坐禅感想文(か行)

 
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。

甲斐照光さん

  

《正定寺とのかかわり》

私は亡き母の喜ぷ顔見たさに正定寺にお参リすることを始めた。

昭和二十年頃の盆だと思うが、母に勧められた。まだ二十才の私にはいささか抵抗を感じたが、

その頃の母は父との死別に続いて不幸続きだったので、母の気持ちを察し参拝した。

その日は大変喜んでくれた。

以来四十数年盆と正月の寺参りは欠かしたことはない。

神や仏を尊ぶ事はいい事だと思うが、私の場合は母に云われるままに、そうして苦しい時の

神だのみのいわば卑怯な一つの行事に過ぎなかった。

しかし、お陰様で神仏の加護を頂き又、多くの皆さんの御指導も頂いて残り少ない余生を

送らせて頂く迄になり、感謝している。こうした時、広報委員より寺報原稿依頼を受けた。

何もかも終って一つの動物になったと思って居る時であり何もかも後継者に譲りたいと

考えて居た矢先の事で、お断りしたが、どうしてもという事でぺンを持った。

又、寺に関する限りかかわりを持たして頂こうと思いを新にしているところである。

秋も益々深まった。今年の秋は冷たく感じる。シルバーに近づいた証であろう。改めて神仏に祈りたい。

一、残された人生を生きぬく為により充実した毎日を送る事が出来る様に。

一、美しく老いる事が出来る様

一、老人らしい老人になる事が出来る様に。

正定寺と私のかかわリを作ってくれた母も逝って十一年、きっと喜んでくれると思う。

甲斐政信さん

 

《ふるさと》

今年の春、結婚以来住んできた津久見から臼杵へ引っ越してきました。

このあたりはまだ田も多く、子供の頃過ごした直川村を思い出します。

それにしても調理師という職業がら、休みが思うようにとれないとはいえ、墓まいりには

随分かってをしています。

平素は直川におられるおばさんにすっかり面倒をかけ、甘えさせてもらっている有り様、恥ずかしいかぎりです。

その上、お寺にも御無沙汰のしどうしで、いろいろな行事に顔を出すこともなく、世話人の方々には

申し訳なく思っています。

ただ昨年の秋、父の十七回忌の法要を内々で行った折に、母や妹達とお寺を訪れることができ、

長年の胸のつかえをおろした思いです。

久しぶりにお会いしたお寺の皆様の御元気な様子に安心しながら楽しい時を持つことができました。

私も今は位牌を守っていかねばならない立場にいるわけですが、供養の仕方など詳しいことは

何もわからない私にとって、お盆には必ず遠方までお経をあげに来ていただけることは

とてもありがたく、又お話をうかがえることを感謝しています。

直川にはなかなか行く機会を得ませんが、時折、家族そろって墓掃除に出かける時いつも思うのは、

幼い頃のすべての思い出を包みこんでふるさとはなつかしく、心やすらぐものだということです。

そして墓前で手を合わせながら、祖先や父、兄の眠るこのふるさとが、いつまでも静かで、

おだやかであってほしいと願うのです。

甲斐和夫さん

  

《望郷の絆》

尊敬する父を失くした。父(義孝)を尊敬する。

一見奇異に感ずるかも知れない。

思想性の低さか、家族的偏狭さか、はたまたピーターパン症候群かと。

私は子供の頃、父に抱かれたり、父と戯れたりした記憶がない。

社会正義というようなもののために、しかと前方を見すえているようなイメージばかりが脳裏によみがえる。

したがって、私の父親に対する愛情というのは一般に言う親子の愛とは異質の部分を

かなり含んでいるのである。

その父が生前、淋しそうに言ったものだ。「祖先を敬え、墓参りはちゃんとやれ」と。

先に述べたような事情である。「父ちゃん、偉いと思う、ちゃんと供養してあげるから」など、

照れくさくて言えるものではない。

一言も言えぬまま父は逝った。

もうひとつ。「佐伯に、直川に戻って来ないか」もちろん、そうしたい。仕事さえあれば。

私の直川に対する望郷の念は、とても他人にはわかるまい。小学四年までを過ごした。

勉学の重圧、思春期の悩み、生活の気苦労などを感ずる年令に遠かっただけに、

ユートピア化された故郷への思いが、血肉となって私の体内に宿している。

一日として呼吸しない日がないと同様、故郷を思わぬ日は一日としてない。

この思いも伝わらぬまま、父は逝った。

この故郷といかにも断ち切り難い正定寺。

子供の頃から、あこが憧れの名前であった。「ショー、ショー、ショージョージー」の歌のせいもあるのか、

その響きの良さは無類である。

その正定寺を初めて訪れたのが、父の供養のためとは何という皮肉か。

要塞を思わせる立地、広い境内、白壁の塀、風雪に耐えた鐘楼門、人々の苦しみや悲しみの

年輪を刻み込んだ本堂、これらにもまして立派な和尚さんたち。万感胸に迫まるものがあった。

廃家を壊し、もしや、土地が人手に渡ろうとも、この正定寺のある限り、

私と故郷をつなぐ絆はしっかりと守られるのだと。

感覚的に都会ズレした子供たちも、さすがにこのお寺が気に入ったらしい。

「夏、あのお寺に散歩に行こう」と言うと大喜びだった。

この度は登れなかった二百段の石段を登って行きたいと思う。途中でおにぎりを食べたら、さぞかしうまかろう。

甲斐茂喜さん

  

《地方紙にも紹介されて菩提寺》

三十年余り勤めた銀行を三年前に定年退職し、引続き銀行の健康保険組合にお世話になっています。

大分市に住み着いて二十七年が経ちました。

直川を離れて三十年余りになりますが、子供の頃は汽車で二時間以上かけて大分まで

出て来たものですが今は自動車で一時間余りで来られるので大分も随分近くなったものです。

お盆には和尚さんが忙しい中をわざわざ大分までお参りしてくださり、また親族、身内の葬儀では

正定寺には数回お世話になり、本当に有り難く思っています。

子供の頃の思い出を辿ってみると、葬儀の準備は地区の共同作業で行い葬儀も自宅で済ませる

風習があったので先代和尚さんのお経を近くで聞いて「カーッ」という大声に子供ながらに驚いたこと、

また義弘和尚さんは佐伯中学(旧制)に通っておられた当時駅までは自転車で通っておられた様子で、

農作業の手伝いをしているとよく声をかけられたことが今でも記憶に残っています。

話は変わりますが、恥ずかしい話ですが正定寺についての知識を持っていなかったところ、

昨年の十月十二日の大分合同新聞に正定寺が紹介され、その歴史等を知ることができましたので、

ご参考までにその一部を紹介したいと思います。

「宝林山正定寺。この地に移って四百年余り。文化九年約二百年前の農民一揆では、

境内に五・六百人が参集したという。

当時の庭は、今の二倍あり、左手の土塀のあるところが中心で、道路中央附近まで台地が広がっていたという。

庭に立つと周辺の地形が一望でき、深い奥山には水も豊富にあり、

この寺は城塞としての役目も果たしていたことも想像され村内の東西南北に庵を配置し、

弟子を置いていたともいう。

境内には電線が全くみえないが、地中に埋め込んでいるのである。

山寺としての雰囲気を大切にした住職の心が生きた寺だ。

また正定寺にはタヌキが出てきてムササども居るという。

家並みを過ぎた所に車道があるが昔ながらの参道を歩いてお参りすることを勧めたい]=合同新聞より

次の世代に移り、菩提寺についての知識や関心が薄らぐことのないよう我々は、

次世代へしっかりと受け継いで行く義務があるのではないがと思います。

河野チソさん

  

《日々新》

役員さんより、原稿の依頼をうけましたが、江河内に嫁いで五十数年、鍬や鎌を持っての生活で、

ペンを持つ事もない私が、何を書いてよいか分らず困りましたが、我家の日常でも書いて見ようと思い、

思いつくままペンを走らせました。

私の家は、六人家族です。朝は「おはよう」の挨拶から始まり、それぞれ、一人一人仏壇に、

線香の煙を漂わせ、お茶、お水、御仏飯を供えて、全員で朝食をすませそれぞれ仕事へ、

ゲ-トボールへと出かけます。

出かける時も、さらに手を合わせ、今日一日の無事を祈ります。なんだか心が落着きます。

私の家は昔からの習慣で頂き物や、珍らしい物等、まず仏壇へお供えします。

五年前までは、姑(四年前九十三才で他界)が毎晩、般若心経を上げていましたが、

姑が他界してからは私が後を継いで、お風呂から上り、灯りをつけ、線香を焚いて、

弘法大師和讃、般若心経を唱えます。

子供夫婦、孫まで一日終って帰ったら、朝のように線香を上げて今日の無事を感謝し、

仏壇の前で手を合せます。

今年も一月の大般若会にお詣りし、直川の方はもちろん、佐伯、尾浦の方と懐かしくお話が出来ました。

元気がよけれぼ、毎年一月の大般若会にお詣りし、皆様にお会しいいたしたいと思います。

河野トミさん

  

《ふるさと》

役員さんより一筆と電話頂きましたが、年は取ってるし人様に読んでいただく様な文も書けそうになく、

一度は辞退致しましたが、お世話下さる方々の御苦労を考えると申し分けない気がし、

つまらない文面ですが、お礼のつもりでペンを取りました。

なつかしい直川を後に長男のところへ来たのが昭和五十一年三月でした。

十年一昔といいますがあっと云う間に去ってしまいました。

直見に居る様になく、知らない人とのつき合いになれる迄は中々でした。

主人は苦労して建てた家をすてるのは大分抵抗あった様で、中々腰を上げ様としてくれません。

やっとの事で決心してくれました。

「老いては子にしたがえ」今の世の中は親と同居する人は少ない。

来いと言ってくれるだけ有難い事ですから、感謝しなくては。

決して気に入らない事は云うまいねーと孫を相手に留守番、中々でした。

二人でがんばりました。若い二人もよくがんばってくれました。

頑固でむつかしかった主人もだんだんとあきらめ「よいじいちゃんになったね~」と思う間もなく

事故に合い、あれだけ頑丈な体も病には勝てず、あっと云う間に天国の人となってしまいました。

それから正定寺様のお世話になる様になり遠い所よくお参りしていただき本当に感謝して居ります。

私も前以上神仏に手を合せる様になりました。

主人がなくなって七年病気一つしないで七回忌迄すませましたが急に体のつかれが出て、

今では時々医者の世話になって居ります。

私の人生大分山坂ありました。

今は孫も大学に行く様になり毎日もったいない程幸に暮らす事が出来感謝しながら朝夕のおつとめを

怠らない様にしています。

直見に居る時は皆様方に助けられ親戚の方々の御厄介になりました。

考えると次々脳裏を走り目頭が熱くなります。

元気さえ良かったらお盆、正月には必ず正定寺へお参りさせて頂こうと考えて居ります。

加木制子さん

 

