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 偉人や風習習慣の紹介

旧川原木村や直川村で行われている仏事の風習や習慣とこの村出身の偉人をなどを記しています。
四十九日餅と団子

「忌明け(四十九日)」を迎えると「お餅」をお供えする風習があります。

 

「四十九日餅」の由来は、今から千年前に作られた【無縁慈悲集】と【地蔵十王経選注】の二つの教典が

もとになって、現在までその風習が続いています。

  

【無縁慈悲集】と云うお経には、次のように記されています。

 

《閻魔さまの勘文に、死者は四十九日(忌中)の間、毎日それぞれ長さ一尺の四十九本の釘を、目に二本・

耳に二本・舌に六本・胸に十八本・腹に六本・足に十五本、あわせて四十九箇所に打たれる。

 

その釘を抜き、その痛みを除くには、経文を開くと目の二本が抜け、回向を唱えるとき耳の二本が、

願文を唱えるとき舌の六本、仏の経を唱えるとき胸の十八本、仏像を造りお経を写すと腹の六本が、

そして僧侶を招き読経を頂ければ足の十五本が抜け救われる》

 

【地蔵十王経選注】と云うお経には、次のように記されています。

 

《ある人が、生き返ってあの世の事を話すには、一尺六寸の厚さの餅を三十七枚と三尺六寸の餅十二枚

合わせて四十九枚を死者に奉納すれば、釘は餅にあたって痛みが無く、無事に浄土に生まれ変わる》と

説かれています。

※一尺(約30㎝)・一寸(約3㎝) 

 

「四十九の餅」は故人の痛みを除くために供えられたのです。

 

もともとは死人が出るとすぐに「四十九の餅」をついたのですが、餅米がなかなか手に入らない時代には、

米粉の「だんご」を作ることで餅の代用をしました。

葬儀から四十九日(忌明け)までの法要や年忌に「だんご」を供えるのは、

この「四十九餅」が由来となっています。

 

貧しい家では餅米が手に入らないので、四十九日の間に親族や知人の家々を廻って

餅米を乞い二臼(約四升)を集めます。

 

四十九日までは「あの世」に行かずに家の「屋棟」(やのむね・やのみね)に亡き人は居ると云われています。

これは、「十王経」が元になり、佐伯地方では『死者は四十九日までは屋棟に居る』と云います。

 

普段お供えする一対(二盛り)のだんごは49個ではなくて40個です。

 

これは、「始終苦・しじゅうく(49)の苦(9)を取る」と言う風習から、49個から9個(苦)を除いて

40個とし、それぞれピラミッドの様な形に盛りつけで下から4個・3個・2個そして頭に1個と20個を盛って

1対(20個と20個)にしてお供えしています。

 

正定寺檀徒(仁田原村)の物語に由来する「四十九日餅」

 

「四十九日餅」は、「一臼で一盛」と云われ「四十九枚の小餅と小餅より少し大きい中餅を三枚」を作ります。

この時に「二度数えをしない」と云って小餅の数をあらためて確認するような事は致しません。

 

「中餅の三枚」は「額(おでこ)と両膝(ひざぼん)」の分と伝えられています。

  

【オデコとヒザボンの物語】

 

その昔、この仁田原村に年老いたお姑(義母)さんと優しいお嫁さんがいました。

 家族は貧しいながらも幸せに暮らしていました。

 

そんなある日、お姑さんが病にかかり、お嫁さんの看病手当のかいもなく,、やがて亡くなってしまいました。

 

お姑さんを実の母のように慕っていたお嫁さんは、四十九日間かかって餅米を遠くの村々まで探し求めて、

 やっと、四十九日を迎える日の霊前に四十九日餅をお供えしました。

 

杵の打つ音や四十九日法要の読経を聞いたお姑さんが、「屋棟」(やのむね・やのみね)から

 庭先に最後のお別れに舞い降り、ひざまずいて仏間にいるお嫁さんに手を合わせたそうです。

 

