坐禅感想文(あ行)

 
この投稿文章は「臨済宗妙心寺派正定寺の寺報」に掲載されたものです。

 赤尾清人さん

 

《拝啓新命さま》

拝啓厳寒の候とは申せ、急に三月か四月の陽気だと報道がなされるなど、その対応に戸惑を感じる

今日此頃ですが、新命様に相不変お勤めに、ご精進のことと大慶に存じます。

私もここ数年、お陰様を持ちまして先祖の眠られる貴寺の世話役としてつとめさせて戴くことに

最大の悦びを抱いていている次第であります。

私も去る昭和和五十六年二月七日(五六・二・二停年)から当時の父兄の懇請を受け少年野球

直川小クラブの監督をお受けし、以来五年数カ月三年生から六年生までの

少年野球の子供達と文字どおりベストを尽してまいりました。

この間種々のことを、子供達の為にと試み、実行して参いりましたが、その中でも新命さまの

ご指導により実施しました、「坐禅会」は正に特筆すべきものでした。

最初は果たしてこの子供達に出来るんだろうか?という危惧の念で一杯でしたが、

長時間にわたり「キチン」と出来、更に新命さんのご好意による「シピーイ」お茶(子供達の言)と

甘い一口の羊羹が、その後の直川小クラブが佐伯市、南部の雄としてその勇名を馳せるまで成長した、

大きい経験であり自信に繋がったものと確信しております。

私共大人としても、その成長に今更乍ら驚いている次第であります。

あれもこれもこのようにと新命様の考えておられる未来像のほんの一環とし実施させて戴いたことに感謝と

敬意を払わずにはいられません。

今後とも更に精進され深く、貴く、高い仏の道を極められ、名僧への道へ只管歩いて欲しいと念じ、

私も一世話役として更に努力をお誓い申し上げますと共に今後のご指導を希いつつ

 安藤延男さん

  

《我が家の位牌に感動》

「宝林精舎」の創刊号と第2号を拝読させて頂きました。

特に、第2号では、旧友の赤尾君や、一級上の林一人さんのお名前にも接することができ、

とても懐かしく恩いました。

ところで、私は、この四月二十六日で満六十歳の誕生日を迎えます。

人間だれしも、年をとると、幼かった日のことや、故郷の山川、自分を育んでくれた人々の面影などが、

むしょうに懐かしくなるものです。

私もご多分に漏れずで、最近は、折あることに帰郷することにしています。

この2月にも従兄の法事の日に、一泊ながら帰りました。

さて、私の近況をひとつ。それは、我が家の位牌のことを書いた「家族のルーツへの思い」という文章が、

「家族心理学講座」第一巻に載ったということです。

これを書くきっかけは、たまたま昭和六十年の盆に、赤木の我が家の仏壇にある

二十枚の板位牌を手にした時の激しい感動でした。

いちばん古いのは宝暦二年六月九日付のもので、格堂了外信士の戒名があります。

この年は、西暦一七五二年で、今から二三〇年ほど前ということになります。

実は、右の私の文章では、いちばん古いのを、寛永元年(一六二四)としていますが、

それは、私が寛政を寛永と読み違えていたためで、将来、機会があれば、必ず訂正しなければなりません。

何しろ、一三〇年も違うのですから。

ともあれ、我が家と正定寺の深い関わりをあらためて痛感させられたのも、この時でした。

申し上げるまでもなく、私の文章の原稿も、ご住職には二年ほど前に、御高覧いただいております。

取あえず、お礼と近況を申し上げます。

末筆ながら、広報の武田守様に感謝いたします。このような、広報紙は、地元在住の檀家

の皆様は勿論のこと、各地で暮らしている寺子たちに、

心のよりどころと安らぎをあたえ素晴らしい役割を果たすにちがいありません。

金子書房「講座・家族心理学Ⅰ」

 安藤照子さん

   

《走馬燈の如く》

日一日と深まりゆく秋と共に野山も紅葉の季節となりました。

しんみりと静まりかえる秋の夜は何かしら一抹の物淋しさを感じさせ、過ぎし昔に想を馳せる時、

自分が別世界にさそわれる様な気が致します。

さて、先日役員の方より正定寺についての感想又、思い出等投稿してほしいとのお話がありましたので、

とぎれとぎれ乍らも書いてみたいと思います。

お寺さんについての内容はよく解りませんが、今から五十八年前、小学校に入学して以来、

雨の日、も風の日も又、雪の降る日も休む事なく四キロの道程を友達と通い続けました。

そして上の地の高台に木の間がくれに見えるお寺を見ては、

ああこ、まで帰れば我が家は後半分だと足を早めたり、道草を喰ったりした事が今更乍ら走馬燈の如く

脳裏に浮んで来ます。

私達がまだ低学年の頃でした、正定寺で四月八日のお釈迦様の日には甘茶を作り、子供達が入物を

持って貰いに行った事をうすく覚えて居ります。

そしてお正月ともなれば、お寺に上げる薪を作らねばと父が木を割って、きれいに束にして

十五日正月頃でしたか、皆さんとそれぞれかるいで背負って行き、

温かい雑煮をごちそうになった事など、子供心にも聞いた記憶があります。又、正定寺頼母子もありました。

掛金五円で、当れば千円、当時は大金でした。私も何回かくじ引に行って、当ればよいがなあ~、

もし当ったらどうしようなど、若い頃の複雑な気持ちであったのを覚えて居ります。

それから裏山には八十八ヶ所のお大師様がありました。

思い思いの人があげたのでしょうか、険しい岩の上に石仏が祀られ、個人でお盆前には辺りの草を刈ったり、

お花を供えたり、友達と一緒に半日がかりで早く済して遊んで帰ったりした事も何回かありました。

そんな時がとても楽しかった思い出の一つです。

お参りする時は、あの苔むした石段を一つ一つふみしめ乍ら登り、鐘楼門の前に立ち、正面の本堂に向う時、

多くの先祖の霊が眠って居られるのだと思えば自然に頭の下る思いが致します。

現在は立派な道路並びに位牌堂又、別宅等新築され、そして正定寺は三世代揃って益々安泰、

檀家の一人として誇りに思って居ります。

私達も厳しい過去から現在平和な日々を過せるのも先祖のお陰だとつくぐ感じて居ります。

若い人にお願いする事は、昔も今も変りなく先祖を尊び、感謝の気持ちを忘れないでほしいと思います。

新 英子さん

 

《正定寺さんとの出逢い》

菩提寺のあります日出町を離れて十五年、狭い社宅へ仏壇をまつり、両親、子供、先祖の供養をしながら、

九州各地を転々とまわっております。

そして、一昨年二月佐伯へ。宗派の同じ正定寺さんにお願いをして、母の命日に当たる毎月二十七日、

お参りをしていただいております。

月一度、お経の声を耳にしますと、病弱だった舅のこと、明治気質の、しっかりした姑の事等々、

さまざまな出来事が、なつかしい想い出としてよみがえってきます。

心よく月参りを、お引き受け下さいました正定寺さんのおかげで、

名古屋と東京で生活している息子二人も、帰省のたびに、都会で味わえない自然を満喫させて

もらっております。夏、広い本堂で蝉の声を聞きながら、狭い下宿住いの次男一言

「この広い本堂の真ん中で、大の字になって昼寝をしたい」皆さんと、大笑いをしました。

秋、紅葉まっさかりの美しいお庭を、広々としたお部屋の中から、見せていただきました。

住宅難の時代、うらやましい限りです。

冬、除夜の鐘を、はじめて記帖して撞かせてもらいました。息子達は大都会の生活の中では考えられない

静寂の中、坂道を登り、かがり火に手をかざし、星空を眺めつつあたたかい甘酒をいただいて。

親子四人、この様な時間を持つことが出来たことを、とっても幸せに思いました。

元旦の朝、適齢期をむかえております長男と話しました。

「若い人に、先祖だ、仏壇だと言えば心の負担になると思うけれど、たのんでおくからね]と。

子供達と、このようなことを話せる様になったのも、お逢いするたびに、私達はもちろん、子供達とも、

心の通うお話をしていただいている、正定寺さんのおかげと、心から感謝致しております。

佐伯での生活があとどの位になるのかわかりませんが、

私達四人にとりまして想い出多い第二の故郷になりました。ありがとうございました。

安藤直木さん

  

《禅と碁》

人間は魂が内在するがそれは平均寿命八十才にて消滅してしまうなさけないものなり

生物すべて同然である。然しはやく死にたくはない。

死しても尚生き度いと思う、それが大かたの人の心であると思う、

故にあの世があり極楽浄土ありと一度思う。

信長は能が好きで本能寺の最期のその日の書に『能を舞い下天のうちをくらぶれば夢まぼろしの如くなり』

とつづみの音を聞きつ、舞いつづけた。

また、西行法師は、『願わくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ』と詩っている、

これ皆人生へのあこがれと思う。

故に人間は現世が幸福であり波風なしの毎日をねがっている。

然し、いろいろの苦労や煩脳が入ってくるために何か偉大なる力にすがり度いと思うのであり

之が神や仏のお力であると思うのである。

それで信仰念仏座禅となり不解ながら心経など唱読することになるのである。

浄土宗や日蓮宗はあの世ありと言っているので信者は

非常に勇敢であり命を主のため捨てて平気である。あの特攻隊も同然と思う。

不思議なことだ。人間は自分の力はしれている。

やはり社会人であり人に交わり少しでも尽くさねばならぬと思う。

然し尚、神仏に頼らねば何かものたりないと言う心境である。

趣味が一つでもある人は幸福である。無い人もあるが酒やショーチユーをたしなむ人もある。

これも趣味の一つと言えよう私はべつにとりえはないがヘボ碁が好きであり、

呆然の中に碁講をあさってみる。気の向くままが性に合っている。

月一度の会には同志の者が集る、然し負けるより勝つことが楽しみだ。

囲碁は坊さんが二、〇〇〇年前に中国より伝える。

二〇〇年前に時の大和朝廷の右大臣吉備の真備が唐の列船長で中国の長安に行き、

彼の地の仏教文化を持ち帰ったそして日本文化の下地を造った。

そのうちに囲碁も教って帰国した。

そして宮中に拡めて盛となった。同じ船に有名人の阿倍仲麻呂や僧玄坊(大臣)や

大安磨(古事記・日本書紀)など日本発展の源となった。

紀元九〇〇年には僧弁正が長安に行って囲碁の名人となった。

故に先づ坊さんが囲碁を輸入開始した。

以来京都の寂光院の日海と言う坊さんが第一代の本因坊となった。

寂光院には七つの塔頭がありその一つを本因坊と云い常に本因坊より強い人が出ていたので

其後最強の人を本因坊と言うことになり現在までつづいている。

大体お寺の和尚さんは碁が強い人が多く、直川でも元住職小原義弘氏、

専念寺は元住職平利剣氏、善正寺前々住職横川香氏と言うように経歴を持っています。

囲碁は宮中より一般社会に拡がり、国際的にも普及し、日本の国技となっています。

囲碁は人生行路には大変参考になると思います。最後に吾等の宝林山の弥栄をねがいます。

安藤静代 さん

 