《私の感謝の言葉》

みなさんこんにちは。突然に原稿用紙に書くこと等、何十年ぶりで、頭の中に書きたいことはいっぱいです。

先日、赤木の武田様よりご依頼があり、びっくりして引き受けるのに迷いましたが、

一言素直に直川村の方々にお礼を申し述べたいと思いまして、一筆とらせて頂きます。

昔を思いなつかしさが胸の中で踊っています。

随分と父母「森下才助・マツ」がお世話様になり子供の頃より父の姿を見て、商売はしないと心に

決めていたのに今、父の真似をして皆様に一方ならぬお世話になっています。

早いもので十年目に入ります。

これも皆様方のあたたかい御支援のお陰で、月日の経つのも忘れる位でした。

今、振り返って見て、市内の某呉服店に勤めさせて頂いて、いくらかの知識を得、自分で

自営するようになり、よくも思い切った事と、今は思っております。

やはり若かったからかなあー。それとも父母の血を受継いでいるのかなあーとしみじみ考えることがあります。

最初は随分と同級生の方からのはげみのお声を頂き、特に泥谷ヨシエさんを始め多くの方々の

お世話になりました。

直川村地区、大きく五地区の公民館での展示会では、婦人会の方々には本当にお世話になりました。

有難うございました。

直川から出て市内に居住の方が長くなりました。早いもので私も50才を過ぎました。

「光陰矢の如し」とはこの事ですね。

自分の出身地の信用を得られなかったら、きっと商売は成功しないだろうと自分に言い聞かせながら

歩いて参りました。

でも、商売も外から見るように楽ではありません。

よく壁にもつき当ります。でもその時、お客様の顔が目の前に浮びます。

昔の苦しかった両親の生活や、貧乏だったことを思い出したら、今は幸せだと言い聞かせ自分を厳しく

立たせます。お陰様で昨年より長男もこの道に入り、今私と一緒に廻っています。

呉服の仕事も年数が経つ程、むつかしく、昔のように着物の利用数が少なくなり、心淋しい気持ちが致します。

その反面、やはり一枚はと思われます。

どうぞ若いお嬢様方、ご両親が選んでいただいた着物……喜んで着て下さい。

きっと良い思い出となることでしょう。50才を過ぎて未熟なんてとは、書けませんが、日々毎日が勉強です。

京都の方には年何回か仕入れに登り、自分の目で品をはっきり選んで参ります。

上方の流行もやはり必要と思います。

それがやはりセンスの問題と思われますのでとにかく一生懸命、自分の選んだ仕事に夢と希望を持って

歩いております。

今後共幾久しく長男共々宜敷くご支援の程お願い致します。

最後になりましたが本当に直川の皆様有難うございます。

佐伯に出られましたら是非お立寄り下さいませ。

至らぬ点がございましたらどうぞ、おしかりのお言葉を下さいませ。

では最後に皆様方のご健康とご発展をお祈り申し上げましてペンをおきます。合掌

片岡恒子さん

 

《宜しくお願い致します》

宝林精舎を度々お送付頂き誠にありがとうございます。

この度、武田様より原稿を依頼されましたが、

書いたこともない私です。迷いましたが、正定寺檀家の皆様方に、お願いを申し上げたく、

一筆取らせて頂きました。

あれからもう六年の歳月がたちます。師走の寒い日呼吸不全のため、突然、夫が亡くなりました。

子供の高校進学も決りこれから父親を必要とする、一番大事な時の出来ごとに、私も子供も途方に

くれました。

萱垣団地に住んで居ましたが、葬儀は大分市吉野の夫の実家で行う事になり、その日、初めて

正定寺の和尚様と対面致しました。

遠く大分までご足労を頂きましてありがとうございました。

縁もなかった私でしたが、この日から、正定寺、そして檀家の皆様方に、お世話になる事になりました。

今、仕事の都合で、蒲江町に住んで居ます。

何かと人並の事も出来ず、大変ご迷惑を おかけして申し訳なく思っています。

「未熟な者でございますが宜しくお願い申し上げます。」

主、亡き後は何も彼も自分の肩に背負い、生る自信を失ない、

谷底に落ち込んで行ってしまうような思いも何度か有りましたが、とにかく子供を卒業させ、

成人するまではと、ひたすら心身共に頑張って来ました。

お陰様で長男も、今年二十才になり、直川村で成人式を祝って頂き、ほんとうに喜んでいます。

有難うございます。

東芝大分工場に就職して、会社の寮生活ですので、私とは別々な暮しをしています。

若者は都会へと仕事に出て行き、小家族でご先祖様をお守りして行く人も居るのではないでしょうか。

私も一人でお仏壇を守り今日の幸せに感謝し、親もと離れて働く長男の無事を祈りながら、

毎夜般若心経を唱えています。

私事を書きならべ恐縮でございますが檀家の方々と親善を深めて努力して行けたら幸せに思います。

今後共宜しくご支援の程お願い致します。

合掌

甲斐尚道さん

 

《振り返り四十余年我が古郷》

今年は度々我が故郷直川へ帰る事が有って、村の人々と親しくお会い出来、話を交す機会を得て

感謝の想いであります。

直川も今は立派な農道が山すそを奥迄通り、村営の温泉場が出来るなど村の変りようは

目をみはるばかりですが「向う三軒両隣」の人々の温い思いやりと優しさに何時も胸の熱くなる思いを感じます。

今度、隣の竹田守兄より正定寺護持会広報部発行の宝林精舎に原稿をと依頼されまして、

四拾余年前を返り見て投稿させて戴く事になりました。

正定寺と言えば私の記憶にありますのは千厳和尚さんではなかろうか-私の少年時代には、

時季時季の法要には千巌和尚さんの廻向を戴き、朗々たる読経をうしろで聞きながら子供心にも

和尚さんの威厳を感じたものでありました。

学校帰りなど、檀家廻りの往き来でしょうか、道でよくお会いしたが、姿勢の立派な方であり網代笠に

すみぞめ法衣姿は堂々たるものであったと今でも思っています。

私の小学校への入学は昭和十二年で、当時は川原木小学校でありました。

国道からやや下り坂の校門迄は桜の木が両側に植っており、四月の入学期には満開の桜の下を通る時、

華やかな気分を味わったものでした。

今は廃校となっているそうで、時世とは言いながら残念におもいます。

ほどなく七月には日支事変が起こり、戦火の渦中に入ってゆくのでありますが、それでも片時の平和も有って、

年一回の運動会などは、村を挙げての盛況で終盤の大字対抗のリレーなどは、

少年部から老年部迄のそれぞれの組の応援で盛り上がりは大変なものでありました。

当時は今と同じように遠足が有ったが、汽車に乗ってゆくなど余り記憶が無い様な気がする。

低学年時は学校から国道を歩いて仁田原の正定寺の裏山へ登った事がある。同級生達と

わいわい騒ぎながら正定寺の石段を上り、庭で本堂を礼拝して、裏山へ登るのであるが、

山は一寸した原となっており眺望もあり、遊びほうけたあとは日の丸弁当で一日を楽しんだものだった。

時経て今、当時を振り返る時、同級生の人々にも会ってみたいし、又あの山にも登って見たいとも思う。

今年は故あって四拾余年ぶりに正定寺をお訪ねしたが、和尚さんも代替りされておられる様でしたが

特に懐しかったのは、私より四つ程か年上の豊嶽和尚さんと式後、親しくお話を交しました事が何よりの

嬉しかった事です。何時迄も御健在で居られます様にー。

僅な待時間の時、堂内を拝観して正定寺の経歴の如何に古いかを改めて認識し、

誇り得可き古刹であると感じた次第であります。

戦後なぜか古きものを軽んずる風潮にあり、観光地化へと変貌し易き御時世ですが、

古刹正定寺の尊厳を何時迄も保ちつづけて戴きたいと遠地より願っております。

残りある人生の裡、幾度か想い起こすであろう私の故郷直川村の進歩と繁栄を祈って止みません。

川野シズ子さん

 

《心と健康》

二月一日お昼の食事をしていたら、『ごめんなさい、ばあちゃん』と云う声に玄関に出たところ、

武田さんが見えていました。何だろうと思ったら寺報を書いてほしいと云う言葉に、私はびっくりして、

『いや私はそんな事は』と言いながら何か夢中でお受けしました。

さて私は何をと考え、やっぱり一番大切な事は、「心と健康」ではないかと思いました。

私は心の安らぎのため、御先祖様へ朝晩礼拝する事も欠かさず素直な心で拝むと目の前に御先祖様が

見守って居ると云う気持ちになり、何時も信じています。

私は朝起きたら朝の挨拶から始まり嫁との会話、そして毎日感謝の気持ちを忘れない様にと、努めています。

何かと珍らしい物があれば御仏壇に供えてくれる嫁。私が亡くなってもと安心しています。

誰でも生れて来た以上一度は死と云う道が待っています。私も、もう八〇才と云う坂を越すかこさないかの

境い目になりました。

これからは人に優しく思いやりのある良いばあちゃんになりたいと誓っています。

お陰様で月一回のお大師様には地区の若い方々とお経を唱え、一夜を楽しく、そしてことぶき大学、

ゲートボールとお友達が沢山いて皆さん廻りの人が良い人ばかりで楽しい日々を送る事が出来、

これも一重に御先祖様のお陰だと感謝しています。

お正月の大般若心経・お彼岸・お盆参り等楽しみにしています。

心の持ち方次第で楽しくもなり苦しくもなるものだといつも信じています。

そして家族のみんなが健康であればこそと思って居ります。

川野豊子さん

  

《お父さんを偲んで》

今年の八月一日が命日ですが、緑かおる五月二十三日に和尚様、それに身近な方々を呼び、

お父さんの五十回忌の法要を済ませました。

親の五十年を迎える者は、こんな不幸はないと言います。

遠い異国の果て、ブウゲンビル島で、何にも食べる物もなく、昭和十九年の夏、戦病死、当時三十二才でした。

いとしい妻、幼い我が子のこと、どんなに思った事でしょう。

遺品の一つもなく父親の顔も覚えていない主人は、五才。弥生町と大分に居る妹弟は三才と一才、

お母さんは二十五才という若さでした。人には言えない淋しさがあったと思います。

三人の子供を残してくれたことが心の支えだったと言います。

あれから五十年、今はその悲しみもうすれ、毎日健康で送れる日々に感謝しているとのこと。

これからも体に気をつけて長生きをしてほしいと思います。

お母さんはとても信心をする人で、朝晩と仏様にお参りしますが、私達二人は仕事も忙がしい事もあって、

お花やお墓のおそうじをするだけで、あまりお参りしませんが、

御先祖様には感謝をしています。

私もこの家に嫁いで三十年を過ぎました。田畑が広く二人で苦労もしたけど、農業は大好きです。

汗を流し雨にぬれ作物の出来るのを見る喜び、本当に何にものにもかえがたいように思います。

それが、私が嫁いで来た家を守る努めなのです。世界中には不幸な国が現実にたくさんあります。

農業を尊び自然を尊敬し、又、父親を誇りに思い、両親に健康な体をありがとうと感謝します。

これからも強く正しく、やさしい心生甲斐のある人生を送りたいと願って居ます。

甲斐千代子さん

 