そして、

  

『生きているときには、貴方(お嫁さん)に気遣った言葉も言えず、たいそう辛くせっしたこともあったろうに、

 何の愚痴も言わずに、私の為に遠い親戚まで餅米を乞いに行き、四十九日の餅をこさえてくれました。

 本当に感謝しています。』と何度も頭を下げたそうです。

 

どうしたことか、庭先でぬかずくお姑さんの姿がお嫁さんだけには見えました。

 お嫁さんはあわててお姑さんにかけより、

 

『お母さん、どうか頭を上げてください。膝や額が泥で汚れます。どうかひざまずかないでください』と

 声をかけます。

しかし、お姑さんはお嫁さんの追善供養に感謝して、なんど声をかけても、頭を上げようとはしませんでした。

 

そこで、お嫁さんは三枚の餅を新たにつき、庭先にぬかずくお姑さんの「両膝と額」に餅を敷き、

 大切なお姑さんの体が泥で汚れないようにしました。

 

この「両膝と額」の餅が「オデコとヒザボン」の餅です。

 

お姑さんは、優しいお嫁さんの心遣いに感謝しながらいつまでも手を合わせながら極楽浄土へと

 旅だったそうです。

この物語が正定寺の「四十九日餅」の由来となり、「小餅を四十九枚と中餅三枚」の数となりました。

 

お年寄りに「三枚余分の餅は何なの?」と聞けば、「オデコとヒザボン」の分と今でも応えます。

この「四十九餅」の餅数はそれぞれの地域で違いますが、私は「四十九枚と余分の餅三枚」の話が

とても好きです。

おばあさんからお嫁さんへそして次のお嫁さんへと子々孫々といつまでも受け継がれてほしい風習です。

 

数百年の間に、この物語が仁田原村から佐伯藩の村々へと伝わりました。

また、旧竹田岡藩の宇目(現在は佐伯市)は「山門の毒味」という物語が伝えられました。

 

佐伯藩と岡藩の境界にある「桜峠」を隔てて同じ「四十九日餅」でも違った風習が生まれました。

粥の和尚と云われた佐伯藩の名僧乾堂和尚
乾堂和尚の扁額

けんどうおしょうのへんがく

りゅうていざん・ようけんじ

けんどう

ぜんじゅ

龍鼎山養賢寺の和尚さんで号を乾堂・字を全壽と言う

徳の高い禅僧がいました。

 

乾堂和尚は豊後府内の生まれ(現:大分市稙田小原 わさだ・おばる)で初めは正定寺第六世の

住職になります。

その後、元禄12年に養賢寺へ転錫、元禄15年養賢寺第九世になられました。

元文4年(1739)二〇五世展待する。(瑞泉寺)

 

養賢寺は佐伯藩主毛利公の菩提寺でその中でもご開山の三関和尚と九世の乾堂和尚は広く仏教の教典に

通じた高僧でした。

 

六代藩主 毛利高慶公(もうり たかよし)は深く乾堂和尚に帰依し、乾堂和尚が経典を講ずるときには、

必ずその席に臨んで聴聞したといわれています。

 

宝永4年(1707)4月(310年前) 乾堂和尚が円覚経を講じた時は、 遠近の僧侶はいうまでもなく家中を挙げて

その席に臨み、聴衆 があふれるほどであったといいます。

これにたいして、高慶公は白銀百両・米二〇俵を寄進して、こ れを支援しました。

 

乾堂和尚は33年間養賢寺の住職をなされ、享保19年(1734)養賢寺近くの臼坪に寶林庵をむすび

隠居しました。

 

この寶林庵の「寶林」は乾堂和尚が初住した正定寺の山号「寶林山」から付けられました。

寛保2年(1742)(275年前) 12月31日遷化なされ養賢寺の祖師塔に葬られています。

 

