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坐禅感想文(た行)
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。
高須賀芳包さん
《法縁に接し》
初夏の縁り美しい頃となりました。檀家の皆様方には御多忙の事とと存じます。
私は今回、はからずも護持会の新役員の皆様より会長に御推薦頂きました。
いささか重荷の様ですが皆様方の御協力を得て、務めさせて頂きます。
過去3年間役員をさせて頂き、お寺の事も少しは判ってきた様に思います。
正定寺は皆様方のご先祖が護ってこられた460余年続いた由緒ある寺院でこのお寺の法燈を一層光り輝くよう
盛立てて行きたいと思います。
それは、尊い財産であり功徳に対する先祖への感謝のあかしではなかろうかと思います。
お寺と檀家との結びつきを一層良いものにと願っています。
暦の言葉に「得難きは時、会い難きは友」と言うことばがありました。
余りにも時を無駄に過ごしていた事かと思いました。
残された人生を時をおしみ心の友を一人でも多く持つことに心掛けて行きたいと思います。
今回からの三年間、正定寺の檀家の皆様と手を取り合ってつとめさせて頂きます。
よろしく御力添えの程をお願い致します。
竹下 正さん
《護持に全力》
この度、正定寺護持会役員改選に当り、
はからずも会計と言う大役を仰せつかり身にあまる光栄で感謝いたしています。
浅学非才な私ではございますが、菩提寺の護持法燈ために努力する覚悟でございます。
檀信徒皆様のあたたかい御指導と御鞭撻の程をお願い申し上げます。
武田逸雄さん
《平和の尊さ今一度》
あとわずかで六十路、人生すでに下り坂。
昔と思いはちっとも変わってないのに体力の限界を感じる今日この頃。
投稿依頼をうけ当惑しながら、昨今思いのままを紙面に埋させて戴きます。
二十一世紀がすでに秒読み段階にはいった今日、世界二大大国の冷戦構図が崩れ、
人類が待ち続けた恒久平和が実現かと思いしや、昨年八月に始まった「湾岸危機」、そうして戟争。
それぞれの国々の利害関係、特にその根底に潜む民族紛争。
宗教の違いが戦争の引き金になると云う。
日本民族では想像もつかない現実、そうして、「破壊・殺りく」と云う人類がもっとも恐れている
戦争と云う最悪が始まった。
テレビを入れると分刻みで戦争報道が、しかも四十五年前の日本民族さながらの姿が映し出される。
そうしてイラクの惨敗。おおかたの人は国際秩序を破ったイラクに非があるという。
しかし本当に被害をこうむるのは、いつも現場の庶民、そうして長くて苦しい悲劇の始まりでもある。
私たち日本人は中近東の漂流民族だとも云う。何んとなく他人ごとに思えない。
一日も早い復興を祈らずにはおられない。
そうして、この機会に宗教の持つ本随が何なのか問い正す時期かも知れない。
何はともあれ今、日本は平和だ。『ローマは、一日にして成らず』平和の意義を再確認し、
多くの人たちの命の犠牲のある事を、
幾多の戦争犠牲者の御霊の安らかな眠りを祈る今日この頃です。
高須賀芳包さん
《護持会の任期を終えて》
振り返ってみますと、61年副会長、63年会長と、6年間奉仕させて頂きました。
御住職の御指導や、護持会役員、世話人の皆様の御協力を頂いて、何とか務めさせて頂きました。
心より厚くお礼申しあげます。
護持会々長を引き受けた夜、先祖の仏壇に手を合せ三年間無事務めが出来る様祈りました。
自分に出来るだけの事は奉仕しようと心に誓いました。
年間の行事の中で、毎年正月二十日の大般若会は最も大きい行事で、各寺院の老師の方
二十数名、参拝の檀家、檀家以外の参拝者の方を含め三〇〇名を越す盛況、
御加勢の役員、世話人さん、御婦人の皆さんは前日より二日に渡っての大奮斗でした。
皆さんと共に盛況を喜び合いました。
それに、寿山和尚の先導で本山妙心寺参拝も記憶に残ります。
妙心寺の法堂で同行の背きんと共に般若心経を唱え、身も心も読経に包まれ、
心にやすらぎをおぼえました。
法堂の天井に描かれた「八方にらみの竜」の説明をき、又何百年もの風雪に耐えて来た、
歴史の重みを感じる由緒ある寺院の見学をさせて頂き、日本人の心のよりどころがここ京都だと思いました。
真紅の色が肌に浸み込みそうなモミジの木の下での記念の写真、雨の中を祇園の舞奴さんの踊り、
抹茶を頂いての踊り見物は京都ならではと思いました。
本山妙心寺参拝の楽しい思い出がいつまでも心に残ります。
此の三年間の任期の中で護持会が計画しました本堂修復大屋根修理の事業も途中で交代する
事になりましたが、責任総代、新任の護持会役員、実施委員の皆さんで再度計画をみなおし
進行中と思います。此の事業はずっしりと肩にかかった重い大事業でした。
正定寺の歴史からみて百年位は持つ確りした事業を計画したものです。
きっといい工事が出来、落慶法要まで、恙なく完了することを願っています。
五月の総会で新しい護持会の会長、副会長、会計さんが出来ました。皆さん立派な方達です。