《寶林精舎の発行楽しみに》

何かにつけ目まぐるしい今の世に、心のやすらぎを求める時、ふと「寶林精舎」の寺報綴りに目を向ける。

先祖、感謝心、心のぬくもりなどの言葉に自分を見いだす。

私事、祖々母が亡くなって此の方五十年間おだやかな日々を送っていましたが、

昨年の冬に父を、夏に母を失ない心の中に大きな穴をあけました。

老いた今、仏壇に手を合わせる時、在りし日の父母の面影が目に浮かび、いつまでも忘れる事が

できません。

返り見ますと、昭和五十八年一月十二日、突然母が病にたおれ、半身不ずいの身で、

寝たきり老人になって七年余り、それに一昨年の秋には、父も病床の身となったのです。

家事、野良仕事に追われながら二人の介護をした時、私は息つく間もない忙しい毎日が続き

時にはつらさに泣く夜もありました。

でも幸いにして健康に恵まれ、子としての務めを果たすことが出来たのも御仏さまの御護りの

たまものと感謝し、自分を立ち上がらせるのでした。

今日の私は、先祖の供養を怠る事なく、余生を平和に楽しく送られるよう願うものです。

安藤泰生さん

  

《友の急死に思う》

平成4年1月11日(火)18時58分、会社の同期生が急死した。

享年49才、うすうすと感じていた50才という年令をはっきりと

目の前に突きつけられた様な気がした。元気に昼休み工場の中を走っていたのに・・・・

1月9日(日)神戸市民マラソン駅伝の部に職場のBチームで出場した彼は、

アンカーで「タスキ」を受けた後、4分37秒走った所でクモ膜下出血をおこし、意識を失って倒れ

二日後の11日帰らぬ人となつてしまつたのである。

日曜日の朝、「行ってくるよ」と家族の人達ヘ手を振って出かけて行った彼が、

今日はもの云わぬ人となって帰ってこようとは。

残されたご家族の事を思うと、なぐさめの言葉もなくただ、

だまって仮通夜の御世話をするのが精一杯であつた。

お葬式の時、和尚様より、今日から四十九日(満中陰)迄の間に仏様の行き場所は決められる、

だから、この期間、身内の者は特に良い行ないをして、仏様が極楽浄土へ行ける様、

努めなければいけないと胎教を例に四十九日迄の過し方を説教された。

仏様があの世へ生れる大事な期間であるとも。

(仏壇は明るく、かおりの良い香を炊き、花と水を絶やさないこと)

思えば咋年末より、親しい人達の他界の知らせが続いて和尚様の説教を聞く機会が多く、

その度に御先祖様を始め親や人を大事にする事の大切さを諭され、

ただ漫然と過して来たこれまでの不義理を反省するばかりである。

あの日以来、これまでの朝夕の仏壇ヘのお務めも、心をこめて、真剣におこなう様になってきた。

さらに八月には姪の初盆がある。

これを機に、直川へ行って、御無沙汰ばかりしている正定寺へもおまいりをし、

ふるさとに残して、不義理ばかりのご先祖様のお墓の事を、閑栖和尚や、若和尚に相談し、

はっきりさせたいと思っている今日今頃である。

直川を離れて三十年が過ぎ、ふるさとで過した年数の二倍を越えた。

家も無くなったけど、お墓もあり、そしてなによりも、人々のやさしい心がある。

都会では忘れかけているやさしい心が直川にはある。

いつまでもそんな心のふるさとであってほしいと思い、皆様のご健康を念じつつ…・。

 安藤綾子さん

  

《在りし日の想い出》

梅雨の中休みも束の間、毎日うっとうしい此の頃、頭の中が空虚になりつつある私に、広報の原稿を出され、

驚きました。

再三ご辞退したのですが、断り切れずにペンを取る事にしました。

でも、何を書いてよいのか私には見当もつきません。想いつきのまま書かせて頂きます。

毎年皆様方の広報紙を拝読させて頂き、感激しています。

弥生より当家に嫁いで五十余年、戦前戦後の苦難を乗り越え、平和な時代を迎え、健康である事を

幸福に思っております。

私の生家は真宗でした。

子供の頃、よく祖母に連られ、夜道をお寺さんにお説教を聞きに通った事を想い出します。

当家に来て始めて般若心経と言う経文を、亡父が毎晩彿壇の前で唱えるのを聞いて知り、

私も覚えねばと真剣に練習し、やっと覚えました。

真宗と禅宗では、お盆の祭り方も異なり、当時は本当に大変だなと思いました。

私達が健康で不自由なく日々を過ごされるのもご先祖様のお蔭と感謝し、朝夕の礼拝は欠かしません。

それぞれの宿命を負って此の世に生まれます。宿命は避ける事は出来ないと思いますが、

辛い時には、何時もご先祖様がお守りしていると信じ努力します。

苦難の時の頼みでなく、普段からの心掛を大切にしたいものです。

私は趣味として六十の手習でお花を習い、以来「緑泉」にお花を活させてもらって十三年になります。

高齢化社会の現今、子々孫々の為にも社会に役立ち少しでも皆様の心の安らぎになればと

私も楽しく奉仕してます。

残り少ない余生を越味と奉仕をたのしみ乍ら、日々を有意義に送りたいと思います。

安藤愛子さん

 

《幸福とは》

昭和七年一月二十七日、内水の小野家父の位牌子として誕生。

すでに長男の兄は、嫁を迎える年齢で、六人兄弟でしかも私は、生まれて四ケ月日の小野家に来た

兄嫁の御苦労は大変な物でした。

内水の村は川原木小学校に通う事は誰もが知って居ます様に、道が遠く、どの様な事があっても、

姉は四時に起き弁当を作ってくれました。

暗い内に家を出て、暗くなって家に帰り、今と違って浮浪者が多くて恐ろしかった事、

又死人に出会う事さえ有ました。天気の良い日は草履、雨の時は跣で学校に通いました。

忘れる事の出来ない事は帰る途中、自分の家には沢山の子供が居ながら、私共の事を思って下さる、

岸の上の簀戸おきくさんは、内水の子供は学校が遠いのでひもじかろうと言って、

私共を追い掛けて里芋を食べさせて下さいました。

あの嬉しかった事は、今でも忘れる事は出来ません。

御陰様で無事成人し、安藤家に嫁ぎました。親の五十回忌を迎える者は、不幸な人と言われて居ますが、

私は四十九才で親の五十回忌を迎えましたが、そんな事はどこ吹く風かと思って居ました。

夫に恵まれ、子供に恵まれ、又二人の姑は何も手を取らずに夢の様に生涯を終りました。

此の世が楽しく幸福に暮して居ましたが、突然の不幸が訪れました。

平成四年四月五日、嫁陽子急死、あまりにも早い永遠の旅立ちに、谷底に突落とされた様な気持ちがしました。

此の悲しみや苦しみを決して他の人が味わってほならないと思います。

嫁の事は、考えてはいけないと自分に何時も言い聞かせて居ますが、眠って居る時だけで、頭から離れる事は

有ません。子供が不愍で成りませんが、泣いてばかりも居られません。

子供が成人するまでは、何が何でも頑張らねばと毎日が必死です。

六十才の坂を越え、若いお母さん達についてPTA活動に参加し、学校に行くのが楽しみに成りました。

私に取って、現在社会に生きる子供と勉強して行く事は、幸福かも知れません。

仏壇に向い、泣く事よりも明るい笑顔で手を合わせる方が何より供養と思います。

近頃は、正定寺さんにお参りする時は何時も自転車に乗り、風を切って行きます。

あの百段を一歩一歩踏みしめながら登下をするのが意味深く感じます。

両側の風景を見ながら詩でも読みたくなる様な気持ちです。

御先祖様のお陰様で生きて行く事の出来る今日を感謝して居ます。

正定寺報のお世話をして下さる人の御苦労には、本当に頭が下ります。

私如き者に原稿を書かせて頂きました事を、心から御礼を申し上げます。

 

『花夕べ帰らぬ母を待つ子かな。逝く母に残れる子らに花無情』

安藤博基さん

 

《私の第2人生と交通安全の願い》

私もとうとう、今年60才になりました。

そして23年間勤務して居た佐伯自動車学校を今年の3月、無事に定年退職することが出来ました。

勤務して居た23年間には、うれしかったこと、悲しかったこと、悔しかったことなどがありました。

それが走馬灯の様に思い出されます。中でも忘れられないのがA君のことです。

A君は、19才で、性格は実に温厚で常に笑顔で彼の顔は輝いて居ました。

その彼がある日、卒業後3ケ月ぶりに訪ねて来ました。

そしていろいろ世間話を楽しくして帰って行きましたが、帰り際に「僕は、まだ違反も事故して居ません。

これからも十分注意して運転しますから心配せんで下さい」と云って手を振りながら帰って行きました。

それから2日後のことです。出勤して事務室に顔を出すと、事務員から昨夜A君が交通事故で

亡くなったことを聞きました。

事故の状況は、酔っぱらいの運転の対向車がセンターラインを越えて来て正面衝突したとのこと。

A君は、何も悪いところはなかった…‥・。

2日前のあの笑顔‥・。「注意して運転するから心配せんで……」と云ったあの言葉など‥…・。

あまりの無情さに思わず合掌しました。

これは悲しい思い出の一例ですが、うれしかった思い出も沢山あります。

この様な多くの思い出を抱いて今年、無事定年退職した訳ですが、定年退職後は、ゆっくり休んで

好きな旅行でも……と云うのが私の前からの夢でしたが、

とにかく、無事に終わったとホッとしたところでした。

その私の家に先日、武田守さんが見えられて、会報誌「宝林精舎」に投稿する様依頼されました。

一体何を書いたらよいか分かりません。恥ずかしいのですが、私は、この歳になっても不心信で、

会報の趣旨から考えて、その内容にふさわしい原稿が書けませんが、お許しを戴いて

思いついたことを書いて見ます。

退職後のある日、私は日頃から兄事している先輩に退職の報告と、今後の生活などについて話をしたところ、

次のようなアドバイスをされました。

「社会には制度として定年制はある。しかし、これで人生が終わった訳ではあるまい。

あたかも余った人生のように思い、お迎えの来るまでただ、何となしに一日、一日をだらだら

過ごすべきではない。

社会の定年が来た時点で、もう一度自分のこれまでの生活を反省し、今の自分の健康状態などを考え、

まだ何が出来るか?、何をすべきか?を真剣に考えるべき、今がその時だと思う。

人間、この世に生かされた以上、この世に存在した証明を残すべき努力をするのが定年後に残された

日々である。その目標の一区切りとして第2定年を自分で作り頑張れ!」

云われて私は、A君のことを思い出しました。

こんな悲しい事故を0にすることは出来ないまでも、もっと減らすことが出来ないか?。

この悲願を目標にして、頑張るつもりで自動車学校の校長にお願いして復職させて戴きました。

第2定年は、65才に一応決めました。十一月から頑張ってます。

年間約千五百名の卒業生が巣立って行きます。

どうか、御仏のお力で、これらの方々が安全でありますようにお守り下さい。     

合掌

 安藤昭彦さん

  