乾堂和尚の元には諸国あまたから大勢の雲水(修行僧)が集まっていました。

戒律を守ることも厳正であった乾堂和尚は、雲水達に常々

『一滴の水・一枚の菜・一粒の米麦も粗末にするな』と戒めていました。

 

しかし、雲水は大勢で若くもあり釜に付いた飯や鉢に付いた食べ残しは洗うときに溝へ流れて

捨てられていました。

それを知った乾堂和尚は人の寝静まるのを待って水流しの外にざるをかけ、ざるにたまった飯粒をとり、

水で洗って蓄え「おかゆ」に煮て食 べていました。

乾堂和尚の逸話(佐伯人物伝より)

 

ある時、悪い噂が誰からともなく起こりました。

 

『乾堂和尚は持戒堅固の聖僧のごとく思われているが、その実は戒行の低いニセ坊主で、

毎晩人々の寝静まるころを見計らって、ひそかに自分の部屋で山海の珍味を味わい、

酒食におぼれている』という噂です。

 

真実を知ろうと佐伯藩の家老が寺に忍びこんで様子をうかがうと、噂に違わず和尚は別鍋を作って

舌鼓を打っていました。

 

家老は早速登城して藩主毛利高慶公に告げました。

 

乾堂和尚に帰依しておられた高慶公は和尚の人柄と家老の言葉とにあまりにも違いがひどいので、

自ら真相を確かめることにしました。

 

ある夜のこと、人々が寝につくのを見計らって高慶公は屋敷を忍び出られ、養賢寺の方丈前の庭に

忍び込み様子をうかがっていました。

 

家老の言葉に違わず、乾堂和尚は何か煮物をして食べておるとみえ、ごちそうのにおいが香ってきたそうです。

 

高慶公は乾堂和尚に帰依しておられただけに、裏切られたという憤懣も激しく、いきなり縁先から

雨戸を押し開けて方丈に飛び込みました。

 

乾堂和尚は不意の客に囲炉裡にかけていた土鍋にふたをして隣室に隠し、ふすまを締め、居ずまいを正して、

 

『この真夜中に先触れもなく御光来、ご急用は何事でござりましょうか。

夜中のこととて室内も取り乱しており、ご無礼のほどお許しを願いとうござります』と

声も乱さずに藩公に申し出られた。

 

藩公は和尚が隠しごとをして酒肉に心を乱されていると思いこんでおられるから、和尚の言葉も

ろくに耳には入らない。

 

『隣の部屋に隠されたのは、あれは何物でござるか。隠されても容赦は相なりませぬ』と厳しく問いました。

 

乾堂和尚はこのままお見逃し願いたいと頭を畳に付けるようにして、わび入るが殿様はかえって

不審を増すばかりで聞き入れません。

 

和尚はもはや、白状するより方法はないと土鍋を隣の部屋から持って出て

 

『夜中更けての小鍋立ての儀、つつみ隠さず申し上げます。

当寺には諸国から多数の僧侶が集まって修行致しております。

それらの雲水に対し、水一滴も無駄に使ってはならぬ、野菜一葉も粗末にするな、米一粒も大切にせよと

禅僧の心得をいい聞かせおることでございまするが、人数は多く若い年頃のこととて思うようになりませぬ。

台所の流し元などには、ご飯粒や野菜の切れ端などがこぼされたり流されたりしておりまする。

 

これは仏罪が当たる、もったいなきことと思いまして、人知れず台所の流し場の外口にざるをかけ、

毎夜、皆の衆が睡眠した後で取り出しで洗い塩をまぶし、炉の残り火でグツグツと煮て雑炊を作り、

夕食の代わりに頂く次第でございます。

 

かようにお見苦しきものをお目にかけたばかりでなく、藩公のお心をわずらわし誠に相済まぬことに

存じまする」と夜中のごちそうの事情を詳しく申し述べられました。

 