《一日花「沙羅双樹」に心を寄せて》

梅雨の中休みもつかの間、毎日うっとうしいこの頃です。

この度は、檀家でもない私に突然、広報の依頼がありました故、再三ご辞退申しました。

しかし考えてみますと、私の生家が正定寺様の檀家であることから、ペンを取らせていただくことにしました。

昨年六月、熊本の弟嫁から「亡夫(進)の新亡供養が、京都の本山妙心寺でとりおこなわれるので

同伴してもらえないかとの相談があり、大分の妹と三人で供養にいって参りました。

”新亡供養”とは、前年一年間になくなった方々の法要をするという意味があります。

当日は雨の激しく降りしきる中、全国から私を合め多くの方がお参りに訪れました。

早速、受付で亡き弟の水塔婆を書きました。本山は屋根の萱替えがあり、他の法堂でご供養が

行われました。大勢の和尚様の読経の流れる中、水塔婆が読み上げられていきました。

「安かれと拝む心のかよいくる、みたまを照らせ法のともしび」(追善御和讃)をつい口ずさむことでした。

ご供養の後、「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色・・・」平家物語に歌われている

娑羅双樹のある東林寺へ参りました。ここは閑静な禅寺で白いつばきの花に似た沙羅の花が満開でした。

娑羅双樹はお釈迦様が入定されたときいっせいに花開き、その死を悲しんだといわれ、

仏教とはゆかりの深い名木だそうです。

朝に咲き、タには散りゆく〝一日花〟の姿が人の世の常ならぬことをよく象徴しています。

与えられた一日だけの生命を精一杯咲きつくしている白い花を眺めるとき、

お釈迦様の「今なすべきことは明日に伸ばさず、確かにしていくことがよき一日を生きる道である」という

教えが身にしみました。

私たちには、確実な〝死″という厳しい事実がやってきます。ひらひらと散りゆく沙羅の花に、

今は今しかない、二度とめぐり来ない今日一日を大切に悔いなき人生を送らねば・・・。ということを

教えられたひとときでした。

わずか二日の旅でしたが、

会社の長として精一杯仕事をしながら去っていった弟の霊を慰め供養することができたいへん

嬉しく思っています。

〝新亡供養″参加に声をかけていただいた正定寺様、弟嫁の御心に感謝しながらペンを置きます。

河野邦彦さん

 

《ふるさと 私の直川》

職場の事務所に全国のJR鉄道図があり、私はその中にある直川に印をつけて、親しい友に紹介している。

私の住んでいる静岡県掛川市は、お茶とバラ作りで有名だが、九州を旅していない人が多く、

大分県南海部郡直川村と言ってもほとんど知らない。

現在海外旅行は珍らしくないが、九州を知らない人、静岡を知らない九州の人も少なくないのでは

なかろうか。

静岡は秀峰富士山があり、伊豆、熱海、浜名湖と観光名所も少なくないが、私にとって直川は、

かけがえのないふるさとである。

私はふるさとを後にして三十一年になる。今でも忘れられない事は、右も左も分からない大阪の会社の寮に

入って最初の手紙を母から戴き、友と出掛けた中之島の図書館で読んだ事である。

母の手紙には「こちらの事は心配せず、体に気をつけて頑張れ」と書いてあった。

今、その大阪で息子が学んでいる。息子が、大阪からばあちゃんに書いた手紙で、母の体を心配し自分が今、

力一杯頑張っている事を伝えている。本当に嬉しい。おやじが若かった頃、働き青春の汗を流した街で、

息子が自分の未来の為に学び、生活しながら亡くなったじいちやん、年を重ねたばあちゃんの事を

思っている。

今回、父の十三回忌でJRの車窓から、ふる里を眼にした。

列車から見る山河は本当に久し振りで、走り去る景色は昔と同じであるが、

自分が年を重ねた分、木々は成長し村は静かであった。

私達は遠くに居てなつかしく思うだけであるが、生活している人の事を思うと、御苦労も多い事であろう。

直川の公報をボランティア、役場のお陰で送ってもらっているが、村起し発展の活動は心強く思う。

掛川も新幹線、東名のインター、掛川城と街の活性化に取り組んでいるが、自然の中で、

自然と共存し、自然と生きる直川であってほしい。

正定寺の御本堂が皆様のお力で立派になり、写真でしか見れなかったのが残念です。

和尚様の若々しい御経を久し振りに聞く事が出来ましたので、次の機会には必ずお参りして

感謝の気持ちを伝えたいと思っています。

河北一直さん(中津・自性寺)

 

《芸術について》

私は正定寺の和尚さんと京都の僧堂での修行時代の同参の者です。

これといった趣味や興味のある事はありませんが、寺に江戸時代の南画家池大雅の作品を展示して

おりますので、芸術について一言。

僧堂での修行は己自究明と申しまして、自分(私)とは何かを自分で究明することにあります。

大雅が偉大なのは白隠禅師の下で真実の自己を悟り、無我、無欲の境涯で生活し、作品を作ったことに

あります。

現在の芸術家たちは、芸術とは自己創作であるとか言って、ピカソの絵のたぐいでも賞讃しております。

ある人は「人間の苦悩、悲優の中から芸術が生まれてきて、それが人々の共感を呼ぶものであれば、

これを高い芸術であると思っているのである。

だが苦悩そのものには何の価値もない。

苦悩のにじみ出た芸術、それはカンバスの上に塗られた汚物と同じように、醜く価値のないものである。

彼は夢中で、画布に我執を描いたにすぎない]と喝破しております。

又、「現代の芸術がきわめて難解でますます複雑怪奇なものになっていく根本原因は、

自己が表現せられるのでなく、自己の虚想にすぎない化け物が描かれるからであるともいっております。

そもそも美術年鑑で誰は号何万円とか、何々展入選とかたわいのない事であります。

審査員自体どれほどの人でしよう。

虚偽のない純粋無雑の美と歓び、それが真の芸術であり、無心の芸術は無我ゆえに万人の共感を呼び、

永遠の生命をもつはずです。

皆様はせっかく禅宗、正定寺の檀信徒であらせられますので、ゆめゆめ知名度や、世間のでっち上げた

価値観にだまされることがございませぬよう、お祈り申し上げます。

※河北さんは芸術家ではありませんし、修行も出来ておりません。ただ昔から自称(性)芸術家でした。

河野新司さん

 

《あたり前の錯覚》

私が故郷直川を離れて以来二十年生活しているこの福岡は、昭和五三年の大渇水以来十五年ぶりに

給水制限を実施しています。

このまま給水制限を続行しても来年の梅雨時期までは解消されそうにない状態です。

給水制限には色々な要因があるのでしょうが、水栓をひねると出てくるという普段あたり前と思っている

水の有り難さは断水になってはじめて分かります。

水だけではありません。私達が日常生活する上であたり前と思っている事は外にも沢山ありますが、

そのあたり前なことに対して錯覚していないでしょうか。

一番身近な例に家庭生活があります。私も親から独立し今では自分が親としての家庭があり、家族がいます。

仕事と家庭については色々な議論がありますが、生活の根幹となる家庭の重要さは

今更言うまでもありません。

ところが男(私のことです)は家庭は自分だけのためにあるかのように勘違いして、妻子に対して

ぞんざいに振舞う事があります。

些細なことでも自分の虫の居所が悪かったりすると、結婚以来大した病気もせず、現状に合わせて

精一杯生活を支えてくれている妻に対し言葉汚く罵ったり、口をきかなかったりします。

子供達に対しても自分の価値観を押し付け勝ちです。自分の家族に対する甘えでしょう。

自分では当たり前と思っている事でも家族にすれば当たり前ではないのです。

妻子があっての家庭ですからせめて今後は自重しなければと反省しています。

とくに妻とは子供達が巣立ってもまだ長い時間一緒に生活するわけですから、今後は心を入れ替えて

接していきたいと思います。

新聞等で報じられているように、近年の熟年夫婦の老後の過ごし方に対する考えは夫と妻には大きな差が

あるようです。

夫が考えているほど妻は夫のことを考えてないという事です。

故郷を離れても女性は子供を通じて結構地域に根を下ろしていますが、男性は仕事、仕事で、仕事を

離れると故郷にいる時のような人間関係は無く、夫は妻に見放されると老後は大変です。

そんな事を考えると自分が生まれ育った土地で一生過ごせるという事は幸せなことではないでしょうか。

最後になりまじたがこのような機関紙の発行は地元に居られる方はもちろん、故郷を離れた者にとっても

菩提寺を通じて故郷の様子が伝わり非常に有り難いことです。

住職をはじめ発行に携わっておられる方々に感謝すると共に、末ながく発行が続く事を祈念致します。

甲斐照光さん

 

《新春の挨拶》

明けましておめでとうございます。御住職より原稿依頼をうけましたので、久方ぶりに書棚に並べられた

寶林精舎のページをめくりました。

この数年間に檀信徒の皆さんが寺に注がれた御苦労に対し、ただただ頭が下がります、

いくつかあげて見ますと、

1.百年目という本堂修復工事が行なわれ、緑の山を背に本村文化遺産としての面目を保ちました。

2.三界萬霊塔や多くの仏像が設置された理想的な墓地を造成、併せて駐車場とそれに通ずる道路を完備、

  寺院としての調和がとれました。

3.恒例の大般若会や、献茶会、施餓鬼等、回を重ねる毎に盛会に催され、事業が着実に執行されています。

4.平成五年には正定寺花園会婦人部が結成され、法灯護持に魅力ある活動を頂いて居り、

  組織の充実が図られています。

5.仏像の修理も出来ました。多年の懸案でした東司(便所)の建設も行なわれて居り、美しい環境が整います。

等々偏に歴代の護持会長さんや花園会長さん、地区世話人の皆さんのご指導と、

多くの皆さんのご協力によるものと深くお礼を申し上げます。希望に満ちた一九九七年を迎えました。

私共は地域の皆さんや遠くはなれて住んで居られる皆さん、又正定寺と深いかかわりをもって居られる皆さんと

一緒に、いつまでも静かで、美しい、私達先祖のやすらぎの場にふさわしい寶林山であって欲しいと願いたい

と思います。

老いはだまってしのび寄って来るといいますが、私もいつの間にか古稀を迎えました。

美しく老いたい、充実した老人らしい老人になりたいと頑張って居り、お陰様で元気で農業のかたわら、

観賞用大菊や季節の草花づくりを楽しんで居ます。

花は私達に心のやすらぎを与えてくれますし、優しさや、ほほえみも与えてくれます。

又仏教的にも「花は大宇宙の佛の御命のあらわれ」だとも聞いて居ります。

今日あることに感謝し、無限の親しみと、美観を添えてくれる美しい花を咲かせ、残り少ない人生を

精一ばい生きぬきたいと思います…‥・。

最後に、皆様のご厚情に感謝し、寶林山の発展を祈り、関係者皆様の御健康と御多幸をお祈りし筆を置きます。

河野豊美さん

 