《陸地峠(かちじとうげ)を訪ねて》

「兎追しかの山、こぶな釣りしかの川」故郷を離れ数十年になりました。

一昨年前位から、姉の計いで「宝林精舎」を、楽しく、又、懐かしく拝読させて頂いておりますが、

この度、寄稿の依頼があり、故郷を想い投稿させて頂きます。

子供の頃、陸地峠が「西南の役」での激戦地であった事は話に聞いたことがありました。

しかし、現地を訪ねたことはありませんでした。

最近、アマチユア無線をやつている仲間から、陸地峠が無線の電波を出すのに非常に良い条件の

場所であることを聞かされ、ふと昔のことを思い出し是非訪ねてみたくなつて来ました。

以来何度か訪ねるチャンスを伺っていましたが、土砂くずれ、工事中などで

なかなか実現出来ませんでした。

今年のゴールデンウィークでしたが、墓参りに帰省した時、とに角、行ける所までと思い、

赤木ダム方面より軽く偵察ぎみに移動し、途中上砂くずれの箇所もありましたが、

めざす峠に到着しました。

現地の案内板を読み、あらためて話に聞いていたし壮烈な戦い振りがしのばれます。

再度の訪れを決意し、宮崎県北川町より帰路につきました。

六月十一日、再度現地入りし、アマチュア無線の運用を試みましたら、

仲間より聞いた通り電波の飛び具合いは非常に良く、

全国各地の仲間と交信が出来ました。

「全国の八ムの皆さん、こちらはJG6WHY(小生の無線局名です)、

大分県直川村陸地峠より電波を出しています。お聞きの方ありましたら交信をお願いします。

交信状況)故郷の陸地峠よりの電波発信は小生の一つの夢でしたから、非常に感動でした。

直川村にも多数のアマチュア局がおられます。

是非、陸地峠よりのハム運用を試みては如何ですか、きっとハム仲間より喜ばれることうけあいです。

薩摩、官軍両軍の戦死者の慰霊碑・薩軍が利用した水汲場など、

案内板を読みながら当時を偲びました。

今の現地は、案内板とは裏腹に全く静かで平和そのもの、特に慰霊碑のある高台よりの

跳めは素晴しく、まさに360度のバノラマの絶景で、山の稜線は、

一幅の山水画を見る様で、時のたつのを忘れさせる眺望でした。

日頃から不信心な私には、「寶林精舎」にふさわしい内容の原稿は書けませんが、

歳と共に故郷ヘの想いは強く、今回の陵地を訪ねることとなつた次第です。

寺報を読む度に、檀家皆様の信仰心に敬服致します。

小生も遅ればせながら、少しでも生きている事に感謝し充実した日々を送りにいと思っています。

時には暇をつくって、豊嶽和尚さんの温かいお話を拝聴し命の洗濯をしたいと思っています。

安藤博基さん

 

《先祖に戴いた絆を大切にして行きたい》

私も今年で六十五歳になった。周りを見回れば我ら兄弟・姉妹達も、はや還暦を迎えたり、

迎えようとしている。

そしてそれぞれが自分の大事な家族を育んでいる。

この年齢になって、

私の頭にこびりついて離れない思い出がある。

それは三年前に此の世を去った亡母の口癖である。

亡母は、死の直前まで痴呆の病状が出ていたにも関わらず、絶えず口にしていたのが、

「**は、この頃電話も掛かって来んが、どこか身体でも悪いんじゃなかろうか?。

お願いじゃから、兄弟は何時までも仲良くしてくんなさいなあ」と、

なにか事ある毎に言っていた口癖である。

その時は「うるさいなあ」と思っていたけれども、亡母にしてみれば、自分が此の世から居なくなった後の

家族の安泰=絆=をしきりと心配していたのだろうと思う。今になって私は思う。

亡母のこの願いを一心に守ることは、我々を此の世に産み出してくれた亡母、いや、祖先へのご恩返しだと

思い、亡母の一周忌の法要の挨拶で一族の皆に亡母の願いを代弁して話しました。

その時、ある人が著した本で読んだ次の文の一節を思い出しました。

 

「ふと私は、私達の「絆」というものについて考えてみた。私が最初に考えたことは、矢張り家族のことだ。

世界最小の家族という単位。ここで「絆」というものを人は初めて体験する。

それは自分が努力して得たものではなく、生まれながらにして与えられた素晴らしいプレゼントである。

しかし、当り前過ぎてときどき忘れてしまいそうになる。

そんな「当たり前」が魅力の「絆」であり、我々が大事にして、けっして忘れてはならないものではなかろうか」と

一つの家族から分かれ、巣立って行った者達(兄弟)同志がその「絆」を堅く結び合い、

その上で自分の家族の「絆」を大切にすること。

これが亡母-先祖に対する一番の供養であり、次代の子孫を繁栄に導く必要な事だと私は今、

やっと気がついた。

そして、過去から延々と続くこの絆の中の輪の中に、今、身を置くことの出来た幸せを心から感謝している。

「安藤家一族の者が、無病息災で、幸せに暮らせますようにご先祖様、御守り下さい」。

合掌

安藤 廣美 さん

 

《新任のご挨拶》

 暑さ厳しきおり、檀信徒の皆様にはますますご健勝のこととお喜び申し上げます。

さて、このたび正定寺総代会におきまして総代を仰せつかり、四月一日から勤めさせていただく

ことになりました。

まだまだ若輩で未熟な者ではございますが、ご住職はもとより先輩総代の方や檀信徒の方々の

ご指導ご協力を仰ぎながら護持の務めを果たして参りたいと思いますので、

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

また、このたび退任されました二名の総代の方には、長年にわたりご苦労いただき

本当に有難うございました。今後ともご指導賜わりますようお願い申し上げます。

檀信徒総代 安藤 廣美さん

 

明けましておめでとうございます。旧年中は檀信徒のみなさまには晋山式をはじめ大変お世話になりました。

その晋山式を振り返り寄稿させていただきます。

 

安下所の看板が国道の入り口と安藤家の門の前の二か所に立ったのが昨年の10月13日で、

晋山式の41日前でした。

 

その日以降、近所の方や通行人の方から「安下所」って何の看板ですか?とよく聞かれました。

約30年に一度しか行われない行事ですから、ほとんどの方が聞きなれない言葉のようでした。

晋山式の10日前の11月13日には、「知客寮検単」と言う安下所の下見があり、瑞祥寺・龍護寺の和尚さんや

カメラマンの方が来て当日の手順を確認しました。

 

そして前日の23日には「新命和尚安下所諷経・茶礼習練」というリハーサルが行われ、茶礼の儀式には、

婦人部の大竹琴美部長さんはじめ広瀬芳子さん・柳井久美子さん・戸高恵理さんと柳井みはるさんが

お菓子、抹茶のたて方配り方が本番さながらに行われ、当日の準備も万端に整いました。

 

いよいよ晋山式の当日となり、一番心配された天気も曇り空ではありましたが雨の心配はなく、

8時前には稚児さんや保護者の方も続々集まり始め、稚児行列の出発地点では行列に参加する人たちで

大混雑の状態となっていました。

予定時刻の8時50分少し前に分衛所より新命和尚他七名の和尚さんと甲斐・小野総代さんが到着し、

ここで新命和尚さんは雲水衣から晋山式様の金襴袈裟へ着替えられ総代4名も羽織袴・夫人も色留袖の

正装でお寺よりの使者を迎える準備が整いました。

 

9時前から「安藤家先祖諷経大悲呪回向」のお経、続いて使者の龍護寺和尚・瑞祥寺和尚さんより

茶礼の口上があり全員で抹茶をいただき、いよいよ晋山稚児行列の出立です。

 

行列は、新命和尚さんを主役に稚児55名とその保護者、和尚様・提灯持ち・大傘持ち・籠担ぎ・総代・役員を

含めて総勢170名以上で、先頭から80m以上の大行列となりました。

特に、籠を担いだのは新命和尚さんの同級生の方たちで、お祝いに駆けつけてくれたそうです。

 

行列が整うと、先頭で裃�姿の植田純市世話人が

出立口上「ただいまより正定寺第二十四世新命和尚さま晋山稚児行列の出立でございます」を

声高らかに読み上げ、出立の合図の打ち上げ花火が天高くとどろき、先頭の柝�(拍子木)の音に合わせて

稚児行列がゆっくりと厳かに進んでいきました。

行列は安下所から振興局駐車場までの約300メートルで行われましたが、久留須町内の沿道には、

この晋山式稚児行列を見ようと大勢の見物客がいっぱいで、かわいらしい稚児衣装で着飾った、

孫や子供の晴れ姿をカメラで撮影する光景があちらこちらで見られました。

 

約30分の稚児行列も振興局まで無事到着し終了いたしました。

安下所での儀式や稚児行列も滞りなく終了し、お世話をいただいた関係各位に心よりお礼を申し上げます。

花園会女性部 安藤 いつ子さん

 

安下所儀式を終えられて、新命和尚様外七名の和尚様と総代の方々が、調経大悲呪回向が営まれ

皆様御一緒に御茶を召され、厳粛な雰囲気の中に安らぎを感じました。

 

和尚様には、衣を緩められひとときを御過ごす様子が見受けられました。

その後花火の合図と共に茶礼所を出発し小雨そぼ降る道を晋山行列は新命和尚様をお迎えする境内参道へと

御進まれました。尊きこの儀式に身を寄させていただき御礼もうしあげます。

伊東好文さん

  

