坐禅感想文(さ行)
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。
佐竹正光さん
《千巌和尚の想い出》
暑中御見舞申し上げます。
正定禅寺と檀家との交流を深める為に発行された寺報紙も第七号をかぞえるようになりました。
広報役員さんの御労苦に心から感謝と敬意を表します。
寺報紙の六号迄を拝読しますと正定寺を中心に故郷に想いをはせる方、
戦時中に沖縄より正定寺に疎開した児童との沖縄での再会等歴史の歩みをかいま見る思いで
拝読させて戴きました。
正定寺の永い歴史の一コマに私なりの想い出があります。
それは新命和尚さんの祖父になる千巌和尚さんのことです。
立派な方で読経の声が大変よく、御盆や彼岸にお参りに来られる時は檀家は多いし
今のように車はなく徒歩ですから檀家の庭先より経文を唱えながら仏壇の前で
あまり経をあげなくてよい程のはやさで檀家まわりをされた快活な和尚さんでありました。
又、大変ウドンが大好きであったと聞かされています。
今では見かけない風物詩のなかで大きな鉢に水を入れてウドンを浮かせて喰る地方独特の料理があり
夏の法事や盆あけに祖先をまつる「施餓鬼」法要にはつきもので千巌和尚さんが特に
悦こぼれ一日に数ヶ所お参りしてもそのウドンを所望されたと聞かされています。
名物和尚と名物ウドン、時の流は川の流の如く変ってまいりますが、
先祖をまつる正定寺は昔も今も変ることなく健在です。
何卒幾久しく檀家の柱となって御指導くだされますよう御願い申し上げます。
櫻井加代さん
《歳月を通して》
今朝は久方振りの夏晴れの心地良いお目様を拝みました。
数十年程度筆無精をして居り、文章が読み幸いと思いますが、精一杯努めさせて頂きます。
六十有余年を振り返って見ると、皆様のお世話に成るだけで大した事も出来ずじまいだったと
反省して居ります。只、自分の事のみが一生懸命でした。
昭和二十年八月十五日、あの痛ましく悲しい終戟を迎えて、早くも四十六年が過ぎてしまいました。
「光陰矢の如し」、全くその通りだと思います。今想えば、色々な事が有ったと回顧してみました。
私が嫁に来た当時は、主人も義父も役場や農業会(今の農協)に勤めて居り、
私は十一年間程、農業をするだけでした。只々忙がしく働いた様な気がします。
昭和二十九年正月の頃でした。
次男が小児マヒになり、高熱におかされ左上肢がマヒしてしまいました。
私は、この事が有って以来、信心を取る様に成りました。
次男は南海病院に入院して治療を受け伝染病とされ、隔離されました。
其の時の淋しさは、今でも忘れる事が出来ません。
其の時の師走に、親戚の人の誘いで製材所をやって見ないかと言われ、買い受ける事に成りました。
それと言うのも、次男の病気を治すために始めたのでした。
其の頃から神仏に度を増して不なれな般若心経を上げておすがりしました。
お陰様で、次男もひがまず成長して呉れ、今では男の子が出来て、
他家からの戴きものは、必ずと言って良い程、仏様にお供えします。
子孫繁栄、そして一日一日を楽しく過ごせます様に、お経をあげて供養して行きたいと思います。
それも皆、御先祖様のお手引きと信じております。
佐脇卓さん
《じいちゃんの思いで》
じいちゃんが突然六月二日に亡くなった。八十二才でした。
じいちゃんはぼくにはとてもやさしかったです。
旅行に行く時にはお金をくれるので、ぼくはいつもお土産を買って帰りました。
じいちゃんは旅行とかどこにも行かず、家でみんなが帰ってくるのを待っていました。
帰ってくると「お帰り。」と大きな声で迎えてくれました。
ぼくがじいちゃんから最後に買ってもらったのはベッドです。
そのベッドをいつまでも大事に使っていきたいです。
じいちゃんはぼくに紙飛行機を作ってくれました。じいちゃんが作るとよく飛びました。
じいちゃんは死ぬ前の日にかぜをひいて熱があったのでばあちゃんと一緒に看病をした。
じいちゃんに「病院に行こう。」と言ったら「いかん、大丈夫。」とじいちゃんは言った。
「明日になったら病院に行く。」と言ったので安心した。
じいちゃんはその夜は一人でトイレに行った。
そのじいちゃんが朝様子がおかしかったので、すぐ救急車を呼んだ。
ぼくとばあちゃんが救急車の中に乗って病院に行ったが、じいちゃんは死んでしまった。
ぼくは「じいち・やーん。」と何度も呼んだ。涙が止まらなかった。
じいちゃんを乗せて家に帰ると、家がきれいになっていた。