《第三回九州東教区花園会婦人部総会》

去る平成七年十月十三日・十四日の両日、本山妙心寺での「全国花園婦人部研修会」に

出席させていただきました。

その時の報告をとの依頼がありましたが、少し時間がたちましたので記憶のうすれた所もございますが、

今日まで心に残っている事を発表させていただきます。

十三日、佐伯市天徳寺の大川婦人部長さんと佐伯駅より御一緒していただき、大分駅で万寿寺の

平山婦人部長さん、外三名の方と合流し、午後二時三十三分に京都駅へ到着いたしました。

少し時間がありましたので、平山婦人部長さんのお心遣いで、足利尊氏創立の等持院、

石庭で有名な龍安寺を見学し、ちょっぴり紅葉の都路を夕日に迎えられて花園会館へ到着いたしました。

目を見はるばかりの新築の会館でした。

本場京都の精進料理をいただき、木の香る新しいお部屋でやすませていただきました。

十四日はいよいよ研修会です。会場の微妙殿へ。お釈迦様の大仏像が私達を迎えて下さいました。

その後ろに参千五百ケ寺の位牌がずらりと並んでいました。私も正定寺の位牌に合掌して席に着きました。

百六十八名の花園婦人部が一同に集まり、開会は般若心経で始まりました。

松山管長様の御挨拶は、にこやかな微笑のお顔で、先祖の供養、家の中のきりもり、

子供を産み育てた強くたくましい婦人の方が、どうか婦人の力で自分自身に磨きをかけて

「善の心」で生活して下さいとのお言葉でした。

細井全国花園会長さん、笠原全国婦人部長さんの御挨拶の中にも、

『心の教養はお金ではない、自分の心の持ち方であり、人は助けるつもりが実は助けられている。

今日一日心の洗われと共に磨きをかけて、世の中の為善の心で光って輝いてほしい。』

その様なお言葉でした。

記念講演は、「祈りの紙細工」と題して花園紙にも出筆されている森田桂子様でした。

人間は夢中になってする事があると脳からモルヒネ、つまりホルモンが出て健康になれる。

母親の着物を思い、母親がここに居ると思うだけで母乳も出る。

今は何でもある時代だが、祖先から受継いで作ったり、作られなくても思い出すだけでモルヒネが出る。

マイナス思考を捨てプラス思考で生活する事が必要だと思いました。

いよいよ分科会、一班から四班まで四分科会に別れての討議、「組織結成の促進」「活動の充実」に

ついてでした。意見も沢山出ました。

又婦人部長さんの御意見に、十四年後無相大師様の法要が開かれます。

婦人部の一人一人が自分の為の心のよりどころとして、年会費五百円を本山に積み立ててはいかがでしょうか

とのお話がありました。

全国では婦人部が結成されていない所もありましたが、東教区は婦人部が結成されていてそれぞれの

活動がなされていました。

正定寺花園婦人部もお彼岸の施餓鬼供養を始め、大般若会、研修旅行等充実した活動をいたしております。

お寺様にお参りの回数も増え、お和尚様よりお説教を聞き、お経も覚えさせていただきました。

私も毎日の生活の中で宗教の大切さを痛感致しております。

朝は今日のスタート、夜は今日一日に感謝して仏前で般若心経を唱えて、善の心で生活出来る

努力を致しております。

祖先、親を大切に、子供達へも継承して行きたいと思います。

正定寺花園婦人部も心を合せて婦人だからこそ出来る事に挑戦して、私達の輪が広がりますよう

念じて微力ながら私も頑張りたいと思います。

ここで研修決議文を読みあげさせていただきます。

私達婦人部は、法皇さま、日峰さまの遠謀を契機に、婦入部の結成と強化を計ると共に

開山さまのみ教えである「請う其の本を務めよ。」に基づいて婦人でなければ出来ない役割を以て

社会にその力を寄与する事を宣言し、次の事を決議します。

一、十四年後に迎える開山さまのご遠謀までに全寺院に婦人部組織を結成します。

一、婦人部組織強化のため本部に会員名簿を提出しよう。

一、いのちを育ててきた私達婦人は、いのちの尊さに目覚める家庭教育を行います。

一、前回決議された「テレホンカード」の回収は今後も継続します。以上です。

この実りある研修会に、仏縁を得まして出席させていただきました事に感謝して私の報告を終らせて

いただきます。

ありがとうございました。

河村昌江さん

 

《私のこころのこり》

父が今年の一月十九日に亡くなって、早いもので、もう一周忌が近づきました。

なぜか、最近やけに父の事がよく思い出され、とても父が恋しくなります。

父というと、山林(松や杉やひのき等)が好きで、「山に行くと、気分がカラリとする」とよく言っていました。

めずらしい木があると聞くと、近所の人や友人を連れてよく見に行っていました。

車イス生活になっても、山のことをよく話していました。

自慢気に、楽しそうに山の話をする父を思い出します。

パーキンソン氏病が進行して、完全なねたきりになっても、父はあまりグチは言わず、私達介護者にとっては

とてもよい病人でした。

父は調子のよい時には調子はずれの直川音頭やアイちゃんの歌など歌ってくれましたし、

時々みせる笑顔が私達のはげみにもなりました。

父はうち(我が家)が大好きでした。

父は、「家で死にたい」とよく言っていたので、最期は、家で看ってやりたいと思っていましたが、

、いざとなると、いくら見込みがなくても〝死を待つだけ″の状態はあまりにもつらくて、

又、一分でも一秒でも長く生きてほしくて、病院へ連れて行き、処置を希望しました。

とうとう、父は家ではなく病院で臨終を迎えました。

唯一の父の希望「家で死にたい」ということを叶えてあげられなかったことが私の心のこりです。

在宅介護については、訪間看護やいろんなサービスを受けながら、幸いにも母も体調を壊すこともなく、

順調に行えたと思います。

しかし、在宅でのターミナルについてはむずかしい問題が多く、生命に対する価値観と延命の理念等、

あらためて考えさせられる事がありました。

私の心のこりについては、父があまり苦しまず、亡くなる直前に、私達に最高の笑顔をみせてくれたことで、

少し救われた思いがしています。

今夜も、母が父の好きな最中をお供えしながら、父と話しています。

明日の朝もたぶん、あわただしく、家族五人分のチーンの音が鳴り響き、我が家の一日が始まります。

甲斐好隆 さん

《「神の原」と私》

昭和十三年四月、神原駅から佐伯駅に通学を始めた。

それまでは旧中野村で小学校時代を過ごしたが、村外に出たのは三回程度で、今思うと全くの田舎者だった。

叔父、叔母の家を転々としながら旧制中学を卒業し、昭和二十三年縁あって甲斐家に養子縁組をした。

私は十六才の春、胸を患い病身だったので、就職も事務職を選び農業団体にはいった。

この時代は戦争中で、世の中は『錨』か『星』かで(海軍~陸軍)私にとっては不満足な選択でした。

小さな農家でしたが、叔母、養父母達と山田の耕地整理にも励み、隣保班の共同田植え作業にも精だした。

田植えの綱引きもよくさせられたが、お陰で親綱の引き場所や後作の具合も勉強になった。

こうして一緒に苦楽を共にしてきた人達も次々に逝った。

神原地区の戸数は三十~二十六戸ほどだったが、昭和十三年から六十年も経った現在、

その間逝った人‥・六十数人、私自身も五人送った。

一番多い方だと思う。それで正定寺さんには大変勝手申し上げ格別なお世話様になりました。

豊嶽和尚さんと同級生でもあり、私にとって一番大切なことを滞りなく済ませることが出来て心から

感謝しています。

今年は亡き妻千鶴、養父節一の七回忌を迎えました。

妻の死はさすがにショックでした。

『死』は残された人にある言葉…といいますが、正にその通りです。

自分では一日一日気丈夫に送っていたんですが、何時の間にかストレスが溜まり一周忌を迎えるまで

二回も入院しました。

戦後を代表する評論家江藤淳さんが奥さんの亡き後八カ月…ついに自分で後を迫いました。

平成十一年九月のことでした。

私も同じ思いの悲しみに涙しました。

『花発(ひら)けば風雨多し、人生別離足る、サヨナラダケガ人生だノ』と…井伏鱒二さんもいった。

『日残りて昏るるに未だ遠し』と自分は自負していましたが神原では何時の間にか男性の中で

年長者になってしまった。今年は仏壇も大分に移します。

永年のしきたりに別れを告げますが、神原に帰って来た時の淋しさが思いやられます。

妻逝って七回忌、余寒なかなか去りそうにありません。

最後になりましたが、私の近況を申し上げます。

住居は南に西寒多神社、西に霊山を望む宗廟に囲まれた文化財の里です。

四百二十戸の老人クラブの会長を六年程していますが、結構忙しいものです。

元気になりましたので、月二回のゴルフも欠きずに、週二回の囲碁、年二回の海外旅行も特別仲の良い友達は

居ませんが、必ず同行し、精神の若返りに努めています。

いつまで続くことか。仕事の都合もあって、一昨年五月からワープロを覚え、この頃は、パソコンにも

手を出しています。

甲斐照光さん

 

《総代・弔辞》

謹んで今は亡き正定寺第二十二世豊嶽和尚様のご霊前に六十年にわたる数々の思い出を込めて

最後の言葉を捧げなければならないことを大変残念に思います。

あれは昨年宝林山を囲む山の緑が目にしみる五月も半ばでございました。

私はいつもと違って和尚様のお部屋にお邪魔して楽しく愉快な一時を過させて頂きました。

和尚様の純粋で無邪気だった子供の頃のお話し、昭和初めに生まれ戦前戦後の厳しい時代に

青少年期を過したお話し、住職在任中の悲喜こもごもの沢山のお話し等、

話題豊富な和尚様のお話をじっくり聞かせて頂きました。

そして最後に御家庭のことにもふれられ、「一生健康に恵まれた方では無かったが、長い間、

妻と支え合いながら楽しく過し、二人の子供、可愛い孫に囲まれて平和に暮らし、

今年は傘寿を迎えることが出来た。これから先もお互い体に気をつけて、のどかに暮らしましょう」とおっしゃった

和尚様の笑顔は一点の曇りも無く、まさにさわやかな五月の空の様でした。

外柔内剛、優しく穏やかな反面、住職の仕事に対しては強い情熱と正義感をもって終始されました。

その和尚様が半年も経たないうちに突然身体の不調を訴えられ直ちに南海病院に御入院。

奥様始め皆様の手厚い看護もむなしく、ついに六月一日八十歳を一期としてこの世を去られました。

あまりに唐突なことに唯々、茫然自失の体でございます。

誠に哀悼の情にたえませず痛恨またおくところを知りません。

生ある者の宿命とはいえ、この様に早い御旅立を誰が予想したでしょうか、どこで何が違ったのでしょうか。

末だに信じられません。

和尚様は大正十五年二月一日先代小原千巌和尚の長男として生まれ、佐伯鶴城高校を経て、

花園大学を御卒業、昭和二十九年住職に御就任、昭和六四年迄の実に三十数年の長きに亘り

偉大な業績を残されました。

特に百年目という本堂修復工事が行なわれ、緑の山を背に本村文化遺産としての面目を保ちました。

又、三界万霊塔や多くの仏像を修復設置され理想的な墓地を造成、寺院としての調和を整えられる等、

美しい環境づくりに精進されました。

更に長らく途絶えて居りました大般若会の復活、あらゆる行事の恒例化にも意を注がれる等々、

その足跡は枚挙にいとまがありません。

慈愛に満ちた優しい和尚様。

人の和を大切にして来られた、ほのぼのとした和尚様。

そしてあなたの残された数々の偉大な功績はいつまでも私どもの胸の中に生き続けることでしょう。

今はただ心から御霊の冥福をお祈り申し上げ、御遺族の皆様の前途に限りない

御加護を賜りますようお祈り申し上げます。

和尚様長い間御苦労様でございました。和尚様有難うございました。

安らかにお眠りください。

本日はあなたの涙の葬儀に連なり感慨を禁ずることが出来ません。

友人の一人として謹んで弔辞を捧げます。

平成十八年六月七日

檀信徒総代 甲斐照光さん

 