《母の念仏》

梅雨期と云うに真夏を思わせる暑さに、夕ともなれば谷間に蝉の声を聞く。

此こまで来たか地球の温暖化、嘘であって欲しいが連想せざるを得ない今日此の頃、

武田さんの熱意に絆され、自信の無いまま筆をとらせていただきます。

私の生まれは旧直見村、菩提寺は専念寺。

大正も終りに近い四月半ば、誕生日ともなれば母を想う。苛酷なまでに体力を消耗する百姓のドラマが

始まらんとする季節であった。

平成の世から想像するには余りにも落差の大きい時代であった。

束の間の疲れを癒す眠りの前に唱えていた「南無阿弥陀仏」の母の念仏は今にして耳に残る。

お寺様との関わりを教えてくれたのも母であった。其の母も今他界して久しい。

やがて戦争が勃発、仏具までも人殺しの道具と化す。

何をか云わんや結果は敗戦、己は遠く黒海沿岸グルジャ共和国へ抑留の身となる。

トルコ国境二十キロ、遥か東欧の地である。自由無き銃口と限界無きノルマに地を這う。

次第に望郷の念も消え失せていく。

奇跡にも二年後、日本の土を踏み、戦争と抑留の青春時代に終止符を打つ。

昭和二十四年、妻と出会い伊東家に入籍と同時、正定寺檀信徒の一人に加えさせて戴く。

祖母、父母を亡くし、年と共に深い関わりをもつ様になる。

特に多くの世話人さん方ととの触合いの中で建立した位牌堂や酒井僧師の堂師浄光庵への招致は、

私の人生の中で、最も充実した人間形成の一過程として熟年の想い出に残る出来事であった。

気付いて見ると、早や人生の峠は過ぎ、時間的立場で自己を回想すると早や向老の門に立っている。

人様々人生経験を経て同じ人生ドラマは一つも無いが、人生の終末に来る老いと死は、

皆共通の運命で終る。

今此々に人生の節目の一つとして来道を回想し、行く道に悔い無きを誓うのも無駄な事ではなかろうと、

瞑想しつつ、御先祖が残された信仰の場と文化遺産に感謝の祈りを捧げ、筆を置きます。

 

子供叱るな来た道だもの 年寄り嗤うな行く道だもの

池部尊則さん

《京都本山参り》

ぼくは、最初は、仏教なんて、ぜんぜんきょうみがありませんでした。

仏教にきょうみを持ち始めたのは三年前、ぼくが祖母の家に泊った時の事でした。

ぼくが仏だんの前で遊んでいたら、祖母が仏だんの前に座ってお経を読み始めました。

その時、お経を聞いていたぼくは、かってに、おぼえてしまいました。

それ以来、ぼくは、仏教にきょうみをもち、来年もあると思う仏教講座に、行くきっかけともなりました。

その仏教講座に行ったおかげで、心もおちつくようになってきました。

ある日、ぼくはいつものように、仏教講座に行くと、京都の本山参りの話が出てきました。

ぼくはそれを聞いて、これは、チャンスだと思いました。

そこで、しっもんコーナーの時に「子供はいってもいいですかと聞いたら

「いいですよ」といったので、ぼくも行くことになりました。

京都の本山参りはとても楽しかったです。

まず東大寺、清水寺、妙心寺、長谷寺といろいろいきましたが、やっぱり一番は東大寺でした。

あの大仏殿や中の大仏さまは、とても口ではいい表せないほど、すぼらしいものでした。

東大寺の鹿に小指をかまれましたがぜんぜんいたくありませんでした。

法隆寺にもいって五重の塔を見たときに「これが世界最古の木造建築物か」と思って写真をとりました。

法隆寺にあるものは古いものばかりで、仁王さまや美術館の物にも心をひかれてしまいました。

清水寺も仁王さまがとてもすぼらしかったです。

どのようにすぼらしいかといいますと、古びた色とまわりのけしきがよく調和して、とても芸術的だなあと

思いました。ぼくにとって、お釈迦さまは、太陽のような存在です。

ほかの人はどうかわかりませんが、ぼくの心をどこかで支えているとても尊いお方というふうに

ぼくは考えています。

五十川律子さん

 

《三十三回忌》

新緑の候皆々棟には御健勝のこととお慶び申し上げます。

其の節はさわやかな五月晴の中、吉田家の三十三回忌法要にお参り出来ました事を深く感謝して

お礼申し上げます。

以前より十号線を通るたびそちらの方を見上げて居ました。これも御縁だったと手を合せました。

吉田のお母さんよりお話は伺っていました。

墓地のこと法要のこと等正定寺の皆様方のお力添えのお陰と心より感謝致しております

吉田のお母さんにはたっての念願だった事が現実になり、計り知れない思いがあったでしょう。

一人でこの日の為にと頑張ってこられたので、私達も一緒に感動させられ涙しました。

ただ今思っても胸がいっぱいになります。

書面では十分な言葉がみつかりませんが心よりありがとうございました。

お母さんにはこれから先はゆっくりとした時をと思っています。これからは孫の成長が楽しみの様子です。

植田沙和さん・祥嗣さん・崇敬さん

 

《廣じいちゃんが死んだ》

「ヒロじいちゃんが死んだ、私たちの大好きだったヒロじいちゃんが死んだ。」

それは2月21日の朝のことだった。前の晩、病院で付き添っていたお父さんから一本の電話がかかった。

『じいちゃんが急変した、大至急病院へ来い。』病院へ向かう車の中、ポツリと崇敬が言った。

『じいちゃん死ぬん。』私は何も答えることが出来なかった。病院に着き急いで病室へ入ると、

『ハァーハァー』と苦しそうに肩で息をしているじいちゃんの姿が目に飛び込んできた。

私はじいちゃんの手を握り、背中をさすった。『大丈夫、頑張ってな。』と声をかけると息をするのもやっとなのに

『ありがとな、沙和も高校に合格するよう頑張って勉強しいよ。』私は涙があふれ『うん』とうなずくのが

精一杯だった。私はいつもの『沙和、ようきたのうー』と少し照れくさそうに話す優しいじいちゃんの

笑顔が大好きだった。

そして翌朝五時過ぎ再び電話がなった。ヒロじいちゃんとの思いでは、いっぱいありすぎて書ききれませんが、

ひとつだけ書くとすればやっぱり最後の会話となった最後の約束。

『沙和、高校に合格しいよ』『うん…』私は今もこの言葉のやりとりを忘れていません。

「絶対に希望の高校に合格して笑顔でじいちゃんに報告してやる。」と思っています。

じいちゃんがあきらめずに最後まで病気と闘ったように、私も今高校受験に向かって、勉強と戦っています。

じいちゃんは病気に負けて天国に行ったけど、私は受験に勝って希望校に笑顔で行きたい。

だから天国にいるじいちゃん、私を見守ってください。そしてじいちゃんお盆には、誰よりも早く家に帰ってきてね。

みんな待ってるからね。

古矢廣志から「玄黙院春月廣照居士」へ名前がかわったね。

和尚さんが言ってたよ。意味は【春の月のように黙って静かに明るく照らしてくれる。】という意味が

込められているらしいよ。

じいちゃん、これからもわたしたちを静かに明るく照らして見守ってくださいね。

改めて85年間おつかれ様でした。そしてたくさんの思い出をありがとうございました。

じいちゃん孝行が、あまりできなくて、ごめんね…やすらかに…。

 小野春雄さん

  

《剣禅一如》

私が剣道を習い始めてから十年経ちました。習い始めた時が五十六才でしたので、

今更乍らよくもやったものだと思っています。

戦前戦中、旧制中学以上の学校で、武道が正課としてとり入れられ、全員剣道か柔道かを

週二時間やらねばならなかったので、その時に習った基本が四十数年後の再開に役立ったことは否めません。

当時すでに郡内の各町村にそれぞれ剣道クラブがありましたが、直川村だけ未結成でした。

たまたまその年に社会教育主事として赤松先生(米水津村出身・現佐伯市ラグビーチーム監督、剣道三段)

が着任され、先生の肝入りで、直川村剣道クラブが誕生し、私もその末席に名を連ねたという次第であります。

その後一般会員の数も増え、少年剣道クラブも結成され、年とともに内容も充実して参りました。

この十年をふり返って、剣道を始めてから心身共に健康を保つことが出来ましたし、

又剣道のとりもつ縁で、多くの先達の方々から年齢の隔たりを超えて、親しく指導をして頂いていることを

何よりも嬉しく感じております。

正走寺と関係の深い、同じ臨済宗妙心寺派に属する因尾・瑞祥寺の中山先生、海崎戸穴願成寺龍淵先生、

それに今は、剣道界の第一線から引退されております切畑洞明寺の清松先生等から温かい御指導を

頂いております。

又私の剣道の先生であります直心館々長の広瀬先生(広瀬整形院長、剣道七段)は前記願成寺の

総代をされているということですので、形の上で(人間関係)剣祥一如のにおいが漂ってくるのを感じます。

宮本武蔵は晩年肥後の領主細川侯に招かれ、そこで六十年の生涯を閉じたといわれます。

その著書五輪書の冒頭に、

「兵法の道、二天一流と号、数年鍛錬之事、始而書物に顕さんと思、時寛永二十年十月上旬の此、

九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかい、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信。

年つもって六十」と書かれております。

この他に武蔵が恐らくは座右の銘として自らを戒めたものと思われるものに「独行道」という十九項目に及ぶ

箇条書きがあります。

何れも私達の肺腑をつく貴重な言葉ばかりでありますが、その中に「仏神は尊し仏神をたのまず」という

一条があります。生涯に六十度の真剣勝負をして一度も負けたことのなかった武蔵にとって、

勝負の時恃みになるのは自分自身の実カ=綜合的、人間的=ではなかったのではないかと思います。

戦争中、その日その日が最後であるという緊張した飛行訓練=眼に見えるものは空と海だけという

孤独感=の体験から、そして又十年前から習い始めた剣道を通じて、この言葉は万鈞の重みを

以て私の胸に迫ります。信仰の真髄もこゝにあると思うこの頃でもあります。

ところで、正定寺の床の間に久しく掲げられていた書に「直指人心」という旬がありました。

その意味の説明は改めて和尚さんにお願いすること、しますが、

前記宮本武蔵の書にも「直指人心」とあるのを写真で見たことがあります。

広瀬道場「直心館」の名前は、願成寺先代和尚さんの命名によるものと聞きました。

何か通ずるものを感じます。剣道の稽古も始めは、竹刀を振り回すことでありましたが、

年齢を重ねて身体の動きが鈍るに従い、次第に精神的な修業に入って行くものと思われます。

「不動心」「平常心」「剣心一体」などの言葉の内容が少しつつ分るような気がします。

「剣禅一如」とは剣道を学ぶ者の最終の目標であると思います。

今その入口に立って、この小文で掲げた先達の方々を始めとして剣道を愛好する人達の指導によって、

「剣禅一如」の世界に分け入りたいものだと考えております。

 

頼(たのむ)=味方としてたよりにする。

恃(たのむ)=手にものをもっているように心のたよりにすること。

小野文永さん

  