地区の人達が家を清掃してくれたのだった。
家には地区の人が集まって来て、通夜や葬式の事などを決めていた。
通夜には、たくさんの人達が参ってくれて線香をあげてくれた。
葬式も終り地区の人達や親戚の人もいなくなると、急に家の中が寂しくなった。
じいちゃんが死んで寂しくなったけど、ぼくは毎日学校に行く時と帰った時には仏壇に手をあわせています。
お墓にも行って清掃をしたり水をかえたりします。
だからじいちゃんも寂しくないと思います。
たくさんの楽しい思い出をくれたじいちゃんに感謝しています。
いつまでもぼく達の事を見守ってもらいたいです。
最後にお世話になった区長さんをはじめ地区の人達や、お経をあげてもらった和尚さんにお礼を言いたいです。
「ありがとうございました。」
志賀正行さん
《京都に旅して》
京都五山の一つであり禅宗の大本山としての相国寺を訪れたのは、
去る五月十六日からの四日間でした。
新縁の京都は一段と美しく、相国寺の白砂の前庭、枯山水の北庭の眺めは実に見事である。
梶谷宗忍菅長は、佐伯中学時代の同期生であり、
今回の金閣寺完成の中心的役割りを果たし見事完成したので、お祝いをかねて、
記念同窓会を京都で開催することを企画し、私もその一員として参加する機会を得ました。
佐伯在住の同期生十名がこれに参加し、にぎやかな同窓会となりました。
一行が到着した午前九時頃、管長自らの歓迎をうけ、改築したばかりの客室の大広間に通され、
一時間程懇談し、菅長の日常生活についてお伺いすることが出来ました。
漢学者としては有名であり、読書に坐禅、雲水(修行僧)の教育に、
又書家としても毎日が多忙であり、管長の風格に接することが出来ました。
菅長のご厚意によるレンタカー1台に乗車し、雲水の先導により、待望の金閣に案内され、
お話しによれば金閣、銀閣の両寺の菅長を兼務しているとのことでした。
今回の金閣寺大改修は世紀の大事業であり、昭和の大遺産として伝わるものと思われます。
従来の金箔の五倍の厚みを有する五倍箔であり、その工程は実に難事業であったことをお伺いし、
関係者に対して感謝の意を表したい。
菅長のお話しによれぱ、タ日に映える金閣寺が最高とのことでしたが、
時間の都合で銀閣寺へと案内され、廻遊式庭園を心ゆくまで鑑賞し、
一日の日程を終り、宿舎である平安会館に落ち着き、楽しみの懇親会に移った。
五○年前の学生時代の思い出など、旧交を暖めて、楽しいにぎやかな一夜を過ごした。
翌日は早朝より車三台に分乗し、京都観光に出かけ、新緑の京都、思い出の同窓会を終り帰途についた。
情報化時代の中で、静かに自分を見つめるためにも心のふるさと京の寺院参りをおすすめいたします。
志賀トシエさん
《お施餓鬼の開催》
去る秋のお中日に花園婦人部主催のお施餓鬼の法要を営みました所、何分初めてのことで
不安もありましたが各リーダーの方々、又檀徒の皆様の御協力により大変盛大におごそかに法要が
出来、有難うございました。
私どもおぼろげながら施餓鬼の記憶はありましたが和尚様のお話し由来をお聞きして意義深いものを悟り
先祖の方々が残された行事を又私共が継承させていただき感謝しうれしく思っています。
静かな御本尊の前で大勢の和尚様方の読経のうち御先祖の法名を読み上げていただき久し振りに
心の安らぐすがすがしい気分になり何だか御先祖様が身近かに感じられました。
時間の都合により皆様との会食は出来ませんでしたがこれも今後の課題として考えてゆきたいものと
思っています。
何分にも歩みはじめたばかりの婦人部ですので皆様方の御意見御批判をいただきながら少しでも
よりよい婦人部にと思っています。御協力の程お願いいたします。
内外ともにきびしい世相の中、日々精進しすこしでも大安心の境地に近づきたいものと念じている毎日です。
今後ともによろしく御指導下さいますように。
志賀トシヱさん(女性部副部長)
《婦人部研修旅行》
梅雨晴れの六月二十二日、二十三日に花園婦人部の親睦をかねた研修旅行があり、
二十一名の参加者で出発しました。
心配していた前日の雨もあがり好天に恵まれ、先日開通した九州自動車道のすぼらしい景色を眺めながら
高塚地蔵様に参拝しました。何時お参りしても多くの参拝の方々には、びっくりします。
何時の時代にも人々の神仏への信仰は変わらないものです。
そしてこんなせちがらい時代だからこそ一時の安らぎを求めるのかも知れません
一願成就の地蔵様との事ですが、人々はどんなお願いをしているのでしょうか?