平成24年11月24日臨済宗妙心寺派、宝林山正定寺第二十四世南陽和尚様の晋山式が

近くの和尚様は勿論、全国各地から多くの和尚様の御光来をいただき、

又壇信徒皆様の出席のもと盛大に挙行されました。

 

日程に従い11月も半ばから各行事が行われましたが、11月24日は計画どおり

分衛所・安下所・普山稚児行列・茶礼所の各行事が無事終りいよいよ本番、晋山式の儀式が執行されました。

 

緑の山を背に内外とも整った寺院での晋山式、本当にすばらしい一語につきます。

すばらしい晋山式は伝統ある正定寺の誇りです。

 

南陽和尚様には申すに及ばず、御両親様、御家族の皆様のおよろこびは如何ばかりかと

お祝い申し上げますと共に和尚様の御健勝と正定寺様のご隆盛をお祈り申し上げます。

本当におめでとうございます。

 

次にこのたびの晋山式、分衛所の儀式を私宅に指定をいただきました。

八名の和尚様方を始め小野永生総代会長様ご夫妻、花園会婦人部の皆様外多くの皆様で南陽和尚様を

お迎えして無事式を終えることができました。

本当にありがとうございました。

 

又このたび晋山式で私事、妙心寺派管長様より総代永年勤続の廉(かど)により感謝状をいただきました。

何もお役にたたなかった私にこの様な身にあまる賞、併せて深くお礼を申し上げます。

 

最後に花園会役員、地区世話人、花園会婦人部、青年部の皆様、長い間何かとお世話にあずかり、

まことに有難うございました。どうかこれからもよろしく御高庇を賜りたく何とぞよろしくお願い申し上げます。

新たな年となりました。本年も皆様にとって佳い年になりますようご祈年申し上げます。

河村典邦さん

 

《研修会に参加して》

先般、10月25日に臨済宗妙心寺派花園会の研修会に正定寺様より、初めて参加させて頂きました。

その研修会の中でありました、講話の題目「おかげさま」。  

 

私が若いためか、普段の生活において、あまり口にした事がほとんどなく、 

講話の開始までは「おかげさま」という単語には中々受け入れにくい印象がありました。

講話より「おかげさま」とは「御陰様」であり、「陰」と言うものに「様」を付け、更には「御」を付けたものである。

私としては「おかげさま」とはただ単に人を労う為に使うものとの印象しかありませんでした。

 

ここでいう「陰」とは何か?なぜ「様」を付け、「御」を付け謙譲するのか?すぐに講話の中に答えがありました。

陰とは助けであり、支えなど、実際に見ることが出来ない恩恵である。。     

その恩恵に対して「様」を付け、より感謝を込めて「御」を付ける。 

この恩恵で身近な存在であるのは父母の恩である。

 

その話しを聞いた時に一番に私が考えてしまったのが、昨年11月に亡くなった父の事でした。

恥しい話しでは在りますが、これまでは父が亡くなり、悲しさや寂しさが強く、

父を思い出してしまう家にあまりいたくないなど、受け入れられない私がいました。

 

しかし、自分の内に「あなたの御蔭で…」と想うと、  

これまでの気持ちでは父に申し訳なく、父に恥じない様な生き方をしなくてはならないと感じました。

気持ちが逃げているだけの私とは違い、実際に近しい人を亡くした父と母は私の前ではいつも

しっかり前を見ていたように感じられます。

 

今回参加させて頂いたおかげで、父からどれだけ支えてもらったのかを気付かせて頂きました。

これからは常に自分の内に「御陰様」を持ち、感謝を忘れず、今の自分を見つめなおして

行かなくてはならないと気付かされました。    

ありがたい研修会に参加させて頂きまして、本当にありがとうございました  

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

久保田成太さん

   

《衆生本来仏なりより・・自分が仏》

お寺へ行くと、若和尚さんから原稿のお話があり、日頃家の仏壇さえろくに拝まない私はこまったのですが、

なにせ夏のタ刻のこことで外は針を持った大勢の「雲水(蚊)」が飛びまわっておリ、

お断りするために長話になって連中がお寺の中まで入っては気の毒に思い、お引き受けしました。

いや、くだんの雲水の一斉攻撃を受け、千手観音の応援を頼みたい情況にあり、

なお平静を保つのに懸命で和尚さんの旨意もろくに耳に入らず、とりあえず返事をして

早々帰ったといったほうが正確です。

子どもの頃からお寺や神社というのは何となく好きではありましたが、

一心に拝んだ記憶のあるのは、母が病にかかった時の「神だのみ」くらいで、

日頃から不精を満喫しております。

ひところ茶道に凝ったことがあり、又面打ちの真似ごとをしたりするうちに自分なりに、

折に触れ仏様や神様のことを考えるようになりました。これも年のせいかも知れません。

悪いことをすると「仏さんの罰が当たる」と言いますが、考えてみれば神も仏も

人の心から生まれたもので、人が生きており、心があるから仏様もいるんじゃないでしょうか。

仏さんに拝んだりするのは、云い替えれば、少しでも自分自身の本心に近づこうとして

いるのではないかと思います。

お願いすると言うより反省したり、決心したり、素直な心持になろうとする一つの儀式のように思えます。

こんなことから勝手な理屈を進めるのですが、お寺や仏壇があろうとなかろうと、

先祖を祭ろうと祭りまいと、自分の気持をじっと整理し、自分の心がどっちを向いているか、

安らかであるか、無理な欲を出していないか、見栄を張っていないか、

つい知ったかぶりをしていないか、

(この拙稿などさしずめその代表みたいなものですが)本音とは反対に我を張っていないかと

常々自分と話しをすることが大切だと思います。

むしろ、そのほうがより人(仏)の道に近いような気がします。

仏はいつも自分と行動しており、拝む(自分を見つめる)気持ちになれば、いつでもどこでも

何にでも拝むことができるはずです。とは云え、

これがなかなか容易なことではなく、私も頭で思っているだけです。

やはり人間は気持ちを形に表わし、特定の場所(お寺など)でよリ本心に帰りやすいのでしょう。

それでお寺を造り、神社を建て、拝む形を作り出したんだと思います。

ところが、これは手段であって目的は素直な心に帰ることにあるのすが、日頃私どもはつい

取り違えて本末転倒になってしまいます。

人をかきのけて我先にお地蔵さんを拝んで得をしたような気持ちになりがちで、拝む形だけ

わかっても日頃の行動が反対を向いていてはこまります。

だから、子供に奉仕作業をさせると、出てくるゴミはビールの空カンやタバコの空箱といった

調子になるのでしょう。

こうしてみると、仏の道とは何も事改まってお経を読んだりお寺に参ったりすることだけではなく、

むしろ日常生活の一つ一つにあるのかなあという気がします。

また自分にもそう一言い聞かせるよう心がけております。

長々と誠しやかなことを云わせてもらいましたが、日頃先祖に線香の一本も上げもしない不精者の

都合のよい仏法解釈はこの辺で終りましょう。

それにしても、夏の夕刻ランニングと半ズボンでお寺に行ったのは光見の明のなさであり、

くだんの雲水さん方の接待に心安らかでなかったのは生身であるなによりの証拠でしょう。

ああ有り難や。  合掌

(若和尚より)ぼうふらや蚊になるまでの浮き沈み

久保田嘉博さん

 

《心の泉》

「よっちゃんどうな」突然家の前の路上で声をかけられ、振り返ると、武田守様でした。

若い頃、職場の大先輩として大変御世話に成ったものです。

現在、正定寺の広報紙「寶林精舎」の広報責任者として活躍されて居られ、その御苦労に感謝しています。

日頃は仕事に追われ、正定寺へのお参りも少ない私ですが、本堂に正座し、手を合せて、

聴く鐘の音が広く、深い静寂の中に、ふるわせ乍ら、しみ込んでゆく時、一瞬、安堵を覚えます。

生きているという実感『先祖が有って、自分自身がこの時空の中で生きている、生かされている』

「心の泉」が沸出る思いです。

又、和尚さんとの数少ない会話の中にも、自分を見つめ自身の生様を見つめ直す事の出来る

機会でもあります。

人々の心のよりどころとしての菩提寺を、先祖より引き継ぎ乍ら、護り、維持して行く事は、

むしろ当然の事だと云えましょう。

人間の愚かさ、醜さをさらけ出して、絶えない戦争、それは宗教の戦いでもあります。

その意味で、私達の国、日本は、そして我が郷里は、非常に恵まれている事を痛感し、

祖先への感謝の念がつのります。

現在、盛んに提唱されている「アメニティーライフ(快適な生活空間)環境」づくりへの

大前提だと想うのです。

大自然の中の[人の一生」それは、あまりにも短かい、そして果敢ない。

だからこそ、人それぞれに精進されて居られることを拝察し、多くの大先輩方の生様に学び乍ら、

精一ぱい生きてゆきたいものです。

「寶林精舎」の地道でたゆみない活動が、二十一世紀へ生きる皆様方へ、本堂の鐘の音の如く、

心の襞へ深く、厳然と伝わってゆく事を、念じてやみません。

久保田敦典さん

 

《私と般若心経》

〝人間わずか50年下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり、

一度この世に生を得て滅せぬもののあるべきや〟

 これは今年のNHK大河ドラマで〝信長″の中で信長が桶狭間で今川義元と戦うための出陣を前に

謡った〝敦盛″の一節である。

寶林精舎12号が発行される項には私もこの世に生を得てその50年を迎えることになる。

思えば真に夢幻のごとくである。

さて私がお寺から配布された経本を初めて手にしたのは昭和50年2月、母が死去した直後だったと記憶している。

朝とタ、仏前に手を合せ祈るだけでは母との別離が余りにもはかないものに思えてきて

自然と経本を読むようになった。

そして私が初めて憶えたのが般若心経である。

般若心経の本質は理解できなくとも仏前で二七六文字の経文を唱え終るとご先祖様のご加護により

よりよい一日が始まりよりよい一日が終ったようなすがすがしい気持ちになる。

書物によると般若心経は諸説はあるが現在わが国で広く読誦されている心経は西遊記の三蔵法師で知られる

玄奘の新訳によるものだそうである。歴史的背景から何んとなく親近感をもたせるお経でもある。

般若心経は仏教を通して二七六文字が語る人生の知恵、人生への啓示であると記されているが

般若心経が説く教えについては私のような凡人には理解できないことが多々あるが

今はなき父と母の位牌の前で大きな声で二七六文字を唱えると不思議と心が安まるのを感じる。

ご先祖様に朝、今日一日の安恩を願いタベにその日を感謝する一番よい〝時″だと思う。

〝摩訶般若波羅蜜多心経……菩提薩婆訶般若心経〟

今では私の一日の生活の一部となっていいる般若心経を今日も読誦している。

久保田チヨノさん

  