《如月瞑想・・・心豊かに》

四六〇有余年の貴重な歴史と由緒ある「寶林山正定禅寺」の益々のご隆昌を祈念いたしますとともに、

「お盆参り」など、遠隔の檀信徒に至るまでの気配りに対し心からお礼を申しあげます。

さて、自然界では、人の世の喧噪をよそに、昨日は「春一番」今日は「黄砂」等々…寒暖を繰り返し乍ら

万物蘇生の早春に向けての力強い営みが着実に進行しています。

このような如月中旬、懐旧の想いを深くする寺報「寶林精舎」を再読し乍らの「雑感」を綴らせていただきます。

◇便利で快適な暮らし・・・

我が国では未曾有の敗戦という一大困難を民族の英知と不断の努力とにより見事克服して、

今や先進国の一員として世界の平和と安定の新しい秩序づくりに積極的な貢献をするまでに

すぼらしい発展を遂げてまいりました。

科学技術の進歩は、「衣・食・住」はもとより、教育、文化、交通などすべての面で私等が夢想だに

しなかった便利で快適な生活を実現しています。

電話、カラーテレビは必需品化し、自家用乗用車の保有率がふる里でも八〇パーセントを超える等……

また、ベルリンの壁崩壊が瞬時にしてわが家の茶の間のニュースとなるなど情報の共有は

地球規模となっております。

人類の知恵は、宇宙とのかかわり合いまで飛躍する等今後も科学技術の進歩向上を目ざして

挑戦が続くことでしょう。

◇気にかかること……

このように幸せを満喫させてくれる世の中にもかかわらず、それこそ贅沢や、遊びのために多大の物資や、

エネルギーが消費されている現実・‥

又、好ましくないと思われる書籍や映像文化の氾濫、恐喝ひったくり事件を起こした「ドラクエ」フイバー等

子供にかかわる問題…暗い社会事象に接する度に「このままでよいのか…」との「不安」にかられる。

「衣食足りて栄辱を知る」との諺がありますが、衣は、「補修(ふせ)をして着る」から「使い捨て」に、

食は、「盆・正月・お祭りの楽しい銀飯」から「世はまさに飽食の時代」に等180度変化しています。

物を大切にする心・感謝の心は、生活を通して体得してきたものでありますが、

物の豊かな現在生活の中で育まれるであろうか、教育や、社会生活の中に何か

「欠落」しているのではないかと感じています。昭和一桁生れの取り越し苦労でしょうか。

◇心豊かに……

話は変りますが、私のふる里定期便は、年四回(春秋のお被岸・お盆・年末又は年始)で、

お墓の清掃と菩提寺への参詣が主な行事です。わが家の墓地は、上ノ地台地にあります。

「親の行動」の継承であった墓参も、近年は自分乍ら大きな変化を感じています。

墓地の清掃、墓地に続く急傾斜の小路の往復、又菩提寺の参詣は、先祖をうやまい、亡き人々を偲ぶとともに、

今日生きている「自分」を見つめ反省する絶好の機会となっています。

できるだけ家族を同道するよう心掛け、時には途中の草原で全身に日光を浴びて、

手づくりの昼食など実に楽しい。従前にない心のゆとり、心の豊かさを覚えています。

仏教の基本にある考え方は人間の頭の働きである「知恵」と、心のやさしさである「慈悲」この二つを

寄せあって生きよ……と云うことであり、

今後一層物も豊か、心も豊かな生活づくり、社会づくりを目ざしてわが人生微力乍ら尽して参りたいと考えております。

小野永生さん

  

《除夜の鐘》

毎年、年末の恒例になってるのが、お寺の鐘つきである。

家族で一年間の反省と、来る年も又大過なくすごせるようにとの願いを込めて、

腹にしみわたるような音色を楽しむ。それと時を合わせたかの如く、お寺の下の国道を、鐘の音にも負けない

程の轟音で、走り回る暴走族である。 

それを遠巻きに眺めながら、激しい爆発音と、無茶苦茶な走り方に、興奮を覚えながらも

「あの若者は一体何を考えてるんだろう」と思ったりする。やはりそこには時代を感ずるものがある。

今の若者は、と言うようになったら歳をとった証拠だそうだ。

「人間は平等である」とは、有名な言葉である。

然しながら、人間社会では不平等が多すぎるのも、これまた現実である。

ところが皆んな毎年、歳をとる事だけは、嫌やなことでも平等になっている。

誕生日で迎える歳より、お寺へお参りの後、新年を迎える新鮮さが何んとも気持ちよい。

四十路を過ぎて、父母が老い、自分の人生も半ばにさしかかった今、

人生の坂道に腰をおろして、折り返しにかかった今からの人生設計を、じっくり考えてみたいと思う。

あと十日ちょっとで又、鐘の音が聞ける。早いものである。

小野美智治さん

 

《夢の中の夢》

初雪の便りも聞こえてくる今日この頃となりましたが、

正定寺檀家の皆様方にはお変わりなくお過ごしの ことと思います。

今回、広報の武田さんより原稿を依頼され、ペンを持ちました。

私は二十歳頃、扁桃腺 の手術を受ける際、麻酔ショックで二日間程昏睡状態になりました。

そしてそれはそれは、深い薄暗い谷 底を、私は歩いていました。

しかし、怖いとか不安など全くありませんでした。どちらかと言うと、今自分が 歩んでいる方向に

早く行きたいと、気が焦っているようでもありました。

それというのも、私が歩んでいる 方向は広々とし、とても明るくて、いろんな花が咲き乱れ、

鳥たちのさえずる声さえ聞こえ、この世のもの ではない雰囲気を醸し出していました。

もうすぐこの天井も見えない薄暗い谷底から、抜け出ることができるんだと喜んでいます。

すると、谷の上の方角から何やら誰かを呼んでいるような微かな声がします。

耳を澄ませて聴くと、私を呼んでいるような気がします。

何で呼ぶのか、早く行きたいのに、母も妹も弟の声 も、親戚の者の声が次第に大きくなり、

こんなに険しい崖をどうして上っていくんだと思うようにはなったも のの、

体がきつくてたまらない、どうしょうもなくうずくまっていると、上から大きな声で呼ぶ、

このような事 が何回も何回も繰り返され、目が覚めたらベッドの周囲に先程前まで

私を呼んでいた者の顔が並んでい た。自分の生命が危ぶまれていたとは全く知りませんでした。

後日考えたら、歩んで行こうとした方向は、 死後の世界天国ではなかっただろうか、

もしあのように美しくて楽しい世界であるならば、昨年亡くなった 息子も

天国で楽しく過ごさせて頂きたいと願っています。

私達を一日でも早く立ち直らせる為、慰めの言葉や励ましの言葉を頂きました和尚さん奥さん

大変ありがとうございました。

息子を失った悲しさ、辛さを書き表しようがなく、私が体験したとりとめのない文となりましたが、

皆様方のご健康とご多幸をお祈り申 し上げます。

小野素行さん

 

《知に働けば・・》

御門徒の皆様、お変わりございませんか。毎回の寺報を拝見するのを楽しみにしています。

私は還歴も過ぎましたが、若い人達と元気に会社勤めです。

若い頃は信仰する心の余裕もなく、特別の関心を持っていませんでしたが、

最近は健康と深い関わりがある様に思えます。

漱石は、「知に働けば、角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ…。」

「人の世を作ったものは、向う三軒両隣りに居る人である」。

唯の人が作った世の中であるから、精神的にこだわりや価値観に束縛されては、住み難くなり、

引っ越ししかあるまいと云っております。

この様な心境になるためには、俗事へのこだわりを棚上げにして、

どうでもいい様な事に執着しない心であります。

人々は日常生活では程度の差はあれ、防衛本能を働かせるから、行き詰ってしまうのであり、

こんな時には「矢でも鉄砲でも持ってこい……」と開き直って寝ころんではどうであろうか。

今まで目の前の事しか考えなかった自分が寝ころんだ事で大空が開けて雄大な理想が拓けてゆくのです。

不安や怒りは、下痢や動悸が激しくなりますが、人間が一番安定している状態は

仏様の様に両手を合わせる姿勢で、手を摺り合せ温くなって自分の病んでいる所に当てれば

病気は治ってゆきます。

私達の体は、病気に対して自分で治してゆく力があり、抵抗力があると講演会で聞いたことがあります。

また、釈迦は樹下で開悟された、と伝えられているが、薬とは木の下で楽しむ、

〈木の下には酸素が多く、風雨を避ける)休憩とは人が木に近寄り、舌を上にして息をすると書かれております。

聖者でなくても、江戸時代には神仏を前に昼夜を徹してお百度参りの難行を

自らに課し、苦厄を払う習慣があったそれは愛する者の危険に、自分の身を投げうって神仏にすがる優しさと、

自己放棄から出たものであり、この心は現代に通じるものがあります。

然し、現代人は多忙で、自己中心であり、自分が何のために生きているかを見失っているのです。

仏教を少しでも信仰することによって、生き方も顔つきも変わり、

私達の生活を浄化させ、精神的にも健全な歩みが出来るものと確信しております。

小野広太さん

 

《住職のこと》

あれはいつごろだったか、住職が朝靄の中、久留須の通りをあじろ笠に草鞋を履いて、托鉢している

姿を見て俗世間を超越した美を感じたことがありました。

小学校の頃、よく彼に「おまえの道は決まっているから可哀想だな」と言っていました。

他の同級生も気持ちは同じだったと思います。子ども心にお坊さんになることが、

ひどく苦痛に思えたからです。

今考えるとずいぶんひどい事を言ったもんだと、彼自身どんな気持ちで聴いていたのだろうかと

反省の気持ちでいっぱいです。

もちろん、彼自信もっと違う道に進みたかった気持ちがあったかもしれない。

しかし、今こうして正定寺の住職としてりっぱに務めている姿を見ると、感慨深いものがあります。

彼の学校時代は、お坊さんタイプとはまるっきりかけ離れたものがありました。

決して悪い意味ではなく、小原と云えば、乗りの良さは天下一品でした。

そんなシャイなところがみんなに好かれ特に女の子には大変もてました。

クラブ活動は野球部でレフトを守っていました。私がキャッチャーをしていましたが、レフトからの

返球は実にコントロールのいい球が私のミットに返ってきていました。

彼の非凡な能力を感じるが故に、いろいろな可能性があるような気がします。

お坊さんになることが可愛相だと思ったのかも知れません。

しかし、この天性の明るさ、乗りの良さ、独創的な企画、行動力が住職として十分生かされているようです。

昔、西洋でマルチン・ルターという若い僧侶が、既成の制度に反発して宗教革命を行こないましたが、

彼にも日本のマルチン小原として、辛い茨の道を乗り越えていただきたいと思います。

小野サツキさん

 