バスは進み、次に日田の皿山へ小鹿田焼の見学に行きました。
人里離れた民陶の里は静かで日頃のわずらわしさを忘れさせてくれます。
あちこちにあるのぼり窯も珍しく、サコンタで土を砕く水の音は、本当にのどかです。
土のぬくもりのする小鹿田焼は有田・九谷焼の様な派手さは無いが、
独特のとびかんなの技法でその素朴なしっとりとした技法が広く称賛されています。
そして車は一路別府へと。農繁期の疲れを温泉で流し、なごやかな楽しい宴となりました。
翌日はホテルを9時に出発し、朝市や竹の博物館を見学しましたが、時間の都合でゆっくり出来ず残念でした。
それから清掃センターで発生する三〇万キロカロリーの余熱を暖房に利用した大分市の花の楽園
『佐野植物公園東部清掃センター』へ、埋立跡地の広大な芝生、色とりぐの珍しい花に囲まれ一時メルヘンの世界に
居る様な感じがしましたが、今騒がれている環境破壊・ごみ処理等私共日常生活に於て今一度反省する事も
あるのではと痛感しました。
車は、リアス式の海岸線を通り一路佐賀関へ、日頃見馴れた直川とは違い磯の香の漂うそして港につながれた
もやい舟を見ながらの食事は又新鮮で格別でした。
佐賀関は、私には思い出の町ですが、一寸の間に町も様変わりして時代の移ろいを感じました。
最後は臼杵の野上記念館を見学しました。城下町の恵まれた環境に育ち素質のある先生もやはり
人一倍の努力なしではあの野上文学は無かったと思われます。
九十九歳で亡くなられるまで、書き続けられた由、その偉大な精神力には感服させられます。
記念館を拝見し、私も今一度じっくりと先生の御本をよんでみたい気になりました。
二日間の旅でしたが、いろくと社会勉強が出来
又何時も家に閉じこもりがちの私には多くの方々との出会いが出来有意義な時を過ごさせて戴きました。
又この様な機会が有りましたら多数の皆様の御参加をお願いいたします。
お陰で何事も無く全員無事にそれぞれの思い出をおみやげに家路につきました。
柴田由美子さん
《三年目の夏を迎えて》
「今年もまた、暑い夏がやって来ようとしています。
お父さん、お元気ですか……なんて言い方も変かも知れませんね。
お父さんが他界して三度目の夏を私達は迎えようとしています。
三年前は高校二年生だった私も、大学受験を無事終えて、今では大学二年生、そして、ハタチになりました。
大学、部活、家庭教師……。毎日が目まぐるしく過ぎています。
昨年は、ばたばたと過ぎてしまったけれど、今年は物事をじっくり考えられるようになった気がします。
直川にいるときよりも時の流れが早いように感じるのは、きっと毎日が輝いているからなんだろうと思います。
どこからか、見ていてくれていますか?