藩主高慶公は和尚の話を聞かれて、自分の軽々しい行動をいたく後悔され、

『たとえ一時でも老僧のご心行をお疑い申し上げ、誠に申し訳ないことを致しました。

かくのごとき始末のことにまで心を配られて修行僧を導かれているとは思い至りませんせした。

ご無礼のことを致しました。

米一粒、野菜一葉をも大切にせねばならぬというご教訓、毛利家の家宝として護持致したいと思います。』

 

何とぞ無礼の程はお許し下されたい といって静かに両手を合わせて合掌礼拝されました。

それから乾堂和尚は「粥の和尚」と称されるようになり益々諸国から雲水が集まり

「豊後佐伯にすぎたる養賢寺」と云われるようになりました。

 

飽食の時代である現在、乾堂和尚のコトバを今一度かみしめたいと思います。

  

【後書き】

この「乾堂和尚」のページはあちこちのネットや書物から拾い集めて作りました。

文章には元記事の文面もあります。ご寛容ください。

枕経の一本華は「茶の木」

人が亡くなり最初に読経される法要を「枕経」といいます。

故人が眠る布団のそばで飾る「枕飾り」は、遺族や縁者の悲しみを現し実に簡素に飾り付けられます。

 

枕飾りは簡単な霊具膳を盛り飯・塩・味噌で供え、塩・味噌も無い質素なものもあります。

 

線香・ろうそく・華・香炉・リンなどが備えられます。供える「華」は1本とされ、菊・色華・シキミなどが一般的です。

 

ここ川原木村では昔からこの「一本華」を「茶の木」にします。

庭先に植えている茶の木の枝を切って1本を供えます。

 

この茶の木は通夜までの華で葬儀には使いません。

葬儀は通常の生花になります。

 

この「一本華」は、お釈迦様の「涅槃縁起」の故事が元になった死後直後の飾り方です。

 

 

正定寺では何故「茶の木(枝)」を挿すようになったのでしょうか?

 

直川でも30年ほど前までは、どの家も茶摘みをして自前の窯で茶を煎っていました。

今では珍しい光景となりましたが、このお茶の製造を伝えたのが正定寺第20世の鐵山義澄和尚です。

 

明治以前は、山茶を摘んで蒸したり炒めたりしていました。

なかなか保存もうまくいかず製品としても充分ではありませんでした。

  

鐵山和尚は正定寺に晋山する以前は、弥生村江良の洞明寺の弟子でしたが、師匠を代えて

本匠村因尾の瑞祥寺の弟子として正定寺に晋山しています。 

この因尾と言う地域は江戸時代からお茶の生産が行われ、今では「因尾茶」として佐伯の物産品にも

成っているお茶どころでした。 

  

明治16年に正定寺に晋山した鐵山和尚は、遠くは静岡まで出かけて茶製造を学び「煎茶」製造の普及に

努めました。

 

明治中期以降は、自然生えしていた茶の木を畑の周辺や身近な場所に植林してお茶を摘むようになりました。

そして、どの家でも「窯煎り茶」をするようになりました。

今でも、お年寄りの中にはお茶の作り方を「お寺の茶」と言う方がいます

  

鐵山和尚が遷化(亡くなる)した明治45年以降は、その功績や遺徳を偲んで「茶の木」を枕経の

一本花とする風習が生まれました。

 

枕経に飾る「一本の花」を四季を問わず青々とした「茶の木」とするのは正定寺檀家だけの伝統風習です。

 

その後、正定寺では「献茶会法要」を行い近隣の寺院では珍しい「新茶(煎り茶)」をご先祖さまに奉納します。

 

献茶会の新茶は檀家さんが先祖への報恩を想いながら100年以上続く行事で、

子孫へ伝えて行きたい法要の一つです。

 

写真は明治28年(122年前)、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に出品した煎茶が

その栄を受けた褒状です。

直川で採れた茶葉で作られた煎茶が全国で認められた証です

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