《大授戒会・稚児の思い出》

私は大正十年に大字仁田原字椛ケ原に生れ育ちました。

家は先祖代々から正定寺さんの門徒で、小さい頃から祖母に連れられてお寺さんによくお参りをしました。

昔は、今の様に公民館などありませんでしたので、なんでも集会事のある場合は、直ぐお寺さんをお借りして

使用して居りました。

お盆やお彼岸には必ず門徒の皆さん方がお参りして居りました。

私が今一番思い出として心に残っている事は、七才の時お寺さんで大授戒が一週間程続いて行われました

其の時に、稚児として参加させて戴きました事です。

私の家からお寺さん迄は約二キロ位離れておりますが、昔の事ですから、

今の様に乗物等ありませんでしたので、歩いて行き高い右投の所は祖母に手を引かれ乍ら上りました。

稚児は地元仁田原地区から男子二名女子四名。上直見地区から男子一名女子一名で

合計八名だったと思います。

着付けや化粧など用意して下さった人は、佐伯の方から専門の人がお出になりました。

何しろ子供の時の事ですから、泣けばおしろいが落ちるし食べれば口紅が落ちるし、

かぶっている天蓋は重いし、少し窮屈だったが、がまんしていました。

他寺から沢山の和尚さん方がお出でになり盛大に行われました事を覚えています。

お経が始まり本堂の前の大広間を和尚さん方の間に稚児の私達が交ってお経を唱え乍ら回りました。

其の時は何んの事やらわからずについて回っただけですが、大人になって始めて

仏法の有難さを知り、私は子供の時から仏縁に恵まれている事を有難く思っています。

今から六十数年前の事ですから写真など写す人も田舎では居りませんでした。

唯一つ、記念として残っている物は、稚児の時かぶった天蓋だけです。

今は、時々出して手入れをし乍ら当時の事を思い浮べています。

何時の間にか歳月は流れ、古稀の坂を越えてしまいました。ご本山妙心寺様にもお参り致しました。

又、佐伯四国八十八ヶ所も二回巡拝致しまして、家内安全を祈願しました。

私がこうして今日迄無事に来られたのも、みんな御仏様の御加護に依るものと有難く感謝致しています。

近年では正月二十日に行われる大般若法要も門徒の方々が沢山お参りする様になり盛大に行われます事は

本当に喜ばしい事であります。

此の正定寺さんは妙心寺派で由緒あるお寺さんです。

私は、此の正定寺さんの門徒である事を誇りに思っています。

これからも、門徒の皆様方と共に、此の正定寺さんをお守りして行きたいと思っています。

 小田木布子さん

 

《こころ》

今日もまた電車にゆられながら、窓の外に流れ行く風景を、私はぼんやりと見ています。

しかし、私の心はそれらを見てはいないのです。ただ体を目的地へと選ばせているにすぎません。

一年前までほ朝早くから、帰りも暗くなるまで二十四年間同じ会社に勤めていました。

つらいこともありましたが、楽しいことも多く、やり甲斐のある仕事でした。

皆で協力してでき上がった船が五色のテープをなびかせながら進水して行く姿は、逢った人にしか味わえない

感動があり忘れられません。

そんな私が昨年は.二度も入院、そして腰椎の固定手術をして家族はもちろん廻りの方々にもご迷惑を

かけてしまいました。

しかし、入院中に心の糧として得るものも多くありました。

手術後三週間は起き上がることができず、眠れない夜はご先祖様にすがり心の中で般若い心経を

あげていました。

いつしか心妥らぎ、夢の中へと入って行くことができるのです。

病気も快方に向い好きな本を読むことができるようになり、その一冊に「寂聴般若経」がありました。

全部を理解することはとてもでさませんが、健康で働ける喜び、家族愛、いたわりの心など私なりに得ることが

できました。

また、これらのことを本当の意味で体得させてくれたのは一人の心優しい看護婦さんとの出合いからでした。

この方は少し不自由な足を引きながらの勤めでしたが、言葉だけでなく体と心で接してくれました。

「小田木さん、さあ体をふきましょう」と言う言葉にためらう私に、「私は仕事なの。遠慮しないで。

動けないときはみんな同じですよ。」そういって、すまないと思う私のい心をどんなに軽くしてくれた

ことかしれません。

また、「洗濯機があけば入れますから。」と洗濯まで何度かしていただきました。

とかくふさぎ込みがちな患者にユーモアをまじえ心をほころばせる、そのちょっとした

心くばりは、仕事とはいえなかなかできないことではないでしょうか。

私もこの方のようになれたらと思ったことでした。今は週一回のリハビリに通っています。

元気で過ごした日々を思い出しながら、一日も早く孫の守りができるように頑張ってみようと思っています。

この頃、どうやら杖を離すことができましたのもご先祖様のご加護のおかげと朝夕仏前に手を合わせています。

どこからともなく走って来て無心にあどけない手を合わせる二歳の孫娘の時代にも

祖先に感謝し、そして人のいたみのわかる人になってほしいと願うのです。

「大分、大分」というアナウンスの声で、我にかえり私は席を立ちました。

小田木聖孝さん

 

《一期一会の心で・・》

平成六年四月から正定寺花園会の細川内地区せ世話人となって、

地区のお世話をさせていただくことになりました。

また合計を担当することになリ自分のような者でつとまるのかと、不安な気持ちもありましたが引き受ける

ことになりました。

聞く所によると、以前私の祖父もやはり正定寺の合計をしていたということですが、

何しろ私は日頃からお寺と疎遠になっていましたので、最初は少々戸惑いましたが、

総代さん方や御住職の暖かいお導きをいただきながら、なんとかつとめさせていただいています。

この仕事をやるからには少しでも皆様のお役に立ちたいと思い頑張っています。

ところで人は皆この世に生を受けてから、一生のうちに一体どれくらいの人と出合うのでしょうか。

千利休の弟子の山上宗二の著「茶湯者覚悟十体」の中に「抑茶湯の交会は

「一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交流するとも今白の会に再びかえらざる事を思えば

実に我一世一度の会なり」という言葉があります。

これは人の出会いは、やり直しのきかない一生に一度のものであるから、その貴重な時間を後悔の残らない、

充実したものにしなければならないという意味のようです。現在は、まさに目まぐるしい変化の時代です。

十年一昔という言葉がありますが、現在には当てはまらない気がします。

毎日毎日が新しい事・人との出会いの連続です。

一日一日を大切にし、そのなかでの出会いもまた大切にしながら、過ごしたいものです。

そして、今自分がここにあることを、御先祖様に感謝し、手を合わせる心のゆとりも持ち続けていきたいと

思います。

岡部仁美さん

 

《おじいちゃん》

学校から帰ってくると「おかえり。」と、おじいちゃんと、おばあちゃんの声。

おじいちゃんはテレビの前に座って、笑っていた。

おじいちゃんは、詩吟が上手。詩吟の大会に行ったとき、「よく来たねぇ。ありがとう。」と何度も頭を

なでてくれた。

暑い運動会、おじいちゃんは来てくれた。寒い空手の大会、おじいちゃんは来てくれた。

ピアノの発表会もそうだった。

明日、学校から帰ると「おかえり」の声は、おばあちゃんだけ。

テレビの前に座って笑っているおじいちゃんはいない。

天国にいったおじいちゃん。いっぱいかわいがってくれて、ありがとう。

六月十三日のおそう式で、私はおじいちゃんにこの別れの言葉をいいました。

五年前に病気してから、おじいちゃんは杵築の家と病院と大分の私たちの家を行ったり来たりしていました。

何度も、なんども手術したり、注射をしたり、お薬もいろいろ飲んでいました。

私は少しも気がつかなかったけれど、おじいちゃんの病気との戦いは、とても苦しく、きつい戦い

だったのではないかと思います。

でも、私たちにはいつもやさしく声をかけてくれました。

今、私が考えていることは、自分がつらいときでも人にやさしくなるにはどうしたらいいかと、いうことです。

おじいちゃんがいなくなって、ときどきそんなことを思いながら、以前とかわらず学校に行ったり、

友達と遊んでいます。

小野由貴さん

 

《おばあちゃんとの思い出》

五月十日に、おばあちゃんが亡くなったと聞かされました。

とつぜんのことだったので、びっくりしてとても悲しかったです。

数日前に会いに行ったときは、まだ元気だったのにこんなに急に亡くなるなんて思いませんでした。

その日の夜にお通夜がありました。

最後だからと言ってお父さんが、おばあちゃんを見せてくれました。

やさしそうな顔でした。おじさんやおばさんたちもおばあちゃんを見て悲しそうでした。

それからおそう式がありました。たくさんの人がおばあちゃんのお別れに来ていました。

お経がすごかったです。最後がちょっとびっくりしました。

おそう式がおわって、おばあちゃんのことを思い出しました。

一番思い出に残ったことは、お正月や遊びに行ったときにおばあちゃんと弟といっしょにやったカルタです。

おばあちゃんが、読み札を読んでくれて私と弟でカル夕を取りました。

いろはカルタで、ゑやゐなどちょっとわからない字があったけど、おばあちゃんがやさしくおしえてくれました。

それから、おばあちゃんが家にいたときにあみものをおしえてくれました。

おばあちゃんは、あむのが早くてとてもうまかったです。

マフラーをあんでいて赤色のとてもかわいいマフラーでした。

おばあちゃんは、料理がとてもとくいでした。

私はおばあちゃんが作る赤はんやまぜごはんがとても好きでした。

おばあちゃん、天国でも私たちのことをみまもっていてください。

 小野永生さん

 

《総代挨拶》

長きに渡り、総代を立派に務められました甲斐照光さんの後任という話がありました時、一瞬考えました。

元来信仰心の薄い者が何が出来るのかと。

然し他にも、お役に立つ事は一杯あるはずだと、前向にお引受ける事と致しました。

私は戦後生れの五十六歳になりますが、過去二、三十年前は全てがゆっくりとした時を過ごし、

その中で人と人との絆の強いものがありました。

ところが今日の社会では、あまりにもスピードと合理性が強く求められ、日々の生活にゆとりが感じられず、

逆に心の疲労感が漂っているように思えます。

私自身も同様で、毎日のストレスの多い中で仕事の途中でも近くにお寺があれば、

息抜きにちょっと立ち寄ったりしてます。

境内に足を踏み入れると、そこには古い建物や広い庭に古い木立があり、それらを見渡しながら、

しばし時間を止めた静まりの中で、ボーつとしています。

とても心の癒されるのが分ります。心地よいものです。私にとってこの時が大切です。

丁度これを書く直前に九十五歳になる母の最後を迎える事となり、過密な数日を送りました。

そして一段落し、生と死をふと考える中で「人間生きているうちが華だ」とよく言われる言葉を思い出しました。

一人の限られた一生の中で、やりたい事を数多くやる中で、味わえる喜びの瞬間が最も充実した

生の誕のように思えました。

これを機により多くの事を考え、より多くの事を実践してこうと思っております。

 小野宣子さん

 