今年の春、車の免許を取るために教習所に通い始めたときに、車好きだったお父さんのことを思い出して、
お父さんが買ってくれた指輪をお守り代わりにずっとはめて教習を受けていました。
免許を取ってから、珍しく私の夢に出て来てくれましたよね。
助主席に乗ってくれてありがとう。すごく嬉しかったです。
安全運転だったでしょう?車好きだったお父さんの血をしっかり受け継いだようで、
車にはかなり詳しくなりました。お父さんと車の話、したかったです……いっぱい。
部活で弓を引いているときでもふと、そう言えばお父さん、弓を引いている私を見るのも好きだったなあと
思ったりもします。
きっと、五月に大分であった試合は見に来てくれたんでしょうね。
ちゃんといい所を見せられたかなあ!? 何だか最近、ささいなことでお父さんのことをよく思い
出すようになったような気がします。不思議ですね、前はそうでもなかったのに。今さらのように、突然、
誰かとものすごくお父さんのことを話したくなったりするのは、お盆がまた近づいているからかもしれません。
きっといつも、どこかから見ていてくれているんだろうと思ってますけど、お父さんと話したいことも
知らせたいこともたくさんあります。
夏休みになって、時間ができれば、私も直川に帰ります。
ゆっくりドライブでもしながら、いろんな話をしましょう。
今度は私がどこへでも連れて行きますから。
三度目の夏を迎えて、私は今、お父さんのことをすごく誇りに思っています。
お盆に、直川でおかあさんと、私と、花と、吉宗と4人?でお父さんの「帰り」を待っています。
私の自慢のお父さんへ 娘より
簀戸重郎さん
《菩提寺のため》
新緑の候と相成ってまいりました。檀信徒の皆様方には益々ご健勝の事と拝察いたします。
此の度役員改選により岸の上地区から世話人として務めさせて頂く事になりました。
当地区では世話人は年長順が恒例で50・60では世話人になれないのが普通です。
只、いたずらに歳を重ね全ての点で至らぬ者で御座いますが、何分にも宜しくお願い申し上げます。
又、護持会役員として推薦を頂き責任の重大さを痛感致して居ります。
今後は伝統ある我々菩提寺の為、一層の御協力を致す覚悟で御座います。
簀戸敏子さん
《甘酒のお話》
霜月、師走と今年も残り少なくなり、何となく心せわしい時期になりました。
いつも寺報を楽しみに読ませていただいております。
このたび原稿の依頼を受け自信が無いのですけれどペンをとりました。
昨年読んだ般若心経入門の中に、とても良いお話しがありましたので、その中の一つをのせさせて
いただきます。
鎌倉の建長寺の禅の高僧の逸話で、・・・
「わしが山寺で十才の小僧の時、ある農家へ一人でお経を読みに行った。
ふと赤ん坊の泣き声がするのでよく見ると、板の間を這いながらおしっこをしている。
その後にはご飯のしゃもじが落ちて、おしっこがかかている。
何も知らぬ母親がそれで釜からおひっにご飯をうつすんだよ。
食事が出たがはしをつけずに帰った。それかち又七日してその家に行き、お経がすむと
熱い甘酒を出してくれた。
寒い日だったし甘くておいしいのので、何ぼいものんだものだ。
おばさんも喜んで、「お小僧さんありがとう。此の前は何も食べてくれなかったので、
ご飯が残り困って甘酒に仕込んだら、こんにな沢山のんでくれてわし嬉しいよ。
ありがとう」だって・・
あのご飯が甘酒になっていたとは知らなんだが、もう取り返しはつかん。
頂戴しなければならぬものは、どうしても頂戴しなければならないように出来ている。
煮え湯を飲まされたとか、裏切られたとかオーバーに考えやすい時、甘酒を思い出しては心が和むのです。
とても気持のよいお話しでした。終戦後まもない昭和二十二年の春、私は十九才で直川に嫁いで来ました。
海や水平線から出る朝日を見ていた私は、どっちを見ても山ばかりで、目の先がつかえたような感じでしたが、
緑の山の自然にかこまれた直川が今は最高の住みかです。
その頃は整理ダンスはおろか、まともな鏡台も白たび一足も手にはいらぬ頃でした。
今の物のゆたかさが夢のようで、もったいない気がいたします。
朝、観音様、御先祖様にお茶湯をあげ、御挨拶、お祈りをしていると孫達も一人一人
お線香を立てお参り度します。
皆が揃って食事の出来ることは本当にありがたいことだと思います。
簀戸長生さん
《亡き父に救われる》