《私の一生》

外出から帰って見ると夫が武田さんより原稿を頼まれたとの事、

もともと浅学の私が老人ボケで文字は忘れてしまい、頭の方うも子どもになっているのに

投稿なんてとても無理と一度は考えたのですが、わざわざお出向きになり私ごとき者に

依頼されたのにむげにお断りするのも如何かと自信のないままペンを取りました。

さて私の一生は、若くしてこの久保田家に嫁ぎ、三男三女をもうけ結婚生活もやがて

七十年になろうとしていますが何一つとりえも無く働くことにがむしゃらで、

気が付いたら八十路の坂にかかっていたという事で、静かに過去に思いを走らせると、

長かったような短かったような色々なことが走馬灯のように頭の中をかけめぐり感慨無量です。

何といっても心に残るのはあの痛ましい戦争です。

夫が出征したのは三四歳の時、父和作は七八歳、私は二八歳、九歳を頭に二男二女がありました。

戦時下で食料難は言うまでもなく、何としても農業を続け、子どもを養育しなければならず

「頑張れ」と自分に言い聞かせる毎日でした。

幸い、父和作に相談相手になってもらいましたが、夫の安否を気遺いながら眠れぬ夜も

しばしばでした。

お陰様で地区の方、親戚の方のご加勢をいただき何とか農業を続けることができました、

今のように機械ひとつあるわけじゃなく、体当たり農業でした。

農繁期など加勢してくださった方々に食事を出すのにお肉とか魚等は無く、

月形地区に「おきまおばさん」という人がお豆腐を作っていましたので、大豆を持っていって頼み、

出来た豆腐は九歳だった長女の香代子が何度にも分けて運んだ事もありました。

色々なときご先祖様は心の支えでした、悲しいとき、困ったとき等ご先祖様にお願いすれば

不思議と心が安らぎ勇気が出て来ます。

私の信仰は人並みで、朝お茶とうをして、御仏様方どうぞご一緒にお上がりください。

今日も一日皆元気で過ごすことができますようお守りくだきいと礼拝し、

夜は今日も一日皆元気で過ごすことができましたありがとうございましたと

感謝の礼拝をするのが日課です。

年中仏壇のお花は枯らさないよう心掛け、珍しい頂き物はまず仏壇に供えそれからひ孫にあげています。

ひ孫もちゃんとわきまえており、時には「ばあばあなんなんさんにすえた?」と聞きます。

かって孫が甲子園に出場した時など試合が始まって孫の出番になると私は試合は見ないで、

仏壇に御燈明をあげ真剣にお祈りしたことを思い出します。

若い頃姑さんに色々云われていたがその頃の私はうるさい位に聞き流していたのが、

自分が老齢になってみると一言一句が名言であった事が解りました。

いつも夫と話しているのですが、今の老人ほ昔の老人に比ベれば幸せです。

昔の老人は牛を飼ったり、ダッを編んだり、縄をなったりして小遣いを稼いでいましたが、

今は小遺いは国民年金等でいただくし、コタツに入りながら全世界のことがわかるし、

子ども、孫、ひ孫に囲まれながら良い時代に老人になったと夫と共に喜んでいます。

二十一世紀には老人が倍増すると予測されていますが、現代の若者の老後はどうなるのかと

心配ですが、これが年よりの取り越し苦労であれば良いのですが。

人間入陽が大事、お経にもあるように善意功徳を怠らず人様に愛され、美しく入って行きたいのは

誰しも願う事でしょうが、すべては運命(さだめ)、運命のなすがまま、思わず合掌します。

若き日の思い出彼方八十路坂

久保田キヨヱさん

 

《大授戒会》

秋も深まり山の紅葉も鮮やかな十一月七・八・九日の三日間、大本山妙心寺より管長さまをお迎えして

弥生町江良、洞明寺で九州東教区主催で大授戒会が行なわれました。

十一月八日、正定寺檀信徒三十名の方々と一緒に参拝する機会に恵まれました。

午前八時三十分貸切バスにて洞明寺につき、受付にて極楽行晴着一セットと仏教聖典を戴き

場内に入りました。中はもう白衣一色でした。お授戒とは、私達が過去において知らず知らずのうちに

おかした罪やあやまちを悔い改めて、これからの毎日を体も心も清らかに誇りをもって正しく生きられるように、

仏教徒としての生き方を習得する修行法会であり、六十年毎に行われると云う事です。

先ず講座、七百人の授戒会者は畳一枚の上に四名ずつ座り、肩と肩をつき合わせ、

足を出す事も出来ませんでした。

管長さまは八十八才になられていると聞きましたが、とても元気で美しく立派な方でした。

管長さまによる説教を戴きました。仏教聖典を手にし、延命十旬観音経、つづけて五支礼拝文と

管長さまと和尚さん達のあとに読経しながら礼拝を幾度もくり返しくり返し只、一心に余念なく加行礼拝に

勤めました。朝九時から午後四時まで緊張の連続で、時の経つのもわからない位でした。

張りつめた気持ちは疲れも感じませんでした。

日頃の信心をより深く仏縁を結ぶ事が出来ました事、何より感謝致しております。

私達が生きていることは、祖先のお陰であり、先祖さまを供養する事は自分自身を守ることに他ならないと

思います。仏教聖典を開き、延命十句観音経、唱える今日この頃です。

合掌

久保田 与治郎さん

  

《偉いもんにならんでいいき、利口もんになれ!》

今年九月に祖父「與」が満八十九才でこの世を去った。八月に緊急入院して約|ヶ月間の闘病であった。

その間、多くの知人や親戚の方々に励まされ、家族や子ども、孫、ひ孫に看取られての最期であった。

新聞やテレビで独居老人が死後数週間を経て発見されたことがよく伝えられる現在、

祖父はその点では幸せであったろうと思う。

祖父が元気な頃、わが家は三夫婦同居の四世代・八人家族であった。

子どもが二人いるせいもあり、食事時になると話題も豊富で大変にぎやかく、

同時に幾つもの話がテーブルの上を飛ぴ交っていた。

その中で子どもの話に聞き入り、暖かみのあるほほ笑みを浮かべた祖父の横顔を見たとき、

言葉では云い表しがたい幸福感を味わった。その横顔は印象的で今でも目に浮かんでくる。

子どもにとっても父母.祖父母との生括は私たち親だけでは教えることのできない

多くの貴重な事を学ぶことができると思う。

こうした父母.祖母と生活を共にできることに今、心から感謝をしている。

それは取りも直さず役場への奉職を幸いにも与えられたことと、

そしてそのように私の気持ちを尊いてくれたのは、

今まで出会った数多くの方々からの教えによるものだと思う。

十数年前に亡くなった母方の祖母が、私がまだ小さいころ祖母の家に行くと、

頭を優しく撫でながら、「偉いもんにならんでいいき、利口もんになれ!」と良く云い聞かされた。

その頃は意味が理解できなかったが、これは都会に出て学問を積んで偉くなると

地位と名誉とお金を得ることができるが、直川へは帰るというわけにはいかなくなる。

そのような偉い人にはならなくても良いから、直川に住んで、直川を思い、

両親、祖父母を大事にするような利口な人間になれということである。

この祖母の言葉は私を現在の生活へと導いてくれた教えの中の重要なひとつであった。

祖父の中陰供養の際、膝に座った子どもが私の見る経本の中の般若心経の

ふりがなを目で追い和尚の唱える心経に必死に付いていこうとする。

もちろん意味など分かるはずもない。

そんな子どもの姿に安堵し、「偉いもんにならんでいいき、利口もんになれ!」と心の中で願い、

子どもの頭を撫でた。

久保田弘さん

 

《正定寺役員OBから》

私は、車に乗れないせいかお寺のお参りは必ずと言って良いほど正門から参拝致します。

数々のお地蔵さんに手を合わせながら子供の頃、お釈迦様の花祭り(四月八日)にサイダー瓶を持って

甘茶をもらいに行った思い出や長い石段を造った当時の人の信心の尊さと苦労を忍びながら

一段一段登ります。

鐘楼門(鐘つき堂)をくぐり観音堂(位牌堂)のご先祖様に手を合わせ本堂の御仏に心静かに

お参りを済ませます。

『これが心のふる里では…………』と一人ごとをつぶやきながら表の縁起由来板に目を通すと

五百年の歴史の重さを新ためて感じました。

「古きを伝え、新しきを知る」昔は、「城一城・寺一ケ寺」と云って兵法にも通じる県下でも数少ない

立地に建立されている由緒ある菩提寺を私たち檀家は大いなる誇りに思っています。

いかに無信心の方でも親のいない人はないのです。

「親が有る」と云うことは先祖が有ると云うことでまざれもない現実なのです。

お寺は御仏と私たちの先祖の永遠の安らぎ場なのです。

楽園の様にきれいにお守りすることは檀家の努めなのです。

またそうすることが日常の幸せにつながる事を私は信じています。

幸いにして皆様の真心がなる奉仕によって大修復も終わり大変きれいになりました。

そして運営の方も総代さんを中心にした本来の姿になり、また花園婦人部も結成され活動の輪も広がり、

名実ともに檀家の一人として心嬉しく思っています。

歴史と由緒ある正定寺を護り育てて頂いた初代を初め歴代の和尚さん、

そして私たちの先祖様に心から感謝の祈りを捧げで筆をおきます。

久保田ミサヲさん

 

《椋の木と私》

私の家の東方に、二本の椋の木が聳えています。樹令はどれ程か知りません。

枝と枝とを交互に出して、さも手と手をつないで、風雪に耐え、長い、仲良く生きている様に感じます。

昔、大鶴の村は、今の国道沿線の山裾、長原と云う小高い丘に、五、六軒、あったとのことですが、

暴風雨の際山崩れに会い、現在の位置に移心リ住んだと、

父やお隣りの先々代様より、子供の項から幾度も聞かされています。

其の時きっと、私共の村の御先祖様が人を愛し、それぞれの家を思い、村の繁栄を守り続ける為に、

村の四方に防風林として椋の木を植えて下さったものと信じています。

其の後、幾十年の後、不幸に村は大火に見舞われ、全戸が焼き蓋くされたとか、椋の木も全身に火を受けて、

枯れた木もあったそうです。今、残っている椋の木は、一生懸命蘇生しようと頑張ったのでしょう。

其の様子が伺われ、いと愛おしく哀れに思われます。

中身はえぐられ、外側だけに苔を生やし、地下より養分を摂り、必死で全身を支えて生きていますが、

春は忘れず茂繁り、青葉の下に白い可愛い花を一ばい咲かせ、初夏の候には青い実をつけ、

秋より木枯らしの吹く冬ともなれば、

実は黒く熟し、来る年々に小鳥達についばませ楽園を築くのです。

今頃は川面に、枝々を映している容姿はとても風情があって、さも一幅の絵を見るようです。

こうして自然の移り変わりを、つぶさに知らせてくれる椋の木も、夏秋の暴風雨の際には、眞っ向から、

強風を身に受け、今にも千切れんばかりに、いやが上にも風よけの、大役を果してくれる勇壮な姿を、

私は夜半に両手を合わせて幾度となく拝み、生涯を歩ませて、もらい、心丈夫に頼りにして助けてもらいました。

それも遠い昔の方々が、優しい心、村の行末を案じて植えて下さったなればこそと、

本当に心から感謝しています。

小さい頃から一人っ子の私は淋しがりやで、遊び疲れて家に帰っても誰も居ないので、

椋の木の根方に佇み父母の帰りを待ちわび、夕暮れ時など、次から次と私の脳裏に浮かんで来ます。

何かしら懐かしさや馴れ親しみが甦り、哀愁にとらわれるのです。

四十有余年前の痛ましい戦争に召され、征く人、今一度と村を見返り永久の別れになった人、

家それぞれに椋の木は変わり行く村の歴史を知って呉れているでしょうに、

悲しい事が起きてしまったのです。

近い内に林道が拡張され、椋の木も全部伐られるでしょう。

時の流れに逆らう術もなく、椋の木はまだ知らないでしょうに。

如何に文明の利器が出来ようとも、到底椋の木が村を守って呉れし大役は、出来得ないと思い、詫びています。

でも椋の木よ、お前達から受けし恩恵を、私は終生忘れる事は出来ない。

お前達の今のきりっとした、優雅な姿を、カメラに写してもらい、生涯の証として後の世に称え伝えたく思う。

言うまでもなく、代りの木を植えらして貰いたく、御願いしようと思っています。

時代の差はあれども、お前達と共に生れ育ち、私も、最早や六十路を超え果てようとしている。

お互に久しい間の絆であり得たことを、嬉しく有難く思っている。

大鶴の、表玄関を、守り続けて、生き抜いて呉れし二本の椋の木に、願いと感謝をこめて、

時のくるまで共に、生きようとしている今日此の頃です。

 