私からも御協力の程をお願いします。
山を背負った正定寺にふさわしく、春は桜、秋は紅葉と、お詣りしては桜に秋の紅葉にしばし心の
リフレッシュ出来る様な環境が整いつつあります。
桜の木も大きくなりもうすぐ花見が出来る様になる事と思います。
遠くふるさとを離れている檀家の皆さんの心のよりどころとなる正定寺でありますようにと思っています。
最後になりましたが檀家の皆様方の豊かで幸わせなくらしと御健康を祈ります。
長い間ありがとうございました。
合掌
田中しげ子さん
《菩提寺》
私の様な門徒に正定寺さんより寺報の原稿の依頼を受け迷いましたが、
これも冥土へのみやげと思い、拙いながら今の心境を書いてみたいと思います。
よわい85才になっても死とは、こわい、おそろしいものです。
早く死にたい、お仰えがほしいとロでは云っても、いざとなると一日でも長く生きたいと思います。
それで宮内博一先生の「笑って死ねるか」、瀬戸内(寂聴)さんの本をよむが、
中々今の自分には程遠いのです。
明治に生まれ、大正・昭和・平成と世相は大きく変わりましたが、
変らないのは、ふるさへの愛着だと思います。
私は体が弱いため入退院をくりかえして居ります。
入院中に同室の患者さんから、「おばあちゃん◯◯この宗教に入リませんか。
病気が早く良くなリますよ」と、誘われた事もニ、三度あリました。
その都度私はハッキリとことわる事が出来ました。
それと云うのも私にはふるさ直川に正定寺と云う菩提寺があり、
その門徒の一人として末席をけがしていると云うほこりを持って居るからです。
とは申しましても何時も不在のため、お寺への奉仕供養などおこたりがちなので
申し訳なく思って居ります。
私も85才、人生の終着駅も目の前に見えています。
終焉の地はふる里で正定寺様のカ強い「カーツ」と云う一声で黄泉の旅へと
行ける事を信じて居ります。
毎朝タ二十分間位、般若心経・座禅和讃・一心頂礼など唱えて子供達や孫たちの無事である事を
お折りしながら毎日が終わります。
この一時こそ一番心の安らぐ時です。
あと幾年生きられるか分りませんが、残された命を少しでも悟り、空の境地に近づき度いと念じています。
田原正英さん
《真剣に生きる》
人聞は生まれた瞬聞、死ぬ運命にある。
若いい多くの人は、死を真剣に考える事を避ける傾向にある。
死の事を口に出すと年寄りじみているように云われるる。しかし、生あるもの必ず死す。
どんなにあがいたって、地位・学歴・貧富・国籍・全く関係なく人間皆、
わずか百年足らずで肉体は滅んで行く。
体は借り物、魂は不滅・死を真剣に考えれば考えるほど、又出来るだけ早く考えていればいる程、
一日一日を如何に過ごすべきかのより良い結論がその人なりに自然と出て来るはずである。
「誰でも老人になることは出来るが、誰でも豊かな老年を迎えられる訳ではない。
貴方の晩年は今日の貴方の生き方によって大きく左右される」とゲーテは云っている。
「生のさなかに我々は死の中にいる、誕生の瞬間から常に人聞にはいつ死ぬかわからない可能性がある。
そしてその可能性は必然的に遅かれ早かれ既成事実になる。
理想的には、全ての人間の一瞬一瞬を次の瞬間が最後の瞬問になるかのように
生きることが出来ねばならない。
常にいつ死んでもいいつもりで生きることが出来ねばならない。
しかもそのためにふさぎ込むこともなく平静にである。
この理念を全ての人間に求めることは無理かも知れない。
しかし確信を持って云い得るのは、人間がこの理想の精神状態を手にいれる所へ近づくほど、
それだけ立派なそして幸福な人間になれるということである」とは、
今世紀の巨匠の一人、英国の歴史学者アーノルド・トインビーの言葉である。
年をとればとるほど苦難苦行をしなければいけないし、いろんな事に挑戦して
行かなければいけないと思う。
老後に楽をする為に若い時に一生懸命に働くべきだと考えるのではなく、
その時その時に、今の自分がどの様にすれば社会に一番貢献出来るかを
考えて行動に移すべきだと思う。
カーライル(一七九五~一八八二)は書っている。
「われらの大いなる仕事は、遠方にかすかに存在するものを見るのではなく、
目の前に明瞭にあることを行なうことである」と。
受験の神様、有坂誠人は書っている、「もう絶対に間に合わない、ただ目の前にあるものだけを
ひたすらマスターすることに全力をあげる。
勉強とは、全部やり終わってはじめて、それが良かったのか、悪かったのか、
評価が下せるものなのだ。」と。ハーバード大学のC・W・エリオット総長は、
卒業式の時に、次のように云われた。
「君達はあまりにも自分自身のことを考え過ぎている。あまり自分だけのことを考え過ぎるな。
他人のことを配慮することが習慣化された人間になって欲しい。
そうして正しいと思ったことは勇気を持ってやってくれ、そうすれば君達は報いられるであろう。」と。
フランクルの書いた「夜と霧」(ナチスのアウシュビソツ収容所のことが書かれてある)を読めば