《義母の思い出》

冬本番を迎え、一段と寒さの厳しくなった一月二十八日の夕暮れ、裏庭でゴミ焼きをしている夫を見つけて、

いそいそと出て行った義母。

焚火に両手をかざしながら、夫と二人、何やら楽しそうに話している。

ちょっと背中を丸めた後姿‥それが元気な義母(小野デン)の最後の姿でした。

享年八十六才。あまりにも突然の旅立ちでした。

お葬式、お逮夜、新盆と、心の中にポッカリ穴のあいたまま、月日はただ慌ただしく過ぎて、又、冬を迎えました。

今年も庭の「ビラカンサ」に赤い実がたくさんつきました。

昨年の秋、小春日の射す窓辺で、ヒヨドリ達が、赤い実をついばみに来るのを、ニコニコと楽しそうに

眺めていた義母の姿つい昨日の事の様に思い出されます。

義母と暮らした三十七年間、何も出来なかった私は、農作業、山の仕事、家庭の仕事、等々、

あらゆる事を教えてもらいました。

外の仕事のない時は、家の中で縫い物をしたり、お盆の万十作り、正月の餅つき、こんにゃくやそば打ち、

ゴマ豆腐作りと、とにかく働き者の義母でした。

特に、もろみやぜんまいの煮物は各別のおいしさで、何度挑戦しても、義母の味には、まだまだ

追いつけません。

又、義母は、いつでも二~三日先の事を考えている様な気忙しさのある反面、怒る事も、腹を立てる事もない、

本当に穏やかな性格の人で、短気な私は、いつも迷惑ばかりかけていたような気がします。

そんな義母は、いつも一緒にいた義父が亡くなってからも、一人で畑仕事や家の仕事に頑張っていました。

一人になり、とても淋しかった事でしょう。

そのうち、義母の様子が少しずつ変化しはじめ、除々に子供に還っていく義母に、戸惑いながらの毎日でした。

義父を亡くしてからの義母の淋しさを、少しも分かってやれなかった事が、本当に悔まれます。

今、私は、ホームヘルパーの仕事をしています。

「いつか義母の介護をする時、少しでも役立てば。」と思い、選んだ仕事でしたが、

私の手をわずらわす事もなく、突然逝ってしまったのです。

「私の事はもういいから、少しでも困っている人の役に立ってあげなさい。」と言うように、

遺影の義母は、静かに微笑んでいます。

ついに先日、義母を知る人に、「貴女が話をする時の、ゆったりした雰囲気と笑顔が、

デンさんに似てきた……。」と言われ、ビックリすると共に、あの屈託のない穏やかな笑顔に、

少しだけでも近づけたのかなと、嬉しくなりました。

今、義父母をはじめ、多くの御先祖様に見守られながら、家族が健康で生活出来る事に感謝する毎日です。

合掌

大塚久さん

 

《佐伯中学校第三〇回生・・・弔辞》

和尚さん、とうとうお別れの言葉を述べる時が来ました。

平成十八年六月一日午後二時四十五分、二階病棟詰所からの「お別れにおいでください」との電話で、

君の末期を知りました。

三時間前は、ねまき姿でしたが衣がえの日を待っていたかのように、君はきっちり白装束に身を固め、

さすがと思うほどの見事な幕引き、穏かな顔つきの中に凛とした男ぶりを見せました。

ことの始めは昨年十月初旬のある日でした。

いつものように組織診断の仕事を進めるうち、肺の扁平上皮癌を見つけました。

ふだん患者の氏名など確かめることもないのに、そのときばかりは何となく氏名欄に目を運び、

そこに君の姓名を発見したのでした。

衝撃が体を貫きました。

径六センチという大きさが私を暗闇に突き落としました。

二日後病院の廊下で、看護婦につきそわれる車椅子の君と出会いました。

つとめて明るく「やあ」と声をかけ、ハイタッチを交わしたのでした。君も笑顔でした。

その日以後、土日以外は毎日病室に通いました。

当初は抗癌剤がよく効き、腫瘍マーカーの値は1/10にまで下がり、呼吸困難もかなり改善されました。

三月中旬からステロイド剤の投与を受け、見る見る元気をとり戻し、食欲も増進しました。

三度の病院食やデザートのほか、持ち込みの果物、魚、肉、菓子なんでもパクパク、話しぶりも昔に返り、

口をさしはさむ暇を与えずこちらは相槌をうつのがやっとという日が続きました。

三月下旬、桜が咲き始める頃からほゞ二ヵ月、正定寺の離れで、君も御家族も明るい幸せな日々を

過すことができました。

二週間ごとにお訪ねした私たちも、宝物のように尊い日時であったはずだと、君のために心の

底から喜びました。

五月中旬、再入院からの二週間、日ごとに衰えを見せましたが、痛みや苦しみを訴えることもなく、

時折りの呼吸困難も痰の吸引ですぐに安らかになりました。

奥様の願い通り、痛まず苦しまず眠るように安らかに息を引きとったのでした。

療養中の八ヵ月、佐伯市にいる十人ほどの同級生が、病院に、または直川のご自宅に入れ替わり立ち代り

君の顔を見に立ち寄ってくれました。

過去六年間に関東と佐伯で十人の級友を失いましたが君ほどたくさんの同級生から、

しかも度々の見舞いを受けた人はいません。

君がみんなから親しまれ、愛されていたからです。君の人柄の故です。

ご家族の献身的な看護も浴びるほどに受け、一番幸せな病人でした。

君はまぶしいほどに光り輝くこともなく、あでやかな彩りに包まれるという派手な存在ではなかった。

しかし目立たない君のそばには、じんわりと穏やかに伝わる暖か味がありました。

長いつき合いの中で、君の怒りの言葉、荒げた声、罵り、ましてや叱咤、罵詈雑言、中傷、誹謗の

言葉を聞いたことがなかった。

温和、平穏、柔和、寛恕、寛大、穏便、穏当、ともかく穏やかで優しく暖かい人柄でした。

おそらくこのお人柄は生来のものでありましょうが、もしかすると戦中戦後の困難、混乱の時期に、

仏教大学に学び、仏門にはいり、辛苦・艱難の修行の中でしっかりと身につけ、あるいは生来の

美徳に磨きをかけたのかもしれません。

不治の病であることを知りながら、ふだん通りの談笑を交わす中で、恨み言、後悔、愚痴、不安、

恐怖の言葉も口にしませんでした。

そして親しまれる人柄に花を添えたのが飾らぬひょうきんさでした。

軽妙酒脱な茶目っ気、これだけは光っていましたよ。

子供の頃から、クラスの中で笑いの渦があると、その中心にはいつも君がいた。

くしくも六月一日未明、君は少年時代の姿で私の夢に現れ、「別れに来たんよ。上んごと行くんか、

下ん方か道がよう分らん。すまんが推薦状を二通書いちくれんかのー」とのたまうた。

君が仏門、正定寺で果した功績の数々を私は知らない。

しかし多くの檀家の方々、土地の人々から愛され、親しまれ、敬れたことは間違いない。

和尚さん、それで十分ではないでしょうか。

宗教家としてそれが一番大きな功績ではないでしょうか。

力一ぱいの拍手喝采を贈ります。

佐伯中学第三〇回生が織りなす星座の中で、大きく光り輝くことはないが、なくてはならぬ暖かい色の

星が一つ消えてしまいました。八十年の長い生涯、ご苦労さんでした。

 小田木聖孝さん

 