おとなりの城にまごう白壁に青葉を映す椋の貴高し

 

※この投稿は遺稿で、生前親しい方にお預けになっていたものです。

久保田正巳さん

 

《編集雑感》

正月は、冥途の旅の一里塚、嬉しくもあり、嬉しくも無し、

一休禅師の、詠の一節ですが、正月と言えば、昔は、日頃喰べない御馳走が、並び、新しい服や、

着物を来て、家族団欒の楽しい正月でした。

「早く来い来い、お正月」と待ちこがれたものでした。

現在は、暖衣飽食、しかも、季節に関係なく、色々な食物もあり、日常生活が向上し、

正月は、唯単に、一年の節目として迎えられる程度になっています。

日常生活水準の向上と共に、経済的観念が強まり、人との交流も、経済的感覚で、何か薄れ、そして、

その交流も、形骸化したように思われてなりません。

私は、去る十月中旬に、昭和二十年に川原木国民学校卒業生十五名で、戦時中で、実行出来なかった、

修学旅行をかね、沖縄に行きました。

当時、正定寺に疎開していた、沖縄の同級生も集まり、暖かい歓迎を受けました。

実に五十二年振りの再会の人も居ました。沖縄の同級生の話の中で、苦しかった事も多かったけど、

色々な人達から喰べ物など貰いました。

だけど、本当に心から、優しく支えてくれた人の事は、今でも忘れることなく、名前迄、記憶していると

聞かされ、その言葉が、強く印象に残りました。

現在、恵まれた社会生活の中で、お互い、心からの交流、人とのふれあいとは、一体どんな事だろうと、

改めて、考え直している昨今です。

私達の菩提寺である、正定寺に対して、私達檀家としての報恩の念は、誰も変りはないでしょうが、

物や、金だけに、形骸化されてはならないと思います。

朝夕、神仏に額づき、一日の無事を祈念し両親、祖先に対する、報恩、謝徳することは、

心に安らぎを与えてくれます。

寺報が、檀家皆さんお互いの、心の掛け橋になることを信じて、広報編集の責を果たしたいと思っています。

皆さんの御寄稿とご協力を切にお願い致します。

良い年でありますよう、御祈り申し上げます。

久保田恵子さん

 

《祖母の思い出》

私の祖母が亡くなって早や一年が過ぎました。

月並みですが一年がたった今でも本当に居なくなった感じがしないのは何故なのでしょうか?

とにかくインパクトの強い人ではありました。

養子とりであり生まれてこのかた外に出たことのない人だったので家の中では、良い意味でも悪い意味でも

ひときわ光を放った存在でした。

私は、こんなばあちゃんはきっと百歳は軽く越えてずーと元気でいるだろうと思っていましたが、

本当に突然倒れて意識がはっきりしないまま五ケ月間寝たきりとなり亡くなりました。

きっともう一度元気になってくれると信じていましたが願いは届かず、私達の元を離れて旅立って行きました。

生きている間は感謝の心を表した事もなく、うるさい事を言われれば、疎ましく居なければいいのにと

何度思ったことかしれないのに、いざ居なくなってしまえば、自分でも今まで経験したことのない、

罪悪感におそわれます。

行きたいと言っていた所に連れて行ってあげれば良かったとか、食べたがっていた物をたくさん

食べさせてあげれば良かったとか、とにかくもっとやさしく接してあげれば良かったのに

本当に事あるごとに思います。

今、あちらの世界で戦争で亡くなったじいちゃんとずーと会いたがっていた両親と会ってホッとしているからか、

私の所へは一度も会いに来てくれません。

生きていた頃、衝突すれば「墓の中から出てきてやる。」が冗談とも本気ともとれるばあちゃんの口癖でしたが、

一年たっても一度も出てきてくれません。

よほどあちらの世界は居心地がいいのかもしれません。

幼い頃から両親は共働きのために、本当に私はばあちゃんから育てられたのもいっしょ、

たいへん面倒をかけたと思います。

ばあちゃんに生きている間は気はずかしくて言えなかったけどこの場をかりて

「ありがとう。」と言いたいです。

姿はこの世の中にいなくなったけど、私の心の中にはずーっとばあちゃんは生き続けているので、

笑われない様、おこられない様にしっかりと前に進んで行こうと思います。

久保田正己さん

 

《編集雑感》

盆も近づき、何かと御多忙の日々をお過ごしの事と存じます。

盆と、正月、年間の大きな節目として、家族の団欒、そして又、日頃疎遠の近親者との、ふれ合いの時として、

子供達にとっては、家系の存続と祖先に対する尊崇の認識を新たにする機会でもあります。

近年、少年による犯罪が多発的傾向にあり、少年を取り巻く犯罪情勢は、大きな社会問題となっています。

幸いにして、本村に於ける少年の犯罪はありませんが、これから先、発生の可能性は、否定できません。

私は、昭和五十一年四月、佐伯警察署長より、少年補導員の委嘱を受け、現在に至っておりますが、

少年による犯罪、非行防止は、警察や少年補導員、或いは、学校でも、防止出来るものではありません。

矢張り家庭教育、「しつけ」といった次元から、非行の芽を摘んでいかなければならないと思います。

犯罪少年や、非行少年は、仏壇のある家庭からは、非常に少ないと、言われています。

少年非行の防止は、環境浄化に外なりませんが、年間の節目として迎える、家庭に於ける、盆の行事も、

こうした意味も含めて、仏様の供養をすることが、家系の安定と、又、正定寺の法灯護持に継がって

行くものだと信じています。

合掌

久保田義夫さん

 

《船恋峠》

(語り)

この船恋峠と言う由来はのォ 昔戦さに負れた殿様が家来に守られてこの峠まで逃げて来た時の事らしい

そん時あたり一面海かと思う様な見事な雲海ぢゃったそうな

それを見ていた殿様が「舟が恋しいのォ」と言うて涙を流したそうぢゃ

それから誰言うとなくこの峠を舟恋峠と呼ぶようになったそうな

 

峠を包んで霧深く 眠るがごとく静かなり

山路踏み分け登り来て

峠に立てば幾 霜か

幼きころのある思い出よ

 

(歌謡浪曲)

水無月半ば 朝まだき

草葉に露の玉宿し霧立ちのぼる船恋峠

眼下に音無く広がりて 白く波うつ雲海の静かなる様

夢のごと

 

訪ね来る人 今はなく

古郷の峠 老い朽ちて

人待ち顔に 道標

未来を語りし 友は逝く

梢の風に ああ愁いあり

 

(説明)

この峠は直川村大字横川羽木の奥から本庄村大字小川に越える峠の事で実在の峠です。

名前の由来は小生が子供のころ、小生の祖父(弥左蔵)と一緒に旧小川村の親戚を訪ねて行く途中

峠で一休していた時、丁度、雲海が見られた。

その時いた祖父から聞かされた話しを語りにしました。

先日亡くなった兄ともこの峠で流れる汗を拭きながら休んだ想い出があります。

この詞は亡き兄を偲んで作りました。

久保田 忍 さん

 

《父を思う》

「鳶に名前をつけようや。」

私の提案に、父・正巳は笑いながら賛成してくれました。

モモジロウとマリリンが、食卓の話題に上りはじめて半年が過ぎようとしています。

いつのころからか、父が、毎日夕方になると、口笛を吹きながら鳶に餌付けをしていました。

もともと物好きとも思える性格でしたが、鳶の餌を取る様子や「おれの年金は鳶の餌代に消えていく」と

得意そうに、またうれしそうに話していた事を思い出します。

その父が、今年八月、山へ仕事にでかけたまま帰らぬ旅にでてしまいました。

私たちには、何の言葉も残さず。私は、祖母の看病が十分できなかった思いがあるため、父がたとえ

寝たっきりになっても、できりだけのことはする心積もりがありました。

ですが、それもかないませんでした。

父は、とにかく忙しい人でした。

仕事でも、趣味でも、スポーツでも、いい年をして張り切っている姿が思い出されます。

孫のかわいがりようは特別でしたが、仕事が忙しいからと、運動会には一度も行きませんでした。

今年の運動会は、きっとどこからか身をのりだして応援していただろうと思います。

今ごろは、また何か新しいことを見つけて忙しくしているかもしれません。

今まで、働いた分のんびりと過ごせてもらえたらとは思いますが、

それなりに忙しくしているほうが父らしくていいのかもしれません。

鳶は父の死を知ってか知らずか、毎朝、毎夕姿を見せすが、不思議ですが

餌をあげるとことで父を身近に感じらます。鳶の餌である鶏のモモ肉を持って、口笛を吹きながら

歩いて行く父の姿が、見えるような気がします。

今では、私や母だけでなく、妹の子供達までが、父の物好きを受け継いでいます。

父の死を、受け入れるには、まだまだ時間がかかりそうですが、

父に心配させることのないよう、毎日を過ごしていきたいと思います。

父に教えられたたくさんの事を、これからも大切にしていきたいと思っています。

久保田栄一さん

 

《南河内の古寺をたずねて》

暮れも押しつまった十二月中旬。

大阪富田林で「兄弟姉妹ぴかり」があり、その足で河内の国を訪れる機会を得た。

最初は名峰葛城の麓にある弘川寺である。

庭園には、樹齢三百五十年の天然記念物「かいどう」が植わり、四月の花盛りの頃はさぞかし壮観であろう。

当寺で名高いのは鎌倉時代初期の頃の放浪歌人「西行法師」である。

西行堂には

「年たけて又越ゆべしと思つきや命なりけり小夜の中山」の歌碑があり、

更に西行の生きざまにあこがれる我が身には

「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」(西行)と詠じて、

その通り春先に命を終えたというのだから西行もさぞかし本望であっただろう。

府下第一の高峰金剛山中腹の「千早城跡」を見学し、楠正成の菩提寺と楠公夫人ゆかりの「楠批庵」へと廻る。

鎌倉幕府の滅びたあと、楠正成は都から攻め寄せた足利尊氏の大軍を、ワラ人形等の奇計でもって

千早城を守り抜いた南朝の功臣とのことだが、我々には故郷でお袋が唄っていた

「我が子正行呼び寄せて父は兵庫に赴かん……」の桜井の別離の方がピンと来る。

楠正成は、我が子正行と別れて湊川の戦いで壮烈な死を遂げ、正行も四条畷で戦死し、楠公夫人は、

名も敗鏡尼と改め亡き正成公をはじめ一族郎党の菩提を弔いつつ隠棲し余世を寂蓼のうちに過ごされ、

この庵を楠批庵と名づけられた。

楠批庵観音寺は、我が正定寺と同じ臨済宗妙心寺派の禅寺であり、同じ信徒として親しみの持てる

名刺である。

さらに山門は、山梨県塩山市恵林寺塔頭青松軒に建立されていた門を楠公夫人百年祭に移築したもので

栗材による四脚門である。

あわただしく師走に南河内を駆け巡ったが思いは遥か八百年の昔々偲び、

テロや戦いのないくに創りであれかしと祈らずにはおれなかった。

合掌

工藤哲生さん

 