次の事が解る。「ぎりぎりの限界に人間が置かれている時、唯一の支えになるものは、
目的を持って未来を信ずること。
あの中で牧師と医師が生きのびることが出来たのは、自分が死ねば同僚が死んでしまうと思ったから、
つまり、牧師と医帥は愛の為に生き延びることが出来た」と。
現在、佐伯市中川区に住まれている私の佐伯鶴城三年の時の恩師、
数学の渡辺清一郎先生は、かって次のように云われた。「人間には三つの大き関門がある。
受験と結婚とそして死ぬ時だ。
受験勉強なんて特別なものはない、授業即ち受験勉強だよ。
採点ミスだと云ってて職員室に来る生徒がいる。
それに輪を掛けて点をあげる教師がいる。
つまらん学生になるな・教師、一体自分達が毎日何をしているのか考えてみるといい、
口先だけの人間になるな、個性をなくすな、生徒の為に、私にはただこれだけ。」と。
※平成二年十一月十日(土)の十七時まで救急病院の医療法人西田病院に十カ年半勤務し、
翌日に開院式を茶道でし、翌々日に開院し、入院べット十九床の小児科医院をしています。
竹中サツキさん
《主人もきっとよろこんで・・》
子供の頃、堂師の奥をこして祖母につれられてあの高い石段を数えながらかけ上がったりして、
お参りした事を思い出します。
今は、ずい分立派になられて車でお参り出来て大変幸いです。
私も竹ノ下へ嫁いで大変目まぐるしい日々がつづき、家の人達が何人も他界しました。
そのたびに大変お寺様にはお世話になりました。
その後は子供達や自分も皆元気で孫も四人出来て幸せです。
主人もきっとよろこんでくれてるでしょう。
夕べの念仏のたびに金ぱくの古い仏壇を見乍ら御先祖様に何一つお礼も出来ず気の毒な思いで
たまりませんでしたが、昨年新築しましたのでお仏壇を一番先に新しい床の間にはいってもらって、
この家を守っていただこうと思い、さっそく仏壇店さんより良い日をえらんで入れさせてもらいました。
弟妹の人達もよろこんでくれて、一だんと家のふんいきもより明るくなった様です。
弟妹の人達もたびたびお参りしてくれて、さぞかし御先祖様もうれしいでしょう。
親類弟妹も仲良く助け合う事がまた一だんと多くなった様です。
朝、出勤する時は必ず「皆様行って来ます」、夕方帰ったら、「皆様ただ今帰りました」と毎日毎日が楽しく、
これからももっと良い事が有ります様におきづけ下さいと心に念じて、
今夜も御先祖様への感謝の気もちで手を合わせる毎日です。
田中純子さん
《初めての手紙》
お義父さん(田中豊・柚の原)天国で安らかに過ごしていらっしゃいますか?
お墓や仏壇では、お会いしているはずなのですが、手紙を書くのは初めてですね。
そちらに逝かれて30年、小学生だった隆一さん、中学生だった忍義姉さんは、気がつけば、
お父さんが亡くなった歳と同じになってしまいました。
お母さんは当然、今の私たちぐらいで一人になってしまったわけですが、
生活してお姉さんや隆一さんを育てるために一生懸命で、私になんて想像もつかないくらい必死で
働いたと聞いています。
『何で私が…』とお父さんを恨んだこともあったと思います。
お父さんには、辛くなるようなことを書いてしまいましたが『一番悔しい思いをしているのは、私!』と
怒っているでしょうか。
でもお父さんが、見守ってくれたおかげでお母さんは子供を育てあげ、今は少しは楽をしてもらっている
つもりなのですが・・・。
嫁の私が言うのも何ですが、ささやかながらも幸せにみんな仲良く助け合って暮らしていますので、
安心して下さい。
欲を言えば、私は、この世でお父さんにお会いしたかったし、この世でお話をしたかったです。
本当に…。
ところで最近、直川で私たちをよく見かけるでしょう。
隆一さんは、お父さんの生まれ育った家に、休みがあれば帰って家の手入れをしています。
お母さんは庭の草取りや片付け、私はあまり手伝いにはなりませんが・・。
帰る日は、何だかウキウキしてとてもうれしそうです。
以前は、年に4回ぐらいしか帰れなかったのですが、家の手入れをするようになってからは
頻繁に帰り、お墓に参れるので何となくホッとしています。
つくづく家を手離さなくて良かったと実感しています。
最終的には、お墓参りに帰った時に、直川(柚の原)の家で泊まりがけでゆっくりできるようにしたいと
思っています。
まだまだ、随分かかりますが、私たちの夢がかなうように、これからもずっと見守り続けてください。
会いたかった嫁より・・・
谷崎百代さん
《私の心がけ》
野山は緑深く野路みれば、名の無い小さい黄色の花が風に吹かれ、楽しく踊っているようでのどかした。
そんな長閑な日、
正定寺様より、投稿依頼でした。花園会広報を読ませて頂きますが、私には文書などと思い余り、
息子にお願いしましたが息子は、作文も書いた事ないから書けないと言って…。
私が筆を致す事になりました。
夫が他界してから早五年、思い起せば、仕事が終って夕方六時過ぎ頃、家路へと急いで帰り着く、
いつものように、義ちゃん只今、主人は何時もと変らぬ、ピーコに話しかける。