今から九年前のこと、急に腹の不調を覚え医師に観てもらったら、運動不足によるものと診断された。
しかし、自覚症状が一寸違うので他の医者に診察してもらった結果ガンと診断された。
早速手術をうけ、自愛に精励して今は元気に暮らしている。
手術を受けたその晩の夢の中のこと。おやじの後についてお墓の方に歩いて行った。お墓についてのこと。
突如としておやじがふり向いた。その顔は仁王様か鬼の様相だった。
仁王様のように両手を大きく広げ立ちはだかったおやじが、大きな声で一言「来るな」と言い残して消え去った。
きっと生死をさまよっている自分にお前は未だ来るのは早いと言って追い帰してくれたのであろう。
一命を取り止め、こうして元気に暮らすことが出来るのも、今思うにあの時のおやじの一言のお陰と思い、
先祖がこうして守ってくれているのだと信じて、いつも仏様に手を合わせている。
今は、直川から遠くはなれ、埼玉に住んでいて思うに負かせられないが、
ありがたいことに正定寺の住職さんが、岸の上のお墓にわざわざ出向いていただき、お経を上げて下さる。
こんなにありがたいことはない。とても気持ちが救われる。ほんとに感謝の念に耐えない。
昔は先祖供養の時は必ず豆腐を作って厚揚げにし、うどんを打って煮物などでもてなしたものだ。
朝早くに起きて石臼で豆をひくのによく手伝ったのを鮮明に覚えている。
当時は千巌和尚さんがお経を上げてくれたのが強く印象に残っている。
今思うと只々なつかしく二度と叶わぬ夢を連想しながら、つくづく先祖の大切さ、尊さを痛感している
この頃である。
でもなかなか直ぐにお墓参りが出来ない現実。
年に一度実現出来れば幸せだと思う。遠く離れて想う。
寿山住職のお経が自分にとってすぼらしく癒しになることを。
染矢國喜さん
《子孫へ受け継ぎたい先祖供養の行事》
毎年お盆や彼岸を迎えて、墓参りに帰る度に昔のことが思い出される。
今では、ほとんどの家が地区の共同墓地か家の近くに寄せ墓として造られているが、
今から二、三十年前までは、地区の墓地は大部分が山の中にあった。
盆が近づくと、山の中の荒れた墓地に行って大掃除が行われた。
私の家も大小二十数基の墓石があって、父母と共に出かけ、一つ一つの墓の苔をとり、
回りの薮を切り払って、たまった落葉を掃き集めて焼き、古い竹の花筒を取りかえたりした。
薮蚊に刺されて手や足はほろせだらけになる。
こうして墓地は、見違えるように美しくなり、心も晴れ晴れして家に帰って行った。
墓掃除が済むとお花(しきみ)を山奥まで取りに行き、墓の数に合せて花筒の竹を切り揃える。
こうしてどこの家もお盆を迎える準備は全て整う。
愈々盆を迎える。柚の原では十四日の夕方早く、家内揃って墓参りに行く。
日頃淋しい山の中も、たい松の煙と人声で急に賑やかになる。
翌十五日は少し遅くなってお参りする。この風習は今でも余り変っていない。
昔は盆踊りも小規模乍ら地区毎に行われ初盆を迎えた新仏の霊を慰めた。
このようにして、大人も子供も、先祖を祭る行事に参加し、代々承け継がれた。
戦後、社会状勢の変化と、豊かさのため、昔の風習は大きく変化した。
ことは当然のことで、止むを得ないことではあるが、何となく淋しい気がする。
特に都市近郊では、核家族が増え、仏壇の無い家庭が多くなった
現在子供達は、仏壇にお参りすることも知らない。
墓地が近代化し、祖先供養の行事が簡素化されることは仕方ないとしても
ご先祖を敬う心と、ご先祖を供養する行事だけは、若い世代へ受け継ぎたいものだ。
染矢文代さん
《かけがいのない“いのち“》
数億年に及ぶ地球の歴史、たえまなく繰り返されて来た生命の誕生と死。
望むと望まざるにかかわらず、そこへ参加した自分の命。休む事なく懸命に活動を繰り返す生命の神秘。
「子育ては大変やけ一人でいいなあ。」「一人は可愛相やけ二人はないと」。
-どこの家庭からも聞こえてきそうな計画出産-
現世〝命〝はさずかるんではなく作るんですね。
親の都合で生んだり葬ったり命を操って、そうして生まれた何億の代表の一つの命が
短命であるなど夢にも思わず…。
毎日毎日、新聞、テレビ等で伝聞する数々のニュース。
他処事と思って気にもとめず…あまりにも唐突すぎる別れでした。
悔は無数に私の身に押寄せてきます。
心身共に逞しく成長し、誇りに思い、未来に夢をもち、希望に胸膨らませて生活設計をたて、
ここまでくればもう大丈夫と安心しきっていた矢先!!