《第四回花園青壮年部大会(ボランティア組織結成大会)に参加して》

九月十五日から十六日の一泊二日で京都本山妙心寺と花園会館において全国から一八二名の方の

参加により青壮年部大会が開催されました。

今回はボランティア組織結成大会という事もあり、災害時特に前ぶれもなく突然襲ってくる地震時に関する

ボランティア活動について、お話や訓練がありました。

第一日目十五日は午後一時から東海大光管長猊下が御出席され開会式がありました。

その後、一色花園会本部長の基調講演つづいて特別講演関西在住のプロゴルファー古市忠夫さんにより

「がんばれることへの感謝」と題してお話がありました。

この方はゴルファーになる前は神戸市長田区の高鳥屋商店街でカメラ店を経営し町内会の色々な

世話役もされていたということでした。

昭和十五年生まれで平成十二年(昭和七十五年)にプロゴルファーでは最年長でプロテストに

合格された方です。

そのきっかけとは、今から十年前のあの阪神淡路大震災であったと、家も財産も家族までも失い

多くの人が絶望の中にあって、焼け野原の中から町の復興のため「自らのプロゴルファーになる」という夢に

挑戦することで、町のみんなに勇気と希望を与える事が出来るのではないか。

そして実現することができたと話していました。

プロゴルファーと言えば普通は、小さい頃から英才教育を受け、才能・体力とも優れたごく一握りの

人にしか与えられない資格であり、この方は還暦直前に年間数十人しか合格しない厳しいプロテストに

合格するという過去に例のない偉業を成し遂げられました。

これは、六十才という年齢で人並み優れた体力・才能があったわけではなく、努力と感謝する心を

いつも持ち続けていた。

プロゴルファーになるためには、家族の支えがあったこと、また町の人たちみんなが応援してくれたこと、

その沢山の人の支え、励ましがあったから、頑張る事が出来た。

【ひとはひとりでは生きていけない沢山の人のお陰で生きている】と言われました。

また、話の途中で病魔に犯されて余命わずかな熊本の二十二歳の青年の書かれた詩を紹介されました。

【壁】という題で『壁に立ち向かってぼくはいま、これは壁ではなく扉かも知れない、

早くこの扉の鍵を開けたい、そのために頑張ろうと思った。

そして、壁にぶつかったことに感謝している、うれしいと、今、生きているだけで十分幸せだ!』

人は常に積極性を持ちそしてみんなに感謝する人になるように心がけることが大切である。

また人生一期一会で出合った人、誰の話でも聞く姿勢が必要である。

そして人は心の若さいつも前向きな姿勢が必要で、身体の老いる事へも感謝をすると言われました。

これらのことは、今皆さんのおかげで生かされている自分を感謝し皆さんのために自分に出来る

何かをしましょう、と言う事ではないかなと思いました。

特別講演に続き、京都市消防局右京消防署の予防課長さんを初め署員の方々より、

実地訓練がありました。

これは人形を使った心肺蘇生法と電気的な機械を使ったAED(自動体外除細動器)の使い方を

参加者全員で実践しました。

心筋梗塞や不整脈等で心臓が止まった場合は、一秒でも早くその現場に居合わせた人が、

救命処置を行う事が大切であること、そしてそれで人の命を救う事が出来るという事でした、

私も実際そうゆう場面に遭遇しなければ分からないと思いますが、落ち着いて救命処置ができたらと思います。

二日目は、午前五時三十分に起床し朝のお勤め朝食の粥座(しゅくざ)のために花園会館より歩いて

隣の本山妙心寺へと向かいました。

南門より入場し、山門・仏殿・法堂へと進みました。

それぞれに格式をもつ塔頭が荘厳な雰囲気を醸し出していました。

妙心寺はもともと離宮だったのを花園上皇様が禅寺に改めたとの事で、庭園もすばらしいものでした、

またこのあたりは四季の花々が咲くことで花園と言う名前がついたそうです。

生まれてからこのような大きなお寺を目にしたのは、初めてでしたが全国三千四百ヶ寺の総本山と言う事で

すごいなと思いました。

天井一面には八方にらみの竜が描かれている法堂では和尚さん方の御指導で座禅を行いました。

ここでは静かに座って体と心と呼吸を整えました。

次に食堂で朝食の粥座を作法にのっとり頂ました。

その後は、花園会館に戻り前日の研修に引き続き、避難訓練消火器と消火栓による消化放水訓練と

救急搬送や地震体験車、野外炊き出しを体験しました。

その日は台風十一号が九州接近したこともあり急ぎ帰路につきました。

わが故郷直川へは、京都から約八百kmJRを乗り継いで約6時間でした。

今回本山での青壮年部大会へ参加をさせて頂き、大変心に残る良い研修をさせて頂ました。

皆様もぜひ機会があれば、『花園』本山妙心寺へお参りになりられますようお勧め致します。

最後に『一日一度は静かに座って、体と心と呼吸を整えましょう、今生かされている自分に感謝し

報恩の行を積みましょう』

合掌ありがとうございました。

小野永生さん

 

《妙心寺650年遠諱法要にて》

開山さまが今から650年前に84才で亡くなられ、今年が丁度50年に一度の本山法要が営まれ

今回このご縁で参拝させて頂きました。

日程は10月7日からの3泊4日でしたが台風17号・18号の上陸予報で出発が直前まで危ぶまれる状況の中、

私達は台風より一足早く目的地に到着が出来、参加者一同ホッとしておりました。

正定寺より42名の参加予定でしたが直前になり小原住職の体調不良により同行出来なかった事が

誠に残念ではありましたが、代りに奥様が全員のお世話役で頑張ってる姿に目頭の熱くなるのを覚えました。

到着初日は奈良東大寺の大仏様に約20年ぶりに再会しました。

改めて建物の大きさや大仏様の大きさに、ただただ「大きいなぁー大きいなぁー」の連発でした。

建物を支える直径2mを超えるような大きな柱を見上げながら、つい「どこからもってきたんやろうか?」

「杉じゃろうか?檜じゃろうか?」と毎回同じような疑問が出るくらい素晴しいものばかりでした。

二日目は高野山への参拝。

ここは四国八十八ヶ所巡礼の最後が高野山と言われる所です。

戦国の武将から、時の総理大臣、そして経済界や文化人等各界の著名な方々の墓が所狭しと並んでます。

生きてる時は皆んな名を馳せた御人ばかりでしょうが、土の中に眠ってる状態は「無」でしか感じられません。

やはり人間は「生」ある間がいかに大切な事で、又大切にして日々の生活を過ごすようにしたいと考えます。

それと他にもう1つ目をみはるのが樹齢200年を超えたような素晴しい杉並木で何度みてもほれぼれします。

三日目が今回目的の本山法要です。

午後からの法要の前に朝一番での訪問先は正定寺後継者(拓朗君)の修行寺の相国寺(ショウコクジ)でした。

あの有名な金閣寺・銀閣寺をかかえる大変大きなお寺で伺った時に若い修行僧が

朝の庭清掃に励んでおりましたが、その中に拓朗君は居ませんでしたが、

修行期間中は面会も出来ないし相国寺の修行は大変厳しいとのことです。

いよいよ本山です。

東京ドーム7つ分の広い敷地の中に数多くの寺院があるのに驚きです。

4人の弟子にそれぞれ寺を持たせその1つに龍泉庵という大きな寺がありこれが正定寺の直属の

寺であるとの事で入念に見学し、他の所もさまざまなものを見させて頂き、

お昼には大広間での精進料理を物めずらしくいただきました。

2時からの650年遠諱法要がローソクだけのうす暗い中でおごそかに約1時間行われる中、

つい午前中の歩き疲れが心地よい読経になったりもしましたが無事今回の目的を成す事が出来ました。

一行はそのまま関西フェリー乗場にバスにて向かい夕食は船上にてとり翌朝大分港に到着。

全く予期していない事がありました。

入院術後の身体をおして小原住職が和可子ちゃん(娘)の介添で立って迎えてくれたではないですか。

またまた目頭が熱くなったものです。

今回初めての妙心寺本山の参拝で41名の方が無事に目的を果たせ、

日頃接する事もなかなか機会のない方々と旅行を通じふれあいを築けた事に感謝申しあげます。

檀信徒総代 小野永生さん

 

《晋山式へのお礼》

新年明けましてお目出とうございます。

昨年は皆様方には大変なご協力いただき誠に有り難うございました。

 

お陰をもちまして三十年ぶりの晋山式を大勢の方が見守る中、立派に成す事が出来ました。

そして五百年の歴史を誇ります私共の菩提寺正定寺に新御住職様をお迎え出来ました事を

共に喜び感謝でいっぱいです。

先ずは儀式を執り行って頂きました洞明寺、崇圓寺、瑞祥寺の各法類の和尚様をはじめ、

北は一昨年の東北大震災で未だ復興にご苦労されておられます宮城県より南は沖縄県まで全国各地より

七十七ヶ寺の和尚様にお集まりいただき江戸時代からの厳粛なる儀式が行われ正定寺に代々受継がれて

おります「衣」を第二十三世寿山和尚様より第二十四世南陽和尚様へと継がれ新御住職様の誕生

相成りました事に全ての和尚様に感謝申し上げます。

 

並びに三九八軒の檀家の皆様、そして関係者各方面の方々にお礼申し上げます。

約三年前に前御住職様の体調に異変が生じ、それより晋山式の準備を始めましてからは世話人様を

通じまして地区毎の説明会をさせて頂く中ご協力をお願いさせて頂きました。

 

皆様方からの前向きなご理解と当日までのご協力により全てが順調に進みました事に深

く感謝申し上げます。

更に心暖まる過分なるご寄進をしていただきました篤志の方々に紙面をお借りして厚くお礼申し上げます。

又いつもお世話していただいております地区世話人さん、花園会女性部、花園会青年部、他役員の方々には

三年間に渡り仕事の傍ら準備に携わりのご協力有り難うございました。

最後になりましたが、先御住職様には三十年の長きに渡り大変お疲れさまでした。

 

そして何時も私共檀家の事を大切に思って頂き、又やさしく接していただき、全てに感謝の気持でいっぱいです。

ありがとうございました。準備にかかる三年前に「元気な姿で晋山式を見届けたい」と言われた言葉を

儀式の途中に思い出し、こみあげるものがありました。今後は少し身体をいたわりゆっくりして下さい。

 

今迄にお受けしましたご恩は今後、新御住職様のお導きの基、新たなる気持で菩提寺の護寺運営により

一層お努めします事をお約束し今迄の感謝に代えさせていただきます。

2012年が奇しくも三十年ぶりの晋山式と二百年前の百姓一揆が丁度重なった年でもありました事を

最後に記して。

花園会女性部 大竹 琴美さん

 

先般11月24日に行われました第二十四世新命南陽和尚様の格式ある晋山式が日本各地から

七十余名の和尚樣方をお迎えして、盛大な中にもおごそかに執り行われました事本当に感銘いたしました。

 

各総代様、役員の皆様、壇信徒の方々、女性部役員の皆様、一般参拝者の皆々様の絶大なる

ご協力を頂きました事感謝の気持ちでいっぱいです。

 

又、分衛所、安下所、茶礼所の皆様方には、ひとかたならぬご配慮ご厚情を賜り心からお礼申し上げます。

そんな中役員の皆様には、和服の礼装を着て戴き身の引き締まる思いと華やいだ気持ちを同時に体験させて

戴きました。

 

今後は新命和尚様におかれましては、壇信徒の見守る中益々のご活躍と精進されまして

皆様に愛される新命南陽和尚なられる事と信じて居ります。

壇信徒の皆様と一致団結して由緒ある寶林山正定寺様の一員として少しでも自分に出来る事から前進して

参りたいと思って居ります。言葉は尽くせませんが御礼のご挨拶と致します。

 

皆様本当にお世話になり有難う御座いました。

小野潔さん

 

御檀家の皆様、お変わり御座いませんか。

私を含め遠くに住む檀家は、寺報やホームページを拝見するのをとても楽しみにしていると思います。

 

私は今年54歳で京都に8年前から住んでいます。

高校まで福岡で生活して大学と社会人で26年間東京暮らしをしていました。    

若い頃は信仰する心の余裕もなく、仏教や寺院に特別の関心を持っていませんでした。 

10年前に父が亡くなってからは、健康と生活に深い関わりがある様に思え、頻繫に神社仏閣に

お参りするようになり、今年1月に母が亡くなるまで続きました。

そして、母が亡くなった後もその習慣は変わっていません。

 

京都に転勤になった際に、妙心寺にもお参りさせてもらいました。

今まで観た事の無い、敷地の広さ大きさに感動し愕然としました。

外の世界とは違う「凛」とした静けさや寺院の歴史の重さを肌身に感じました。

東京に憧れた大学生活や都会生活の中で、今の現代人が一様に思うのと同じように近代的なビル建築や

高層のスカイツリーを優れた文化文明と思っていました。

 

しかし、古都の歴史や寺院に接することにより、自分が目にしている近代的なものは心の通わない

中身のない薄っぺらいもののように思えて、何かを勘違いをしていたのではないかと思うようになりました。

それからは、不幸な事や新しく物事を始める時、悩みがある時には、目には見えない何かに仏様や

仏壇を通して手を合わせる様になりました。

 

特に寺院などお参りに行くと、何か不思議に心が落ち着きます。

現代人は私も含め、何かと自己中心になり、自分が何のために生かされているのかを見失って          

しまいがちです。    

 

仏教を少しでも信仰することが、私たちの生活を安定、浄化させ、精神的にも健全な人生が送れる

ものと考えています。

 

最後に、正定寺のホームページのブログなどを拝見し、前より一層に身近に感じられ仏教の信仰に

関心に持っています。

ホームページがこれからの若い世代の、一つの大きな橋渡しになると確信しています。

これからも宜しく御願いします。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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