ピーコ、ばあさんのお帰りだ、と言ってました。
夕食が出来たので一緒に食べようと思ったら主人が急に苦しみ様子が変だったので救急車の連絡をしてから…
間がすごく長く長く思った…。
病院へ行きましたが、先生方の看護も空しく午後九時五分でした。
眠るように静かに、大往生でした。
主人がこんなに早く、亡くなるとは、「人は何時かは死にます。」私が仕事から帰って来るのを待ってたのではと、
思うと余りにも早過ぎます。
主人が他界する以前は、お墓参り、彼岸、お盆とかに、お参りする位で、深く思わなかった正定寺でした。
主人が他界して、正定寺始め、地区の方、友人他、沢山の感謝を頂き、有りがたく思っています。
人と人にふれ合って人生の出来事が善悪なったり自分中心にならぬ様相手の事を思う思やり、
小さくても大きくても良い、この世界は人情、どこでも思やり、優しい気持ち心があって、ほしいものだと思います。
私も少しでも、そう云う心になりたいと思います。
息子の作文の事を思い出しました。思えば夫が他界しまして、二年位しまして、子供達の衣類、絵本、
書きつづった物を整理していますと、息子の小さい頃、小学校二年生頃の、作文が出て来ました。
何枚も、とじてあった中からの作文です、「おとうさん。おとうさんが、ボール、投げあいこう、しようかと云ったので、
うん、しようと云って、ぼくが先にボールを、お父さんに投げたら受とった。
今度は、お父さんが投げた。
ボールが、へんなちょこ、行ってしまった。お父さん、へたやった。もう、やめた。
でもお父さん好や。」ただこれだけ、あたり前の文書だけど、なんだか楽しくおかしく一人で声を出して
笑ってしまいました。
でも力強く愛を感じ少々感動しました。
口数は少なくて、優しくて思いやりがあって男性的な夫でした。
そんな夫が、私も好きでした。夫が他界してしまって夫の気持ちが始めてわかる次第です。
それは一番大事な人、大切な人、私を支えて下さった人、一人になって見つめますと、色々な事が
走馬灯のように思い出されます。
想は私の宝物として大切に受けついで生きたいと思います。
夫の月命日には、好きだった焼酎三楽カップを持ってご先祖様を仲良く楽しく飲んで下さいと、
日頃の出来事などの話をしながら、手を合せ、般若心経を上げながら、ご先祖様を信じ感謝こめて、
今日も無事、元気で又働く事が出来ます様にと、お祈りする次第です。
言葉たりませんが、どうかご理解の程よろしくお願い致します。
合掌
高野麻紀さん
《祖母がなくなってから》
祖母が亡くなって一年が過ぎた。あっという間の一年であった。
祖母が亡くなった時、私は京都にいた。そのため、祖母の死のそばにいれず、とても悔しい思いをした。
死ぬ前に会ったのは正月でそのころはとても元気だったため、まさかこんなに早く亡くなるとは
思ってもみなかった。
亡くなる2日後には、帰省する予定だったので、「むう少し生きていれば…」とよけいに悲しくなった。
しかし、祖母が望んでいた、病院のベットではなく、自宅の自分のベットの上で死にたいという思いが
適ったのが、少し報われた気持ちになった。
葬式の時、正定寺の和尚さまより、「おばあさんは死ぬ前、妙心寺で戒名をもらってきたはずですよ。」と言われ、
家族全員で、驚いてしまった。
和尚さまの言われた通り、仏壇の裏から戒名の名前を書いたお札が出てきた。
その名をもとに和尚さまから戒名を頂いた。
和尚さまから、「一度、おばあさんが行かれた妙心寺へ行ってみてはどうですか?」と言われ、
京都に住んでいることでもあるし、妹と一緒に行くことにした。
葬式が終わって数ヶ月後、妙心寺へ出かけた。
京都にはお寺が多く、住民にとって生活の一部となっている。
京都で暮らし始めてからお寺にはまだ一度も足を運んでなかったため、妙心寺のお寺の前でとても
神妙な気持ちになった。
受付を済ませ、祖母のためにお経をあげて頂いた。
すべてが終わったあと、お寺の和尚さまから、「また、いつでも来て下さい。」と言って頂き、とても嬉しく思った。
なぜだか、ここに来たら、もう一度祖母に会えたように感じた。
もしかしたら、とても近い場所にいたのかもしれない。
妙心寺をあとにして穏やかな気持ちになった。
先日、祖母の一周忌を終えた。本当にあっという間であった。
時間はあっという間に過ぎてしまうが、祖母と一緒に過ごした思い出は、私たち家族の心の中に刻みこまれ、
忘れられないだろう。
鉄山フジヱさん
《気を取り直し》
晩秋野山の木々が色づき、さほど寒くもなし絶好の日和。
寺報に寄稿とのことで思いつくまましたためる事にしました。
正定寺と申しますと、私より三級下に澄嬢と言う頭のよい娘さんがいて、学校では、毎年優等でした。
義弘様・喜美嬢と米ちゃんと言う、いとこの人と一緒に学校に通っていました。
小川一男さんと言う人も通っていました。もう何十年も前のことです。
私は昭和五十四年六十一才の時、脳血栓で半身不随になり、翌年夫が六十四才で他界。