《駆け抜けた58年》

人はそれを余りにも早すぎる旅立ちという。

生前アナタは言ってました。

「人が逝く年齢は全て、見えない法則に従ったモノ、何歳で旅立とうがそれは運命…」だと。

まさかアナタの身に思いがけない運命が振りかかろうとは。

生きて活きて逝ったアナタ…その時まで苦痛の表情、言葉を発することなく、最後まで強い人でした。

私たちには、突然訪れたと感じたその瞬間は、アナタには全て承知の事だったと、

今思わずにはいられません。

だから4月皆で私の還暦と再出発のお祝いの企画をしたのですね…

あれがアナタの最後の力だったと、これっぽっちも知らず、食事をするアナタを見てみんな喜んだのは

いったい何だったのだろうか。

アナタは心の中で、何か大きなモノを抱えていたのですね…それから一ヵ月後、

十人の家族に見守られ、一筋の涙と共に静かに旅立ってもう二年が…現実を正面から見据え、

泣き言も言わず、ひたすら真っ直ぐ活きてきたアナタに「ありがとう」の言葉しか思い浮かばかった。

あの日から、メディアで「私はこうしてガンを克服した」等々の記事を目にするたび、嘘だと思う自分、

ピンクリボン運動もあの日から参加を止めました…

いま、みんな「一つの終わりは新しい一つの始まり」として、それぞれの環境のなかで生きています。

悲しみの中に身を置き、哀しみの中に気力を失い、明日を望めない遺族であってはならないと。

超えなければならばいモノ、大切にしなければならないモノを胸の中に納めて。

幸いみんな元気です。元気なら全て何とかなると

…どうぞ娘や孫たちに幸あれと応援してあげてください。

新陽院光雅惠愛大姉

合掌

古元テル代さん

 

《般若心経との出会い》

今年は例年になく暖かい日が続いていますが、一方ではめまぐるしく変動する世の動きの中で

五十路になった今、自分を振り返り見ると月日のたつのは早いものです。

津久見市より嫁いで来て早や三十年になろうとしています。

親から生を受け、健康な体で毎日仕事の出来る事を感謝しております。

私と「般若心経」の出会いは忘れもしません。昭和六十三年一月六日でした。

突然、母が腹痛を訴え病院へ入院、即手術をし七十日間の闘病生活の中で意識不明の母の口から

般若心経を唱える声に胸を打たれました。

それ迄、神仏の事はすべて母が世話をしてくれていたので母亡き後は主人と二人仏前で手を合せるだけの

日々でした。

仏前を片付けていた時、正定寺さんより配布された「日々のお勤め」の経本が目に留まり、

亡母が朝夕拝んでいた般若心経の経文が目に入り、この時から般若心経を一字一句唱える様になりました。

夜仏前で拝んでいると、今は久留須に嫁いでいる娘が私の後ろで手を合わせいつの間にか娘も

私といっしょに心経を覚え二人で涙して亡母に感謝の気持ちをささげたものです。

今日では仕事を終え仏前で般若心経、観音和讃を読経する事によって心の安らぎを感じております。

人には生と死があります。仏の教えの通り生ある限り慈悲の心を大切に先祖が築いた功績に感謝し、

生甲斐のある人生を送りたいと念願しています。

最後になりましたが寺報を通じ檀家の皆様方の御自愛を祈念し、広報部の皆さんの御苦労に対し

御礼申し上げます。

古元聖人さん

 

《人生峠》

秋も深まり山々には紅葉の美しい季節となって来ました。

先日、正定寺広報の久保田正己さんより寺報に掲載する原稿の依頼を受け、文章を書く事の苦手な私ですが、

今は亡き妻の思い出を偲びながら故人の供養にと思い筆をとりました。

『光陰矢の如し』早いものでもうすぐ四回目の正月を迎えようとしています。

振り返って見ますと平成六年私達夫婦にとって大きな人生の峠でした。

二人の娘も結婚し始めて二人で迎えた静かな正月でした。

『今年は記念すべき結婚三十年真珠婚式、今までの人生を振り返りながらゆっくり旅行でもしたいな。』

というのが、二人の合言葉でした。

『二人の孫も誕生し、今年は我家にも待望の孫が出産予定。早くも男の子かな女の子かなと気にしながら

今年は忙しい一年になりそう。元気印の妻は頑張らなくちゃ』と口癖のようによく呟いていました。

普段病気をした事がなく、何時も元気で仕事に家事に張り切っていた妻が恐ろしい病魔に犯されて

いようとは夢にも思っていませんでした。

一月の上旬より体の不調を訴え、それでも職場に勤務し二月の初めに検査入院。

原因もはっきりしないまま約一ケ月で退院。

無理をするなと言う私に、『自分には大事な仕事がある。役場に行きたい。』

食事もとれないまま気力で数日出勤しました。今思えば自分の病の重さを自覚していたのでしょう。

全ての残務整理を終り机の掃除も済ませましたとの事。

帰宅した時のやつれた姿は淋しく顔は涙でいっぱいでした。

三月中旬、県立病院で診察を受け、二十九日検査結果についての説明、妻と同行、

私にとって忘れる事の出来ない苦悩の一日となってしまいました。

看護婦さんに呼ばれ診察室に入ると医師は、レントゲン写真を見ながら

『患者さんには全部を説明する事が出来なかったが…奥さんの病気はかなり進行しています。』

冷たい一言でした。

返す言葉もなく私は手足がふるえ一瞬にして悲劇の主人公になっていました。

何とか『生』を求め頑張ろうとする姿を見る度、本当の病名を告げる事は私には出来ませんでした。

四月五日入院。ベッドの上で我家の方に向い御先祖様に手を合わせ手術の無事を祈願する。

般若心経を唱えると心の支えになり心の安らぎが求められる。と言う入院中の一つの日課でした。

『もう一度元気になりたい。我家の御先祖様にもっともっと尽くしたい。

病気中にお世話になった皆さん方にお礼が言いたい。

激励の言葉をかけてくれる友人・知人・御見舞に来院してくれる方々に感謝し元気になって御恩返しがしたい。』

その事が妻の一番の願望でした。

手術の前夜には、地区の皆さんを始め友人親族の方々が『千願心経』をあげてくれました。

私達も病室で手を合わせ皆さんの暖かい厚情に感謝し涙したものです。約四時間の大手術でした。

妻にとっては苦しい日々の連続でした。

六月九日、試験外泊許可。手術後、最高の三日間でした。

仏前で般若心経を唱え御先祖様のお陰を頂いた事に感謝。私を始め娘達、

そして小さな孫達も一緒に手を合わせ頭を下げる…『やはり家はいいなあ、もう病院には行きたくない…』

六月二十七日、本人にとっては待望の退院許可が出たものの、思うように食事もとれず

気力のみの生活でした。

約二ケ月の自宅療養の後再入院。意識は最後まで変らず家族の者に対する気配りは忘れませんでした。

九月十六日夜死去。享年五十一才の短い人生でした。

家の事を始め全てに無知な自分にとっては非情な出来事でしたが、

地区の皆さんを始め親族、友人、知人の暖かい激励と御厚情をいただき、感謝の念でいっぱいです。

今年の四月永年勤務した職場を健康で無事定年退職する事が出来たのも、

御先祖様のお陰であると感謝しています。

六十路を迎えた今、健康づくりと地域の方々との心のふれ合いを大切に健やかな明るい毎日が

送れるよう新しい第二の人生峠を目指して頑張りたいと思っています。

郷原 理子さん

 

《開山無相大師650年遠諱団参を終えて》

関西には前日まで大型台風が直撃し、少々心配しておりましたが、当日のお昼頃には日差しが強く感じられる

良いお天気になってくれました。

私たち兄妹は現地で合流し、最初に龍泉庵、そして玉鳳院から開山堂へと通して頂きました。

中でも開山堂は、妙心寺で最も神聖な場所で、祀られる開山像へ毎朝の洗面と三度の食事のお供えを

山内の和尚様方が交代でされているそうです。

お話を伺う中で、「請う、その本を務めよ」と言うお言葉が深く印象に残りました。

そして、両親やご先祖様を大切にする事は、命の繋がりに感謝する事だと改めて気付かされました。

実際、毎日の生活の中では甘えが出てしまい、親に優しく接することがなかなか出来ずにおりますが、

幼い頃に私がして貰ったように少しでも一緒に笑顔の時間を持てるよう努めたいと思います。

お昼は、大方丈で「阿じろ」の精進膳を頂きました。

寒い季節になるので、根菜を中心に身体を温めるものを使うなどの説明を伺う中、たくさんのお坊様方が

お世話をして下さいました。

お料理は、ひとつひとつが丁寧に作られてあり、食感・香り・味を楽しみました。

関西に住んでいる為、お正月は毎年家族で妙心寺に参拝していた事もあり、

父や母がきっと喜んだだろうと思いながら味わいました。

昼食後、しばらく他の檀家の方とお話をしたりして過ごしました。

それにしても、大分からの皆様はお元気です。私もたくさん笑顔になりました。

その後、小方丈から微妙堂へ抜け拝観させて頂き、法要まで少し時間があったので、

2~3の塔頭を拝観させて頂きながら時間を過ごしました。

普段、拝観を許されていない所を色々とご案内くださり、貴重な経験をさせて頂きました。

いよいよ、法要が始まるので法堂へ向かいました。

入ってすぐ『八方睨みの龍』を初めて目の当たりにし、その迫力に思わず声が出ました。

まるで天から龍が降りてくるようにも観え、前の人に続いて席まで移動する中、

転ばないように気を付けながら眺めました。観る方向で印象が変わるそうです。

今回は、法要中でじっくりと観る事が出来なかったので残念でしたが、またゆっくりと観させて

頂きたいと思います。今回、このような催しへの参加は初めてでした。少し緊張しておりましたが、

最初に優しく説明して下さったので安心して臨むことが出来ました。

導いて下さる和尚様に続き私達もお経を読みましたが、大勢の低い声が重なりなんとも

言えず荘厳な雰囲気を生んでいたように感じました。

関西に住んでいると、なかなか檀家の方との接点がありません。

この日、皆様方とお会い出来た事が大変ありがたい機会となりました。

和尚様不在の中、おひとりで色々とご案内くださった奥様には、大変お世話になりました。

本当にありがとうございました。

また、これからもこのご縁を大切に続けて行きたいと思っております。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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