父が亡くなるなどして、父が位牌を引き継ぐことになりました。
こちらでお願いするお寺の心当たりはなく、どうしたらよいものかと困っていたところ、
正定寺を紹介していただいたのです。
家にお仏壇があるというのは初めてで、戸惑いもありましたが、せっかく祖父母が延岡から佐伯まで
引っ越してきたのですから心をこめて供養していこうと、自分なりに毎月お仏壇の前で手を合わせていました。
そんな新しい習慣にもなれたころ、突然、父のもとに名古屋で一人暮らしの叔父が亡くなったと
連絡が入りました。
とにかく叔父を引き取らねばならないということで、私は父のお供で名古屋に向かいました。
叔父は四十年も名古屋におり、私は祖母と祖父の葬儀のときの二回しか会ったことがありません。
お酒が大好きでずっと酔っ払っていましたが、どことなく親しみを感じる叔父でした。
まだ小さかった弟がふざけて歯形がつくほど噛み付いたりしましたが、叔父は痛いと言いながら
楽しそうにしていました。
後で聞いた話では、子どもが大好きだったのだそうです。
名古屋に着くと早速叔父と面会しました。
一年ぐらい失業していた叔父はお酒の飲みすぎで亡くなったとのことでした。
名古屋で合流した叔母が頭を撫でていましたが、私は全く実感がわかずにそばに立っていました。
その後、みんなで一緒に叔父の家に行きました。
がらんとした部屋の真ん中に書類が落ちており、叔母がその中に写真があるのを見つけて取り上げました。
見ると、それは私が小学校に入学したときの写真でした。
両親、弟と四人で写ったその写真は二十年も前のものなのに、とてもきれいでした。
どこかに大切においてあったのを亡くなる前に取り出して見ていたのだろうと思いました。
ただ懐かしかったのか、九州に帰りたいと思っていたのか、どう思っていたのだろうか、
もう本人に聞くことはできないと思うと、涙があふれました。
佐伯に叔父を連れて帰ると、早速正定寺に電話し、初七日や逮夜のことを聞き、お寺に毎週通いました。
そして四十九日を迎え、叔父を無事に延岡の祖父母の眠るお墓に入れることができました。
亡くなった人を迎える経験は初めてでしたが、慌ただしい中にもきちんと迎えてあげたいと思えたのは、
やはり肉親として縁があったからだと思います。
また、名古屋では、いろいろな方が九州から出てきた私たちに親切にしてくれ、人の親切がありがたいと
身にしみた出来事でもありました。
これからも人との縁を大切にして感謝しながら過ごしていきたいと思います。
西田三津子さん(五年生PTA)
《親子の座禅会によせて》
五年生全員二十五名、先生数名のお母さんで始まった座禅会です。
和尚様にお願いしたものの、教室での子供の姿を見ている私達には、不安でいっぱいです。
説明を聞き、始まって十分くらいの時でしょうか、「動くな」と言う大きな声と、けいさくで畳をたたく音に、
気持ちが引き締りました。もう誰にも頼れない、それぞれが自分自身とのたたかいです。
畳の一点を見つめ、背中、足の痛みをこらえ、体を動かさずに………。
いつの間にか頭の中がからっぽになり、何とも言えない満足感がありました。
心配していた子供達も、誰一人、音をあげることなく、休憩を入れての二時間を座りぬきました。
静かに座禅が終り、親が子に、子が親にていねいに頭を下げ抹茶が配られました。
羊かんの甘さと、抹茶のにがさも特別なもののように感じられました。
後で聞くと、「もうしたくない」と言った子供もいましたが「やればできる」という自信と、心に残る何かを
感じてくれたことでしょう。
今までの座禅会の中で一番りつばだったという、和尚様の言葉をいただきさっきまで幼なかった子供達の
顔が急にたくましく見えたのは私だけではなかったと思います。
夏休みもあと二日、秋の気配を感じる本堂で、親子でこのような体験ができたことに和尚様、
お寺の皆様に感謝し大切な思い出にしたいと思います。