長男夫婦に孫に囲まれ暮して居ります。去年十一月十一日、千葉県で働いていました、
三男吉生が仕事現場で昼食後、急性心不全で昼寝のままの状態で永遠の眠についたのです。
四十一才になったばかりの若さで……。一年の月日が経ち先日、法要を済ませていただきました。
一時として忘れる事は出来ません。親より、主人より、子供に先立たれた事の悲しい残念な事程、
この世の不幸は他に有りません。
暫くは毎日泣いてばかりでしたが、どうしても日々が経たねば心の安らぎは出来ません。
毎日朝夕に神仏にお経をあげ、家内中の無病息災をお願いし、夜は一日の無事を御礼申し上げています。
子供の頃、お婆さんが仏様の前で、リンを鳴らしてお経をあげるのが調子よく、面白いので
姉さんと二人で後に正座したものでした。
毎晩なのですっかり覚えて忘れず、今日役立って居ります。
お婆さんは信仰者でした。今も後姿が思い出されます。毎日、仕事もせず座って居ますと、
息子を失い、かけがえのない思い出ばかりをたどり家内の事、自分の体の事、いつまで続くのかと………。
昔と違い、何もかも進歩して便利な世の中になりました。
気を取り直し、福祉サービスを利用させて頂き、緑泉の入浴に職員の方へ大変お世話になっています。
文章が後先となって申し訳けご座居ません。これからも寺報を楽しみにしております。
正定寺の修復工事も終え、次会のお参りの節を楽しみにしてこれまでと致します。
悪文悪筆にて失礼させて頂きます。うそ字まじりでご免なさい。
フジヱ
照屋孚美夫さん
《沖縄学童疎開》
私は、五十有余年前正定寺に学童疎開としてお世話になった者の一人です。
当時小学校四年生の私も定年まで無事勤め終える事ができました。
これも、正定寺に疎開して沖縄戦の難から逃れ生を得たお陰だと感謝しているところです。
沖縄戦で肉親の誰かを亡くした疎開児童また、直前に疎開を止めた為に一家と共に亡くなった児童もいますが、
父母兄弟六人沖縄に残った者全員を亡くした私にとって疎開と正定寺には特別な感慨があります。
遠足気分で親元を離れ疎開生活の寂しさ苦しさに泣いたものですが、戦後帰郷した兄姉の語るところによると、
父は沖縄の激戦を予想し兄姉の年齢を考え血筋を残すために私を疎開させたと聞き只只涙するばかりでした。
疎開児童が集まり想い出を話題にすることは食べ物に関わることが殆どです。
出港から途中で船団を組む為の七日間に及ぶ待機を含む輸送船内の生活で空腹と喉の渇きに耐えられず、
蒸気の油臭い水滴を飲むなどの長い旅の後川原木駅に着き、夜分にも関わらず婦人会の皆様から頂いた
「しそお握り」のおいしかったこと、あの時の「しそ」の香りは今もって忘れません。
お寺での食事風景、当時の上級生は苦笑いをしますが、お椀に盛られたご飯またはお芋の量を目測し
量の多い席に着きそれから下級生が先を争って着席したものです。
また、学校の昼食時、軽くよそおったご飯が学校に着くまでに歩く振動で弁当箱の半分になるため、
これを弁当箱いっぱいに拡げて時間をかけて食べたこと等泣き笑いの想い出です。
なかでも心の痛む悲しい想い出は、学校の帰りに線路わきに落ちている蜜柑の皮を拾い、
休みの日には野山に入って桑の実を摘み軟らかい草の根・茎を食べていたが、寒くなるとそれも叶わず
周辺の農家の芋の種床を荒らしたことです。
空腹を満たすため農家の皆様に大変なご迷惑をかけ、また千巌和尚様にご苦労をかけた事を忘れてはならないと、
この時ばかりはしんみりとなります。
正定寺の疎開生活については、平成七年八月「学童疎開を考える平和学習」として御地の直川小学校において
小学生の皆様との交流会を持ちましたが、戦争の悲惨さと平和の尊さを感じとった感想文を読み、
また「広報なおかわ」・大分新聞にも紹介され正定寺の歴史の一ページとして若い世代に記憶され、
引き継がれることは、私たち学童疎開児童にとって望外の喜びであります。
「柳は緑花は紅人はただ情け」琉球古典音楽の一つです。
私たちはお世話になりご迷惑をかけた正定寺と直川村の皆様のご恩を生涯忘れることなく、
その絆を大切にしたいと思います。
沖縄は今元気です。
昨年の九州・沖縄サミットに始まり今年のNHK連続ドラマ「ちゅらさん」の放映と沖縄の元気・バイタリティ
そして平和を発信しています。
早や六十路の高齢者となった疎開児童も『正定寺会』を結成し偶に集まっては往時を偲び、
堺正章演じる「恵文」父さん程ではないが『ナンクルナイサ』(なんとかなるさ)と年金生活を楽しく過ごしています。
最後になりましたが、正定寺と正定寺檀家の皆様の益々のご発展を祈念いたします。
戸高竹男さん
《鐵山和尚について》
私の母からいつも聞かされていた談しなのですが、母が娘時代正走寺の住職で鐵山和尚と言われて、
今の若い和尚さんより三代前の方で恰幅豊かな立派な和尚さんであったと言い伝えられています。
その和尚さんが初めて主催で作られた仁田原の若い娘達を集めて教育する「教婦会」と言う会が
あったそうで、その内容は若い娘の一般教養から礼儀作法、