突然子供との生活を断ち切られてみると、十八年という年月の短かさに驚かされ、命の尊さを思いしり、
何とあの日々の楽しく輝いていたことかと茫然とさせられます。
身近の者の死はどんなに言い繕ってみても、あの世の安息を思ってみても、やはり辛い事です。
姿をみたい、せめて声だけでも、こんな思いを残された者から消せる筈もありません。
運、不運を思う生者と死者の別、神仏を呪い、悲しみに泣き-食事も喉を通らない-
-夜も寝むれない- -胸がはりさけそう-。
こんなに苦しくてはとても生きていけないと思っているのに…
無情にも食べる事もできる、寝る事もできる、髪も伸び、爪ものび、排泄もする……・
生きている人間の哀しさ、子供と共に暮らしていける幸福の深さに改めて教えられ、
感謝しても感謝しきれない日々が与えられていた事を実感し明日の朝を今日の続きとして
迎えられるかどうかも判らない今日。
〝死を絶対的条件として生きている〝この当り前の事実に、人間のカではどうする事
もできない大きなカがある事を思い知らされ、残された者が寄りそって励ましあいながら
一日一日を積み重ねています。
心身共に傷つき、絶望の最中、人の温かさ、人情の深さにふれ、仕事に助けられ、
皆様に助けていただいて、時間が慈しみから救って下さる事を信じて日々念仏しています。
誰彼とする事のない経験をして是非投稿をとのですがとても文章では表現する事ができず
残念な気待ちです。
この世に一つだけ願いが叶うとしたら、せめて〝生まれた順〝につれていって
とお願いしたいです。
現在の交通戦争、私共のような悲しい思いをする親御さんが他にでない事を御祈りして
数々の皆様の御厚情に感謝し心よりお礼を申しあげたいと思います。
一切の迷いはわが身のひいきゆえ、われがしでかす
身心のあるがままに日常生活に心をこめて生きるとき、
苦しみも、哀しみも、いつか忘れていくものです。(大きな樹の下でより)
染矢文代さん
《花園会婦人部研修旅行》
記録的な暑さが続いておりますが檀家の皆様お変わりございませんか。
今年の春、彼岸法要へお詣りした時、お寺様よりお誘いを受け花園婦人部の仲間入りをさせて
いただきました。
会長さん他五十七名、皆様母親の年代の諸先輩方ばかり、とても私のような若輩者には早すぎると
思いましたが、お寺様にもお世話になっておりますし、「知らない事は教えていただいて、
出来る事をお手伝いさせてもらおう」という気持ちで入会しました。
さっそく五月の献茶会、本堂へお茶をお供えして読経、おいしい抹茶を頂きました。
今まで私達が出していたお茶もこうしてお経をあげていたんだと初めて知りました。
また六月は研修旅行、篠栗四国八十八ヶ所へつれていっていただきました。
恥かしながら篠栗という地名を知らなかったのです。そこへお四国がある事も…。
〝これは絶対行こう″出発を心待ちに、いよいよ二十七日天気にも恵まれ、家族に心よく送り出してもらって…
〝いざ出発″会長さんが足の具合が悪く参加できなかったのが残念ですが、
他二十五名、武田守さん引率の下、バスの中では方言丸出しのなごやかな旅でした。
行きに太宰府天満宮へお詣りして篠栗町へ。篠栗は山が深く、滝の多い、水のきれいな町でした。
霊場がなければ訪れる人もいないような静かな町、この町も三月~五月にはお遍路さんで賑わうそうです。
昼食の後札所へ。道が狭く、運転手さんのハンドルさばきに息を飲みながら次々と打って宿へ。
温泉で汗を流し夕食、カラオケ、舞踊と楽しい一時、二日目歩いて南蔵院へ。歩道橋を渡るとまるで
屋根の上に横たわっているようなお釈迦様のお姿、屋根の上と思っていた下は納骨堂でした。
時期外れとはいえ、あちこちにお遍路さん、いつの世も平和と安泰を求めて霊場を巡る人々。
これだけの人が訪れ、町を潤し活気づける霊場、またお寺はどこも立派で町の人が大事に守っているなと
感じました。
新しい物を良しとする現在、この古き良き伝統ある建物を次の世代に守り渡すのが今を生きる者の
責任ではと思いました。
また来たいと心を残して篠栗を後にし、帰りは三連水車、原鶴観音と行った事のない所ばかり。
三連水車は川の水を田んぼに流す上手い仕組み、昔の人の知恵に感心するばかり。
観音様は近づいてみると遥か大きく優しい日差しで何か大きな者の懐に居座かれているような
安心感があり涙がでました。別名一本木観音というそうです。
観音様にも別れをつげ一路直川へ。ウトウトしてる間に帰りつき、早変りして一仕事。
お世話頂いたお寺様、武田様、先輩の皆様、本当にありがとうございました。
心に残るいい旅でした。
来年は五十路〝ちょっと一休み″しながら残りの人生、健康で感謝の気持ちを忘れずに
日々の生活を営んでいきたいと切に思います。
最後になりましたが檀家の皆様の御発展と御健康を心よりお祈り申しあげます。
暑さ厳しき折、どうぞ御自愛下さいませ
合掌