膳組の仕方、お茶の整法、漬物の漬け方まであらゆる農家の日常生活に必要な教育が教婦会と言う
仕組の中で、月に何回か行なわれていたと言う事です。
今で言うなら「公民館活動社会教育」の面まで一手に引き受けて、和尚さんがやっておられたと
言う事になります。
その時代は今と違って地方の行政も、今の様に多方面への働きはなく役場の仕事としては
税金とか戸籍の仕事が主で、社会教育など手をつけていなかった時代です。
そんな時代、宗教活動の中に村人に対する社会教育活動を熱心に取組んでおられた
鐵山和尚の実績は今の人達にはあまり知られていないと思います。
私の母は昭和五十八年、九十四才で亡くなりましたが、今の大原分校の前身で、明治三十年代初めて
小学校が開校になり、十才の時初めて最初の入学生として小学校に入学したそうです。
その頃は女の学問などあまり関心のなかった時代で、女の子は二人位いで同級生に小野善太郎さん、
野村佐四郎さんなど男友達がいたそうです。
そんな事で母も小学校とは言え基礎的な教育を受けていたお陰で、娘になってから
の和尚さんの社会一般の教育が割りと熱心に理解できていたんではと思います。
私は子供心にも母の談は物の筋道がはっきりしていたし、九〇才の中頃まで毎日新聞を全部目を通す事など、
かがきず続けていましたし、私達が子供の頃の躾けの中身などいつも鐵山和尚の言葉が引用されていて、
よほど娘時代の鐵山和尚の教えの影響が深く染み込んでいたのではと今でも思います。
明治の夜明の時代、地方に公民館活動も社会教育もなかった時代、仁田原の地でそれだけの大事な
教育活動をされていた実績は一人の女である私の母の一生の中からも何かその影響力の大きさが
つくづく吸みとれる様な気が致します。
この和尚さんに関するくわしい資料でもあればもっともっと大事な事もわかるのではと思いますが、
私は母から聞いた談しだけで紙数も限られていますし、是以上くわしい事は書けませんが、
若い人達の中で何かこんな問題に取組んでもっと深く業績を掘起こして見る方はございませんか。
乞一考
戸高寿生さん
《先人の残した大いなる遺徳》
久住町に静かな沢の回りを杉の大木が生い繁った「納池公園」という小さな公園があります。
その昔「加藤清正公」の通り路で、そこを通る度に野立てを楽しんだと云われる所です。
その公園の入り口付近に、樹齢八百五十年と云う大杉が約五十本ばかり空に向かってそびえて、
この地を初めて訪れたとき、大分県にもこれだけの古い木がこんなにまとまってあったかと
感心させられ機会のある度に立ち寄っています。
私自身、林業に携わって二十四年、木を育てる厳しさ、苦労が少しづつ分かってきました。
満足のいく木を育てるためには三世代かかリます。
祖父の植えた木は孫である自分の代にやっと伐採できるのです。
そしてまた、自分の植えた木を孫が伐採する。
その木を育てるためには、整地、植林から夏の炎天下での下刈り、蔓切り、枝打ち、間伐と
過酷な作業が続くのです。
納池公園の大杉も気の遠くなる程の人々によって守り継がれてきたと思うと、
かの地を立ち寄る度に敬服させられます。まさに、先人の残してくれた大きな遺産です。
そしてまた、私ども正定寺の檀家にとって、お寺の建物も先祖の残してくれた大きな遺産であるといえます。
正定寺は、現在地に移転して三百年、現存の本堂は、明治二十一年に再建されたもので、
既に百年が経過しています。再建に当たっては、寺山の木材をはじめ、多くの寄進や出夫により
賄われたようですが、これらを現在の金額に換算すると二億円は下らないと推察されます。
当時の御住職をはじめ、私どもの先祖の大きな苦労を思うと頭が下がり手を合わせずにはいられません。
最近、この本堂大屋根の百年を耐えた瓦も限界に達し、雨漏りがひどくなったということで、
その修復のための調査がなされ、護持会の役員さん、世話人さんの間で修復についての
検討がなされているようです。
人と風土にはぐくまれ、永年かけて育った木材には、雨の多かった年、干ばつの年、
厳寒の年、暖冬の年年輪一つ一つにその年の気候と風土が刻まれています。
そうして育つた木材をふんだんに使って建築された建物は、その気候と風土によく調和し
人の管理いかんでは他のどんな建物よりも永く保存できることは実証されています。
直川という風土で育った優良な木材をふんだんに使って同じ風土の現在地に
建築された正定寺の本堂は、本村でも数少ない
貴重な文化遺産であるといえましょう。
私どもは先祖の残してくれた、信仰の場であり、貴重な文化遺産である正定寺を
必要に迫られたこの時期に適切な管理(本堂大屋根修復)を施して子孫へ送ることが、
「先人の大いなる遺徳と恩恵に報いる。」と云うことになるのではないでしょうか。
清閑とした杉林の中も、お寺の本堂で手を合わすのも心が落ち着ます。
多分ご先祖様の教えが見えるからだと思います。
戸高小恵子さん
《人間誰でも人が財産》
月日の経つのは早いもので、もう二月も終り、梅の花も咲き乱れすっかり春らしくなりました。
私事ですが十四年前の五月五日に突然主人が他界し一変して夢のある生活から地獄へ・・・。
どうしてよいかわからない状態で、只ぼう然として毎日を過ごしていました。
何の取り得もない私なので仕事も手につかずにいたのでしたが仏壇の前で般若心経・坐禅和讃・観音和讃
を一生懸命となえる日々でした。
そうしていると心が落ち着き、ふと生前主人が口ぐせの様に言っていた言葉を思い出しました。
「人間誰でも人が財産」本当にそうでした。
私達親子は人様のおかげで過してこれたと心から感謝しております。
昨年は念願だった長男の結婚、今年は孫の誕生と喜び事が続き我家にも長い長い春が来た様な気がします。
私達をとりまく環境は目まぐるしい程の変化をとげています。
住まい方が変わり、それにともなう人の暮らし方も新しいスタイルに移行し核家族が進み、老人が増え
淋しい老後です。
バブル経済崩壊で布教に陥り、並の不況ではないのがちょっと不安です。
今までの物中心のつけがまわって来た様な気がしてなりません。
こうした時代の流れにのみ込まれることなく心だけはいつまでも失いたくないものです。
自分があることの根本は御先祖様のお陰ですと今日も一善を心にきざみながら日々を過ごさせて
戴きます。
これからは事あるごとに寺参りをしようと思っでいますのてよろしくお願いじます。
戸高喜代兎さん
《私と東京直川会》
昭和三十六年三月、豊南高校を卒業し、急行〝高千穂“に揺られて東京へ来て以来四十年、
良く勤めた会社も今秋無事定年となり、第二の人生がスタートいたします。
この間、両親兄弟をはじめ、家族は勿論のこと、多くの皆様方のお力添えをいただきまして、
深く感謝しております。
思えば、〝高千穂〟は〝富士〟に、そして〝新幹線〟に、飛行機も新しい空港に移り、
YS-11から大型ジェット機へと、この四十年間は豊かさを求めてまさに日本の高度成長の一時期だったと
思います。
この間、会社生活、家庭生活では皆様方同様いろいろの苦しいこと、楽しいことがありました。
しかし、私には山河に満ちた自然、そして先祖を祀る〝ふる里〟が常に心の支えとなり、
今日を迎える事が出来ました。
豊南高校の同窓会、大分県人会、そして「東京直川会」の幹事として、忙しい中お手伝い出来たことが
自分の今日までの人間形成に役立った事でしょうし、またこの会によって、ふる里に関係する多くの先輩、
友人を持つことが出来た事と深く感謝しています。
中でも「東京直川会」は、文字通り心のふる里です。
年に一回のこの会はまさに「直川」そのものだと感じます。
私もいくつかの会に出ていますが「東京直川会」はどの会よりも中身が充実していますし、
何よりも自然体です。
ここに至るまでの歴代の会長さんはじめ、村長さんならびに村関係者の皆様のご努力に感謝する次第です。
私自身、村から一人でも多くの方がご参加いただけるよう、微力ながらお手伝いさせていただいておりますが、
昨年の会には、正定寺の住職さんにもご出席いただきまして、会員一同親しくお話しすることが出来ました。
今後何年か後には、市町村合併のため大きな変化があるかもしれませんが、
「直川」の名の下、会は長く続くものと信じてやみません。
そして直川から一人でも多くの方が会にご出席されるよう、また、こちらから直川へ帰りました時には、
より多くの人達と交流出来ますようにと願っています。
誰にも束縛されることなく、いつまでも自然体の「東京直川会」であってほしいものです。
定年までのこの四十年余り、そのほとんどがお客様と向き合う仕事で、多くの事を学ぶ事が出来ました。
また、北は札幌から南は沖縄まで各地を見る機会にも恵まれました。
しかし、何よりも健康でゴール出来ることを幸せに思っています。
考えてみれば平凡な人生だったと思いますが、これからは趣味以上と言われている
〝畑仕事〟に精を出していくつもりです。
幸い、近くの地主さんが土地を貸してくれますので、これからは〝農家〟になり、
新鮮で農薬の少ない野菜を直川の人達と同じように食べていきます。
そしてゆっくりと帰省し、今まで出来なかった先祖の供養を心掛けるとともに、直川の人達とお会いし、
語らい、酒を酌み交わすことを楽しみに生きていきたく思っています。
東京・町田にて
戸高忠さん
《妙心寺開山無相大師650年遠諱にお参りして》
10月7日早朝、折から接近中の台風18号の影響による強い雨の中、善男善女と思われる
私たち正定寺班31名は直川を出発しました。
大分自動車道を北上して福岡空港より伊丹空港に到着、はとバスにて奈良市に向かい春日公園内で昼食後、
華厳宗総本山東大寺を参拝、木造建築物としては現在世界最大と言うことですが
それでも今の建物は創建当時の3分の2の規模だそうです。
機械もコンピューターもない往時の人たちの智恵と技術にただただ驚嘆するばかりです。
次に、訪れた史跡は立宗総本山唐招堤寺です。このお寺には個人的に関心がありました。
20年程前に井上靖の「天平の甍」を興味深く読んだことを思い出し鑑真和上の偉大さを再認識しました。
そして、終日雨の1日目は、橿原神宮に近い橿原ロイヤルホテルに泊まりました。
次の朝、ホテルのテレビをつけたら台風18号は東海地方に上陸したとの報道、恐らく奈良地方も
夕べから今朝にかけて激しい雨風が吹き荒れたのでしょうが、旅の疲れで熟睡して全然気がつきませんでした。
そんな中、添乗員さん達は朝早くから方々に連絡した結果、予定通り高野山に参拝することになりましたが、
途中の河川は濁流、道路は木の枝等が散乱しており特に紀ノ川上流の濁流は凄くガイドさんも
こんな大水を見るのは初めてだと驚いていました。
バスは予定通り高野山に着きましたが先ほど通った道は直後不通になり、帰りは迂回道路を通らなければ
ならないと言うことでした。
そんな中、永年の夢でした弘法大師開祖の真言蜜教高野山にお参りすることができました。
雨も午後はあがり、杉の枝葉が散乱する参道を奥の院まで参拝することができ、3時過ぎにバスは
一路京都に向けて出発しました。
京都では、ライトアップされた二条城の真向かい京都国際ホテルに泊まりました。
天気もほぼ回復し旅も3日目を迎え、他のバスは二条城を見学しましたが、私たちは相国寺に向かいました。
臨済宗大本山相国寺で通常の観光コースに入ってなく最初はバスの乗り入れも断られましたが、
正定寺の奥様等の御尽力で特別に拝観が許可され、京都を何百回も案内したという
大ベテランの自称上沼恵美子ガイドさんも初めて拝観できたと感激していました。
さて、バスは相国寺を後にし妙心寺へ到着、昼食をはさみ広大な山内の龍泉庵、微妙殿等を拝観、
散策しました。
そして、午後2時緊張と期待が交差するなか法堂での650年遠諱に参加致しましたが
大変厳粛な雰囲気に包まれ、身の引き締まる貴重な有難い時間を過ごすことができました。
最初は世界遺産を3箇所も見物できるぞと観光気分で参加しましたが、
今後は遠諱法要の感動を忘れずにこの経験を少しでも生かせる様に努力したいと思いました。
夫婦で参加させて頂き4日間大変お世話になり本当に有難うございました。感謝合掌
戸高直人さん
《第二十四世南陽拓朗和尚晋山式にあたり》
この度、第二十四世南陽拓朗和尚晋山式おける会計を拝命賜りました内水地区の戸髙直人と申します。
私は、恥ずかしながら昭和57年に挙行された第二十三世新命和尚(現ご住職様)晋山式のことを
全く記憶しておりませんし、どのような内容の行事なのかですらわからない状況でした。
ゆえに、「今回の晋山式会計を」というお話をいただいた時には、正直お断りさせていただこうと
考えておりました。
1523年に創建された長い歴史と由緒のある正定寺という寺院に第二十四世南陽拓朗和尚様のお迎えする
30年に1度の大切な一大行事における会計という大役に、若輩者であり、造詣も深くない私には、
荷が重すぎるのではないか。
また、この由緒ある正定寺とそれを献身的にお支えになられているすべての檀信徒の皆様に対して、
失礼に当たりはしないか、とも感じておりました。
しかし、正定寺の30年に1度の大切な儀式に、檀信徒の一人として深く携わらせていただけることの
ありがたさと、私のような者にこのお話をしていただいたご住職様、総代の皆様に対する感謝の意を表すことの
大切さを強く感じ、この大役を、ありがたくお受けすることにいたしました。
この大役をお受けするにあたり、私個人として、今回の晋山式に携わるすべての事、
そして無事に円成させる事、そしてそれを願う事は、私のご先祖様、父そして母に対する供養でもあると
考えております。
不謹慎な言い方なのかもしれませんが、お位牌や墓前の前で手を合わせ、線香をお供えすることと
同じことでもあると感じております。
先にも述べましたとおり、若輩者で造詣も深くない私ではありますが、
平成24年11月に挙行される第二十四世南陽拓朗和尚晋山式の円成のため、
精一杯務めてまいりますので、檀信徒の皆様のご援信とご教示を何卒賜りますようお願い申し上げます。
花園会女性部 戸高松栄さん
11月24日の晋山式、一生に一度あるか、ないかと、言われる大変な式典に、参加させていただき、
本当にありがたい事だと思っております。
何事もなく無事にスケジュールをすべて終わらせたことは、寿山和尚様の心こまやかな計画と大変な努力の
賜物だとおもいます。お疲れ様でした。ありがとうございました
雨も少しだけ降りましたが、これからの若き住職様の前途を示すかの様な照る日ばかりではない、わらじの
紐を引き締めて心出す道へと進んで頂きたいと思います。。
山門の石段をふみしめふみしめ上がって来る南陽和尚様一行をお迎えしつつ我が孫を、仏の道に送り出すような
心境になりました。
拓郎和尚さま、これからも「拓郎和尚追っかけババドル」たちをよろしくお願いします。
最後に寺総代様を始め、檀家役員のみなさま大変なご協力ありがとう御座いました。
古里の菩提寺を末長く、子孫に受け継いで行ける様これからもよろしくお願いいたします